第二章 詩的な作風

 窓辺に、やまももの花がほころんでいた。


 淡い紅に染まり、春の恵風にそよそよと揺れている。ほのかに香るシトラスのような匂いが、季節の訪れをそっと告げていた。


 やまももの花言葉は、「ただひとりを愛する」。


 けれど、愛情だけでは、ランドセルは買えない。


「ほんと……ランドセルって、どうしてこんなに高いのかしら」


 春の陽射しが頬をやわらかく撫でるというのに、百合子の吐息は曇り空のように重かった。


 パソコン画面に並ぶランドセルたちは、どれも五万円を超えている。ため息とともに、カーソルを動かす指先が止まった。


「ああ……手が届かない」


 窓ガラスに映った自分の顔が、いつの間にか翳っていた。


 百合子は、小さな温泉旅館で仲居として働いている。夫を亡くして以来、女手ひとつで娘のメイを育ててきた。古びた畳と湯気の向こうで、ふたりは地道な日々を、こつこつと紡いでいる。


 春の風に手を引かれ、メイは小学校の門をくぐる。袖を通したばかりの新しい服。まだ誰の足跡も知らない、まっさらな靴、そして――未来の夢をそっと詰めた、ランドセル。


 百合子が探していたのは、たったひとつの赤。熟したやまももの実のような、深く鮮やかな紅。その色だけは、どうしても譲れなかった。


 ある晩、ネットの海を彷徨っていて、ふとひとつのサイトが目に留まった。


「メビウスの輪」――どこか懐かしく、時をねじるようなその名前に、胸の奥がふっと震えた。


 画面の中央に、ぽつんと浮かんでいたランドセル。光の加減なのか、ほんのり虹色の光をまとっているように見えた。色は、百合子がずっと探していた、あの深紅だった。


 価格欄には、「応相談」の三文字。


 不思議と、その言葉に温かさを感じた。まるで、誰かが「どうぞ」と差し出してくれているような、そんな気がした。


「……これかもしれない」


 迷いはなかった。


 数日後、届いた段ボール箱には、丁寧に白い紐が結ばれていた。指先にふれると、懐かしい温もりが、ほんのりと伝わってきた気がした。


 箱を開けると、ランドセルと一緒に、虹色に揺れる小さなキーホルダー、そして一枚の手書きのメモが入っていた。


「あなたなら、代金やお礼などは必要ありません。どうか、カバンと一緒にお守りも大切に使ってください」


 その筆跡は震えながらも優しくて、まるで祈りのようだった。百合子は、胸の奥で何かがふっとほどけていくのを感じていた。


 *


 そして、春。入学式の朝。桜の花びらが風にひとひら舞うなか、メイは新しい服に袖を通し、深紅のランドセルを背負って、小さな背中をぴんと伸ばした。


 記念写真のシャッターが切られた一瞬、百合子は、これまでの苦労の日々がやわらかく閉じるのを感じた。まるで、未来からの贈り物のように。


 *


 数日後の朝、メイがぽつりと言った。


「かすみって女の子がね、学校まで案内してくれるの」


「かすみちゃん?」


 百合子は思わず聞き返した。


「うん。同じ色のランドセルだけど、お守りがついてないの。学校の門の前で、いつもいなくなっちゃう」


 メイの声は、夢の中をなぞるように淡く、輪郭があいまいだった。


「でもね、笑ってくれたの。『ランドセル、大事にしてくれてありがとう』って」


 百合子の心に、あの手書きのメモが浮かんだ。何かがつながっている気がした。


 彼女は意を決して、「メビウスの輪」の出品者に連絡を取った。


 数日後、届いた返事の声は、かすれながらも確かだった。


「あれは……孫の、かすみに買ったランドセルでした。入学式の朝に、事故で……交通安全のお守りを、持たせてあげられなかったのが、ずっと心残りで」


 その声の向こうで、かすかな嗚咽が震えていた。静かに、すべての点が線となって結ばれていった。


 メイが出会った「かすみ」は、きっと――ランドセルに宿った熱き想い。その深紅のやまももに咲いていた、祈りの姿だったのだ。


 *


 その夜、百合子は娘の眠る枕元にそっと腰を下ろし、額に手を当てた。


「明日ね、かすみちゃんに、このお守りを渡してあげてくれる?」


 翌朝、春霞にけぶる通学路で、メイは母との約束を胸に、お守りを取り出し、そっと陽炎に向かって差し出した。


「たぶん、あなたがずっと……これを待ってたんだと思うの」


 春の光の中で、誰かが微笑んだ気がした。


「ありがとう。そして、さようなら」


 ふわりと風が吹いた。花びらが舞い、光がやわらかく揺れる。


 少女の姿は、やがて、光の中に溶けていった。


 その日、メイは晴れやかな笑顔で教室へと向かった。


 *


 黄昏れ。メイがお絵かき帳を差し出した。


「ママ、見て」


 そこには、桜の下で手をつなぐふたりの少女の絵が描かれていた。赤いランドセルを背負い、笑顔を交わしていた。


 空には、七色の虹。蝶の羽のように、かすかに光がふるえていた。


「これ、かすみちゃん?」


「うん。でもね、もう彼女にバイバイしちゃったの」


 メイは笑った。


「もう寂しくないよ。わたしの心の中に、かすみちゃんがいるから」


 *


 夜。百合子は、娘の寝顔にそっと囁いた。


「ありがとう、かすみ。あなたが残してくれたものは、メイの一生の宝物になるわ」


 窓の外で、やまももの花がそよ風に揺れていた。どこからか、かすかな「ありがとう」が聞こえた気がした。


 お絵かき帳の最後のページには、やまももの実を頬張るふたりの少女の笑顔。


 そして、風に乗って、ふたりの歌声が聴こえてきた。


 雨ふりこんこん、風ピューララ。

 隠れたお日さまどこいった。

 赤いランドセル背負ったら、

 笑顔ひとつで走りだす。


 やまもものほのかな香りが、春風に舞う天使の羽音のように、いのちの気配とともに、そっと部屋を包みこんでいた――。


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