古代エジプトのビール職人
一条 灯夜
ヘネケト
朝が来る。
焼き立てとは言えないパンとダイコンの簡単な朝食を済ませ、髭を剃り、
気温の上がり始めた街を職場へと向かって進む。
見知った顔の連中に、軽くお辞儀したり握手しながら――声をかけないのは、どこにでも入り込んでくるうっとおしい砂が口にまで入りこまないためだ――平民街を抜ければ、夜の宴会のせいで静まり返っている貴族街との境目の日干しレンガの倉庫が目に入る。
……いや、目に入るなんてものじゃないな。
この一大事業のために、農閑期の農民も各地から集まってきている。それら全ての胃袋を満たすための小麦の倉庫群だ。巨大じゃないはずがない。
「ほぅ」
と、自然と溜息が出る。
これを全部モノにできれば、死んでからだって食うものには困らないだろう。
……いや、言ってみただけだ。実際にこの全部を貰ったところで持て余す。ここでは、そういうモノだ。収穫期が終わった今なら良いものの、古くなっていく穀物の価格なんて、な。
小麦運びの荷運びの人足の後をついて進めば、煙の立ち上がる我らが職場へと辿り着く。
杖を持った門番に跪いてから、工房の中へと進み――。
先に仕事を始めているのは、パン職人だ。壺の中に流し込まれたパンの膨らみを視ては、焼き加減を確認している。
もうすぐ農閑期に集められてる建築労働者連中が、朝食の配給に列をなし始める頃だ。連中の朝は、ここにずっと住んでいる俺達よりも少し遅い。
とはいえそれも当然の話しで、この時期だけここで働く連中は、仕切りのない長屋に寝泊まりして、配給のパンとビールで食いつないでる。調理場さえない、ただの寝床住まいを羨ましいとはとても思えない。
「ほいよ」
「おう」
焼き上げに失敗した生焼けのパンや、発酵用にわざとそうさせているパンをパン焼き職人から受け取り、こちらはこちらの作業場に入る。パンをぬるま湯の壺に浸し、今日の仕事を始めれば、隣で三日前に漬けた壺の中身を濾しながら、同僚が話しかけてきた。
「次の肉の配給はいつだっけな?」
「ああ、今夜だ今夜」
パンを効率よく漬け込むため、適度にちぎって、各壺の中の量を調整する。発酵は、多くぶち込めばいいってものでもない。逆に、少な過ぎるのもダメだ。
適量ってものがある。
俺達ビール職人は、代々それを見極めるため、学校にも通っている。算術を学ぶ配給量の計量の役人よりは位が下の学校だが、そもそも学校に行かせられない下層平民よりはましな方だ。
「嘘つけ、明後日の夜だろ」
「覚えてんなら訊くんじゃねえよ」
基本、最初の発酵にかかる日数は三日。仕込んだ液体がビールになるのに更に三日。肉の配給も、この時期には三日に一回。
忘れるほうがどうかしてる。
お互いに分かり切った受け答えだ。
つまり、ただの無駄話。
「もしかしたらがあるかもしれないだろ?」
いい笑顔で言い切ったバカに、思ったことをそのまんま告げてやる。
「ねえよ、バーカ」
こんな時期でもなけりゃ、そもそも肉なんて高級過ぎて食えない。他の季節は、豆とパンとビールでなんとか凌ぐんだ。
もっと若い頃には、肉が食えるって理由だけで王や神官、貴族に感謝してたもんだ。
……歳を取るに従って、世界の仕組みが見えてきて、そんな純真は消えてったがな。
小麦を搗いて粉にする音、石で惹く音、壺を炙る火の音に――発酵のうっすらとした酸っぱい匂い。
毎日の同じ作業に、喋ることなんてすぐに尽きる。
意識したわけじゃないが、誰からともなく無口になってゆき……ひたすらにパンを醸す作業を続けていけば、いつのまにか日が傾いている。
ああ、今日も一日が終わる。
退屈で代わり映えのない一日。
それでも……!
労働者用とはいえ、たんまりとビールを呑んで――、昨日よりも少しだけ高くなったピラミッドを見れば、なんとなく一日に感謝したくもなってしまうんだよな。
古代エジプトのビール職人 一条 灯夜 @touya-itijyou
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