第6話
クリスマスイブの日、雪が降った。
大学寮に入ってから、シザは一日においてある程度の量の勉強をこなさないと落ち着かないような考え方になっていたから、別に提出が迫っている課題やテストが差し迫っているわけでもなくとも、何かを勉強する。
知識を得ると、自分の中に使える細胞が一つ増えたような気がして安堵を覚える。
無力な少年時代を過ごしたシザは身を守る術としても知識を見ていた。
だから勉強は全く苦にならない。
シザは時間を惜しまず勉学に励んでいた。
夜中までその日も勉強していて、
まだ眠気が訪れないのであと一時間くらい続きをしようと、
珈琲を淹れようと下に降りて来ると、
居間に飾られた大きなクリスマスツリーが目に入った。
不思議な光景だ。
シザはクリスマスツリーをこの家で見た覚えがない。
四歳までの記憶で朧気にはあるけれど、それ以後、今の養父に引き取られてからクリスマスを祝った記憶が無いのだ。
何故かと思い出すと、その時期は養父の暴力で起き上がれない状態になっていたのだということが分かる。
それが今年、初めて寮に入ってから家に戻ると、クリスマスツリーがあった。
養父と養母、ユラで飾ったのだという。
帰宅を簡単に許さない大学寮だったので、シザは今年二度だけ家に戻った。
夏とクリスマスだ。
養父と養母はにこやかに出迎えて、
……まるで仲のいい家族かのようで、シザは強い違和感を感じた。
ただ、ユラだけが嬉しそうに出迎えてくれるのが嬉しかったから、
この場で口に出しても仕方ない違和感は封印したけれど、
クリスマスの記憶が無い理由を考えると、
この家で行われる家族団欒には、やはりシザは馴染めなかった。
ふと、何となくクリスマスツリーをそこから眺めていると、不意にツリーの足元が動いた。
気づかなかったが、小さな足が見えた。
「ユラ」
弟がブランケットに包まってクリスマスツリーの足元に寝そべっていたのだ。
窓辺に転がって、窓の外を見ていたらしい。
「兄さん」
「何してるんだ、そんな所で」
シザが歩いて行くと、寝転がったままユラが笑った。
「クリスマスツリー、もうすぐ片付けられちゃうから。見ていたくて。
あと雪も」
雪が降って来ている。
「床暖房入ってるけど、そんな所で寝てたら風邪ひくぞ」
シザが弟の手を取って起こそうとするが、ユラはわざと力を抜いて起きないようにして笑っている。
「もう少しだけここで見てたい」
普段そんなに我儘を言う弟ではなかったので、シザはため息をついた。
「あと少しだけだぞ」
「うん」
ユラはじっと舞い散る雪の光景を眺めていた。
しばらくして、シザが戻って来る。
ユラの体を毛布で包み込んで、側に湯気の出る紅茶を置いた。
「珈琲を淹れに来たけど、紅茶にしておいたから」
シザはそう言って、ユラの隣に腰を下ろす。
ユラは珈琲の香りは好きなのだが、苦くてまだ飲めない。
紅茶には少しミルクが入っていて、ユラは嬉しかったので、身を起こして兄の膝を枕にするように寝直した。
「ありがとう、お兄ちゃん」
返事の代わりに、弟の柔らかい髪を撫でてやる。
シザも雪の空を見上げた。
「大学の勉強、大変? 忙しいよね」
二十六日に大学に戻ることはもう伝えてあったから、そんな会話になった。
「大変だけど、勉強するのは楽しいよ」
「楽しいの? すごいなあ……僕、音楽以外の勉強苦手だよ……」
ユラもまだ学校には行っていない。
家に家庭教師が来て勉強はしているが、確かに勉強をしていると十五分おきに「ピアノちょっと弾いてもいい?」と言っては家庭教師に集中しなさいとよく文句を言われていた。
そういえば、ユラは八歳だがこれから学校などはどうするのだろうとシザはぼんやり考えた。
シザの場合は養父が虐待をしていた為学校に通える状態に無く、自然と家で学ぶ感じになったけれど、ユラは別にそうではないのだから、音楽院などに通わせるつもりなのかもしれない。
分からない。
普通両親や兄姉は弟妹の将来について相談するものだが、
この家は普通ではないのだ。
それなのにどうして安らぎを感じるのだろう?
