第7話 修行

新たなスタートの日々が始まった。健太は田中との約束通り、一から出直す覚悟でトレードに向き合った。ただし、以前とは全く異なるアプローチでだ。毎朝目覚めると, まず軽いジョギングをして頭をクリアにし、それからパソコンに向かう。マーケットのニュースに目を通しつつも、一喜一憂しないよう深呼吸をして心を落ち着けた。取引を始める前にノートを開き、今日のトレード計画を書き出す。エントリー条件、損切りポイント、目標利食い、そして守るべきルール。田中から教わった要点を箇条書きにし、自分自身に言い聞かせるように読み返した。


マーケットが開いた。健太は焦らず、チャートを監視する。以前なら飛びついていたような急騰にも安易に手を出さず、自分の決めた「明確なトレンド」が現れるのを待つ。やがて、ひとつの通貨ペアで条件に合致しそうな動きを見せ始めた。長期移動平均線の上に価格が位置し、高値を徐々に切り上げている。健太は事前に定めたエントリーポイントに指値注文を置き、同時に損切りの逆指値もセットした。程なくして注文が約定し、ポジションを持つ。心拍数が上がるのを感じたが、すぐに深呼吸して平静を保った。今回は事前に取るリスクも把握済みだ。最悪でも口座資金の1%を失うだけで済む計算である。


数時間後、価格は健太の期待通り上昇し始めた。利益が出ていることに喜びを感じながらも、彼は冷静だった。すぐには利食いせず、トレンドが続く限りホールドするというルールに従った。上昇が鈍り始めたところで半分利益確定し、残りのポジションはトレーリングストップで利幅を伸ばす戦略を試す。最終的に、そのトレードは小さな勝ちとなった。画面に表示された利益額は数千円程度だったが、健太の胸には静かな達成感があった。自分のルールに従い、計画通りに取引を遂行できたことが何よりの収穫だった。


もちろん、全てが順調というわけではない。ある日は連敗続きで資金を数%減らすこともあった。しかし健太は以前のように感情的になることはなかった。小さな損失は受け入れると決めていたし、何よりもリスクを最小限に抑えていたおかげで、連敗してもダメージは軽微だった。取引日誌には毎日詳細に記録をつけた。エントリーの理由、感情の動き、ルールを守れたかどうか、結果の分析──それらを書き出すことで、自分自身を客観視できるようになっていた。もし負けが込んでも、日誌を読み返せば「今回はルールを守れているか?」と振り返り、次への糧にできる。少し勝てば慢心しそうになる自分を戒め、常に平常心で相場に向かうよう努めた。


彩もそんな健太の変化に気づいていた。「なんだか、落ち着いた表情になったね」とある晩につぶやいた。健太は苦笑した。「まあ、色々と訓練中だから」。以前のような有頂天の自信はない。しかし地に足のついた確信が少しずつ芽生えているのを感じた。週末には彩と外出してリフレッシュする余裕も出てきた。相場に没頭しすぎて周りが見えなくなることも減り、仕事でも以前より集中できるようになった。上司からの信頼も徐々に取り戻しつつある。


そうして数ヶ月が過ぎた。100万円を割り込んでいた口座残高は、徐々にではあるが回復しつつあった。大きな利益を上げたトレードはまだないものの、小さな勝ちを積み重ね、損失を最小限に抑えた結果、資金曲線は右肩上がりに転じていた。何より、健太自身の精神状態が大きく変わっていた。勝っても負けても過度に揺さぶられることなく、一貫したメンタルで取り組めている実感があった。かつては含み損に怯えて眠れなかった夜もあったが、今ではポジションに適切なストップを置いたら画面を閉じて休むことができる。マーケットが気になって仕方ないという強迫観念からも解放されつつあった。


田中とも定期的に連絡を取った。トレード日誌をメールで送り、助言を仰ぐこともあれば、月に一度は会って進捗を報告した。田中は「いい調子ですね。だいぶ安定してきた」と目を細め、「でも決して慢心しないように」と念を押すのを忘れなかった。健太は深く頷く。恐怖心は完全には消えていない。だが、それと上手く付き合いながら前に進む術を学びつつある自分がいた。「大丈夫、自分は生き残れる」と、静かに自信が芽生え始めていた。

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