第一章 純文学作風

 春霞がにじむ窓辺には、冬の名残を宿したやまももが、寂しげに薄紅の花を咲かせていた。


 やわらかな風が、記憶を撫でるように舞い降り、そよぐたびに異なる名と色と匂いをまとう。


 百合子は、やまもものシトラスを思わせるほのかな香りと、青々とした若葉の爽やかな空気に包まれながら、静かに息を吐いた。


 スマホの画面に指を滑らせると、五万円を超える新品のランドセルが、次々と目の前に映し出されていく。


「どうしてランドセルは、こんなにも値が張るのかしら。まるで翅の生えた天使が、果てしない空へ舞い上がっていくように」


 少しでも安いものを探そうとする指先に、ふとしたためらいを覚える。

 

 独り言のようにこぼれたため息は、窓ガラスに淡く触れながら、やがて春風の中へと溶けていった。


 叔母が営む、古き良き時代の面影を残す小さな旅館で、百合子は仲居として懸命に働いている。愛娘とともに、貧しさに屈することなく慎ましく暮らす。それが、今の彼女にとって唯一の誇りだった。

 

 春は、花の爽やかな香りとともに訪れる。百合子は、その春から小学生になる娘のメイのために、六年間寄り添うランドセルを探していた。


 一瞬、安価なリュックタイプも考えたが、できればひとつのものを長く大切に使ってほしい。そんな願いを込めていた。


 やわらかな春風が頬を撫でるたび、メイの肩が少しずつ頼もしくなっていくような気がする。娘の成長を見届ける通学カバン――それを百合子は慎重に選んでいた。


 選ぼうとしているのは、やまももの果実のような、メイの大好きな深紅。記憶の奥で、かすかにぬくもりを灯すその色は、たしかに胸に残っている。


 けれど、どのランドセルも心に響く決め手を欠いていて、ただ時間だけが、百合子の胸に焦燥の刻印を深めていく。


 指先がふと止まり、画面に浮かび上がったのは「メビウスの輪」という名のネットサイトだった。どこか懐かしい響きに、胸の奥で何かがかすかに震えた。


 それは、表裏のないリボンとなり、永遠を映し出し、途切れることのない軌跡を織り成していた。


 目の前に広がるサイトには、ランドセルがひとつだけ表示されていた。赤い皮のかぶせがぽつんと映し出され、夢と現実の狭間に漂うような、ひそやかな存在感を放っている。


 価格欄には「応相談」と記され、毛筆の丁寧な筆致は、いつもとは異なる誰かの祈りの気配をまとっていた。


 百合子の指先はかすかに震え――「これかもしれない!」と直感が囁いた。


 母がメイに託した、たったひとつの大切な贈り物。それは、教科書を収めるとともに、通学路で車から娘を守るランドセルだった。


 ためらうことなく、百合子は出品者の女性へ連絡を送った。


 *

 ランドセルは、約束どおり一週間後に届いた。丁寧に梱包された箱の中には、なぜか虹色の光を帯びたキーホルダーと、一枚の手書きのメモが添えられていた。


「あなたなら、代金やお礼などは必要ありません。どうか大切に使ってください」


 花柄の和紙に流麗な筆使いで綴られた文面は、春風に溶けるように、そっと宙に舞う願いだった。


 百合子は、その言葉に目頭の熱を押さえきれず、しずやかに深く頭を垂れた。



 *

 入学式の朝、桜の花びらが春の風に誘われて、ひとひら舞っていた。それは、愛するメイにとって、新たな旅立ちのはじまりでもあった。


 まるでその瞬間を待っていたかのように、陽光がそっと顔をのぞかせ、やわらかな木洩れ日となってメイの背中を押してくれた。


 この晴れがましい、人生の記念すべき日。メイは、母が用意してくれた真新しい服に身を包み、深紅のランドセルを背負っていた。


 そして今、一歩、新たな道へと踏み出しながら、紺碧の空を仰ぐ。頬をなでる颯颯に、少しだけ緊張をほどかれたように微笑んだ。


「ママ、いつもありがとう」


 そう言って、メイは自信に満ちた瞳で顔を上げた。