シザは弟の頭を優しく撫でてやりながらぼんやりと考えた。
今回笑顔で自分を迎え、
共に食卓を囲んで食事などしたあの養父は、
シザが両親を失って数年後から虐待をし、殴りつけて来た男なのだ。
確かにいつしか、暴力は少なくなっていった。
大学寮に入る前くらいからは、一度も殴られていない。
背が、急激に伸び始めていた。
ほとんど養父と変わらなくなって来たし、もっと伸びそうな気配がする。
しかしあの男の自分に対する憎しみや怒り、暴力を振るっていた原動力になったものは、自分が背の小さな子供でまともな反撃も出来なかったからであり、そうではなくなった途端に無くせる程度のものだったのだろうか。
言い返すことも、反撃も出来ずに殴られていた小さな子供……。
あの時代の苦しみや悲しさは、
これからどこへ行くのだろう。
膝の上で寝ていたユラが手を伸ばし、紅茶の入ったコップを手にする。
飲める程度になった紅茶を一口飲んで、弟は幸せそうに笑った。
シザは瞳を伏せる。
自分がこの怒りや悲しみを飲み込めば、
ユラは家族と幸せになれるのだ。
(それなら別に……)
過ぎ去った時代のことなど、忘れてもいい。
忘れられるようなものではないし、
今後もユラ以外を自分の家族などとは一生思わないけれど、
そのことは口に出さなくてもいい。
シザは深い孤独を感じた。
ユラとこうして穏やかに過ごせる時間は尊いが、
もう幾度もこんなクリスマスは訪れない気がした。
自分が関わらなければ養父は穏やかな人格でいることが分かったし、
他の誰にも暴力は振るっていない。
自分がこの家にいなければ、全てが上手く行く。
だからこれからは伸び続ける身長のように、段々とこの家からは自然に足は遠のくだろう。
仕事を持ち、別の世界で生きて行く。
忙しいからとその言葉だけで会わないことも不自然にならなくなる。
今までは、ユラがいてくれないと自分は生きていけないと思って来た。
だけどもう無力な子供ではないのだから、いつまでも弟に依存していてはダメなのだ。
自分がユラに依存していつまでも側にいると、
この家の平穏を脅かす。
見慣れないクリスマスツリーをシザは振り返った。
所々に楽器のオーナメントが光り輝いている。
シザが到着した時にすでにクリスマスツリーは完成して飾られていたけれど、
「兄さんと飾りたかったから」とユラが楽器を象ったオーナメントだけは取っておいたのだ。
大好きなピアノは一番高い所に飾った。
……ユラとあと何度、こうやって共にクリスマスを祝えるのだろう。
最近はそういうことをよく考える。
別れが近いことを、強く感じるのだ。
望んでいなくてもそうしなければならない。
だから尚更、こうして会える時をシザは大切にした。
会っている時はこれから会えなくなるのだと思うから、優しく接したくなる。
ユラが願うことがあったら、何でも叶えてやりたいと思えた。
(僕は寂しくても)
ユラの幸せの為には、離れて暮らすことが一番いい。
もしそうやって大人になって、ユラがもし何か困ることがあった時は頼れる兄ではいたい。
法曹は立場ある仕事だし、その価値はある。
シザ自身はあまり他人の人生に関わりたいという気持ちはないけれど、
自分は全く立派な後見人がいない。
たった一人で自立しなければいけないのなら、自分自身が強くなければならないし、確かな力を持たなければならない。
頼られたいけれど、
ユラが幸せで兄を頼る暇もないほど満たされた人生を送っていくならそれでいいのだ。
その時は遠くから彼を見守っていようと思う。
「兄さん……?」
「……うん?」
思索に耽っていたシザは一瞬返事が遅れた。
「兄さんが大学の勉強、楽しそうで嬉しい」
幼い頃からシザを見て来た弟はそう言った。
シザは小さく笑んで頷く。
「……でも」
しばらく間を開けて、ユラが呟いた。
「お兄ちゃんがいないから、ちょっとだけ寂しいな……」
ユラの不在に強い不安を覚えていたシザの心が、
ユラのその言葉に少しだけ救われた。
自分だけがそうではないのだと、
遠く離れた兄弟は普通そう思ってもおかしくないのだと、
言ってもらえた気がして安心する。
自分が恐れて口に出せなかった言葉を、
代わりに口に出してくれた弟の優しさに、シザは深く感謝した。
その気持ちを込めてそっとユラの髪を撫でると、
彼は幸せそうに微笑ってくれた。
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