第四章 朗読用作風

「ほんと、ランドセルって、どうしてこんなに高いのかしら……」


 スマホの画面には、五万円を超える新しいランドセルがズラリと並んでいた。

 曇った窓ガラスに、百合子のふうっと漏れた息が白く滲む。


 冬の名残をまとったやまももの花が、かすかに、ゆらゆらと揺れていた。


 百合子は、叔母の旅館で仲居として働いている。


 生活は決して楽ではない。貧しくても、明るくて、よく笑う人だ。

 それでも、ふとした瞬間、その瞳に、ぽつんと影がさすこともあった。


 亡くなった夫の忘れ形見。

 娘のメイを、たったひとりで育てている。


 そして、この春。

 メイは、ピカピカの一年生になる。


 百合子は、愛する娘のために、深い赤のランドセルを探していた。


 それは、メイが一番好きな色。

 だけど、値段と品質のはざまで、なかなか「これ」と決められずにいた。


 そんなときだ——それは偶然か、それとも奇跡か。

 視線を奪われたのは、『メビウスの輪』という名のフリマサイトだった。


 画面に浮かび上がったのは、まるで新品のような赤いランドセル。


 その瞬間、「これだよ!」と、まるで誰かから、そっと耳もとでささやかれたような気がした。


 ランドセルは約束どおり、一週間後に届いた。それは、つやつやと美しく、虹色のキーホルダーと、一枚の手書きメモが添えられていた。


「代金やお礼は必要ありません。どうか、大切に使ってください」


 その文字からは……じんわりと、祈りが滲むような優しさが伝わってきた。


 入学式の日。

 愛娘のメイは、真新しい赤いランドセルを背負い、胸を張って学校へ向かった。

 その背中は小さかったが、希望でピカピカに光っていた。


 けれど、数日が過ぎたころ。

 百合子の心の奥に、ふわふわと、言葉にならない違和感が浮かびはじめた。


「メイちゃん、一緒に学校行こう」


 毎朝、そう声をかけてくる少女。

 かすみちゃん、と名乗る子。

 黒髪が春風に揺れて、にこりと微笑む。


 でも、音もなく現れて、いつしかふっと姿を消してしまう。


 そのランドセルには……虹色のお守りが、ついていなかった。


 メイは、ぽつりと言った。


「このカバンを背負うとね、彼女がどれだけ大切にしてたか、ちょっとだけわかる気がするの」


 その言葉に、百合子は胸がぎゅうっと締めつけられた。たとえリユース品でも、ランドセルには、確かに夢と祈りがほんわかと息づいていた。


 百合子は意を決して、出品者に連絡をとった。


 数日後。

 電話の向こうから、小さく震える年配女性の声が聞こえてきた。


「あのランドセルは……小学校入学を楽しみにしていた孫、かすみのためのものでした。でも、入学式の朝に……交通事故で……。亡くなるくらいなら、老い先短いわたしのほうがよかったのに……」


 百合子は、すべてを悟った。


 赤いランドセルの意味も。

 虹色のキーホルダーのぬくもりも。

 そして──ずっと、見えぬ形で寄り添っていた、かすみという少女の存在も……。


「明日ね、かすみちゃんに、これを渡してあげて」


 その夜、百合子は、メイの枕元でそっと言った。


 翌朝。

 メイは、ランドセルから七色のお守りを取り出し、かすみに手渡した。


「これね……あなたが必要だったかもしれないって、ママが言ってたの」


 かすみは、ほんの少し口元をゆるめた。


「ありがとう。……さようなら」


 彼女の声は、ふわっと春のやさしい風に溶けていき、切なくも美しい姿もまた、きらきらした朝の光に包まれて……すっと、消えていった。


 メイの心に、もう、さみしさはなかった。

 あのランドセルといっしょに、かすみの想いも──やさしく残っている気がしたから。


 その日、メイはお絵かき帳を広げ、百合子に見せた。


 そこには──


 桜の花びらが、はらはらと舞う中、

 笑い合う、ふたりの少女の姿。


 メイと、かすみ。

 ふたりとも、赤いランドセルを背負っていた。


 紺碧の空には、淡い七色の虹がかかって、ひらひらと揺れる光の羽が、蝶のように舞っていた。


「もう、バイバイって言っちゃったけど……でもね、もうさみしくないの。このランドセルといっしょに、かすみちゃんも、ずっとわたしのなかにいるから」


 百合子は……

 メイの言葉に、そっと、ぽろぽろと涙をこぼした。


 それは、たしかな“祈り”が届いた証し。

 そして、かすみが遺してくれた、やさしい贈り物だった。


 窓の外では、やまももの花が、ふわりふわりと揺れていた。

 春のそよ風に乗って、やさしい想いが空へと舞い上がっていくようだった。


 そのとき、メイの枕元では、お絵かき帳のページが、ふわりとひとりでにめくれた。


 そこには──

 にっこりと微笑む、かすみの笑顔。


 やまももの香りが、ふわぁっと部屋じゅうに広がり……

 まるで、「ありがとう」と囁くように、春の風に溶けていった。

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