 数日後の朝、メイはぽつりと話した。


「かすみっていう名の女の子が、学校までの道を一緒に歩いてくれるの。そよ風みたいに軽やかで、気づくと、いつのまにかそばに寄り添ってくれているんだ」


 かすみちゃん――。


 少女の名前に百合子はそれとなく戸惑いを覚えた。近所にそんな子はいなかったはず。けれど、メイは繰り返し語る。


「彼女も、同じ色のランドセルを背負っているの。でもね、不思議なんだよ。彼女のカバンには、お守りのキーホルダーがついていないの」


 かすみは決して学校の中へは入らず、正門の手前まで来ると、ふいに姿を消してしまうのだという。まるで校門が、かすみだけを拒む『禁断の扉』のように——その先へは進めず、どこか別の時空に吸い込まれてしまうらしい。


 *

 ある日、メイは言った。


「かすみちゃんに、このランドセルすっごく大事にしてるよって言ったら、とっても嬉しそうに笑ってくれたの! 背負うたびにね、いつも思うんだ。きっとね、これ、だれかのとっても大切な想いが、いっぱい詰まってると思うの」


 娘の切ない言葉に、百合子の心は、波紋のようにじんわりと揺れた。


 メイの言うとおり、あの無償の愛で手に入れたランドセルには、見知らぬ人の記憶が染み込んでいるのかもしれない。


 なんとも信じがたい話ではある。けれど、娘の小さな掌の中で、その名もなき祈りは、時の流れとともに、何か別の形へと変わり始めている気がした。


 百合子は、心を突き動かされるままに「メビウスの輪」の注文履歴をたどり、出品者へこれまでの事情を丁寧にメールで伝えた。


 数日後、受話器の向こうから聞こえてきたのは、感涙にむせぶような、年老いた女性の震える声だった。


「あれは、孫のために用意したランドセルでした。かすみは、入学式の朝に交通事故に遭って……。生きていたら、今ごろピカピカの一年生だったのに……」


 その瞬間、百合子の中で謎だった点と点がすべてつながった。


 メイが見ていた「かすみ」は、この世に想いを残した魂だったのか。それとも、ランドセルに込められた深い愛情が、メイの心にひそやかに語りかけた幻だったのか。


 その夜、百合子はどうしても胸のうちを抑えきれず、メイが眠りにつく前の枕もとに、気づかれぬよう腰を下ろした。彼女の小さな額を優しく撫でながら呟いた。


「ねえ、メイ。聞こえてる? 明日ね、かすみちゃんにこのお守りを渡してあげてくれない?」


「ママ、うん、わたしも……そうしたいって思ってたの」


 *

 翌朝、メイはランドセルを背負い、校門の前で立ち止まった。そしてそっと、七色に輝くお守りを、かすみに手渡した。


「これ……たぶん、あなたのものだったんだと思う。ママがそう言ってたの」


 かすみはそれを胸に抱き、にっこりと微笑んだ。


「ありがとう。そして、さようなら」


 彼女の言葉が春風に溶けると、朝の光はふわりとほどけ、やわらかな記憶のように遠ざかっていった。


 *

 百合子は、メイの寝顔を見つめ、ぽつりと呟いた。


「かすみちゃんが残してくれたものは、きっと娘にとって、一生の宝物になるわ」


 窓の外では、やまももの花が小夜風にそよぎ、その薄紅の影が、春の光へと静かに馴染んでいく。


 百合子は目を閉じ、深く息を吸った。


「ありがとう、かすみちゃん」


 彼女の言葉は声にならず、春の夜空でひときわ明るく輝く、うしかい座のアークトゥルスへと、ゆるやかに溶けていった。


 そのとき、ふと頬を撫でた風に、かすかな温もりが宿っていた。


 メイの背中をやわらかく包み込んでいたのは、眼差しの奥に淡くにじむ、春霞のような気配だった。


 それは、遠い春の記憶の片隅で咲いたやまももの花のように、届かぬまま、それでも祈るように在り続ける、一片の願いだったのかもしれない。

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