第3話

 注意深く、彼を見つめている。


 尊い死者の為に捧げられる歌や、花のように。


 そうする理由は、兄としての愛情以外にはない。

 時折帰ると集中して、彼を見つめる。

 その時は大学のことや勉強のことなど何もかも忘れた。

 久しぶりに会った弟の表情や、奏でる音色が曇っていないか。

 服の裾から覗く白い肌や、こちらを見上げて来る瞳の奥、

 

 傷はないかといつも探している。


 ……まるで傷を期待するように。


 花びらに触れていた手を放して、シザは椅子の背もたれに深く背を預け、深く目を閉じた。


 自分は一番苦しい時に弟に縋りついたから、

 だから多分そういう願望が生まれるのだと思う。

 彼も傷ついたら、きっと自分に悲しみを訴えてくれるだろうと。


 そうしたら兄として彼を抱きしめ、兄として慰め、

 きっと世界に二人きりであることを確かめ合えるから。


 遠くから響いて来るこの美しいレクイエムを、

 心底嫌いになってしまいそうだ。


 まだ罪など犯していないのに、

 懺悔を強いられているような気持ちになる。



『お前など生まれて来なければよかったんだ』



 幼い頃、幾度も聞いた言葉だ。

 

 繰り返されるサンクトゥス、その美しい響きの言葉のように。


 お前が憎い、

 お前が憎いと。


 あの呪いの言葉を鮮明に覚えているから、

 彼の瞳の奥を探ってしまう。


 ――そしてどこか失望するのだ。

 

 ユラの瞳の奥はいつも優しく輝いている。

 ノグラント連邦共和国でも屈指の名門であるこの大学でも、よくああいう瞳を見る。

 親に愛情を注がれて育って来た者が持つ、特有の輝き。

 彼らは自分が傷つけられる可能性すら頭にも過らないように、瞳を輝かせている。

 人間の善意に触れて来た、その確信。



 分かっていたことだ。

 あの養父は幼い頃から一度も暴力でユラに触れたことはない。

 殴られたのは自分だけだったし、

 それ以上であってくれればと想ったことは一度としてない。

 ユラと、分かり合えず疎遠な兄弟だった時期も確かにある。

 あまりにも自分と違う生き方が許されているユラを憎み、疎んだ気持ちも嘘じゃない。

 

『ユラなんて生まれて来なければよかった』


 そういう気持ちを自分も抱いたことがある。

 だから養父が自分をどれだけ憎んでいるかも分かるのだ。

 何故そうなのかは分からなくても、

 憎しみが強く、鮮やかで、自分が側にいるとあの男の神経を逆撫でるのだということも。

 シザが学生寮に入ることを望んだのも、自分さえいなければあの家は恐らく普通の平穏な家庭に戻るはずだという思いがあったからだった。


 シザの見立ては正しく、家に戻るといつも穏やかな雰囲気が自分を出迎える。


 尚更、暗黒色のようだった自分の少年時代の記憶が、最近はまるで幻か夢だったのではないかと思う程だ。


 ユラは自分が大学寮に入ったあとも、養父には大切にされていて、何一つ害など与えられないことがあの瞳を見れば分かる。

 自分がいなくなった家で、養父はユラと幸せそうに生きていた。

 予想していたことだ。そうなって安心するし、嬉しくもある。


 ユラの幸せと、養父の幸せが、あの家で一致している。


 だがそれを心のどこかで忌々しく思っている自分も存在した。

 クリスマスなどという時期は、尚更そういうことを実感するのだ。

 家族で過ごすのが当然ではないかという風潮が蔓延するので、シザは閉口する。

 それでも嫌々ながら帰宅したのは……この世でたった一人の弟に会いたかったから。


 シザにとって「家族」という言葉はユラだけを指し示す。

 

 間違っても幼少期自分を散々殴りつけて虐待して来た養父は入っていない。


(だけどユラは違う。ユラはあの男を父親として大切にしてる)


 理不尽な苦しみを、労わるような物悲しく美しいコーラスが響いている。

 

 シザは現在十五歳だが、特別な推薦を受けて名門のダルムシュタット国立大に入学した。

 様々な分野の権威が集うこの大学で、十五歳の自分がいかにちっぽけな存在かは日々実感する。

 中にはそういうことで劣等感に苛む学生も多いようだが、

 シザの中に劣等感などは全く存在しなかった。

 自尊心とか、自分を愛して認めて欲しいとかいう承認欲求というものは、彼の場合虐待されていた少年時代に破壊され尽くして、平穏な人生を望む心だけが残っている。

 ……そして自分を苦しみから救ってくれた、弟に対しての感謝だけが。


 自分が輝かしい未来を歩く姿より遥かに、

 弟が生涯幸せでいられることを願っている。

 綺麗ごとではなく、

 それは真実だった。

 

 こういう大学に入って早々に分かったけれど、

 シザにはあまり強固な我が無い。

 嫉妬や、つまらない競争を吹っ掛けられることはあったけれど、

 腹も立たなかった。

 むしろこんな自分にそんな面倒な感情を向けている相手の方に哀れみを感じるほどだ。

 他者が自分を蹴落としてでも先を行きたいと望んでいることが分かれば、

 シザは争わずして先を譲った。

 代わりに別のことをすればいいと、難なく思えるからだ。


 そんな自分を見て意図を理解出来る友人は、お前は本当に温和だな、などと言って気にかけてくれるから、他人を蹴落として何とも思わない人間は遠くに行くし、他人を気遣えるような性格の友人たちは増え、


 シザの大学生活は極めて幸福に満ち溢れていた。


 それでも……何故か、ここが自分の居場所だと猛烈に思えない。


 誰にも殴られず、罵られず、思うままに望む勉強が出来て、

 勉強するに適した環境が万全に整えられ、

 優秀な成績を出せば、大人たちにさえ尊重される。

 こんな幸福な場所は今まで、シザの世界には存在しなかった。


 死のような、暗黒の少年時代を経て、

 美しい鎮魂歌さえ響く天上の学び舎に今、身を置いている。



 ――だけどユラ・エンデがいない。



 シザはオーディオを付けた。


 程なく、美しいピアノの旋律が流れ始める。

 もう一度目を深く閉じた。

 こちらに来てから、色んな大したことのない理由で、彼以外のピアニストの演奏も聞いた。

 シザは幼い頃から閉ざされた世界に生きて来たのであまり分かっていなかったが、

 他人の演奏を聞くようになって、確信した。


 やはりあの人は特別な才を持っている人だ。


 細い身体で、何時間でも没頭して弾き続けている。

 普段は兄である自分の側にいつでもいたがって、膝にさえ甘えて寝そべるほど幼さも覗かせる弟だったけれど、ピアノの前に一度座れば、今度はシザの方が触れ難いほどの雰囲気を纏う。


 養父はユラを学校には行かせていない。

 その代わり家に教師を呼んで学ぶべきことは全て学ばせていた。

 あの感じではいずれどこかの音楽院に入れるか、

 それとも信頼出来る音楽教師すら家に呼び、そこで集中的に勉強を施し、

 ユラならばコンクールに出て、精神的に問題なく弾ければ必ず大きな賞を取って来るだろう。


 シザは確信があった。


 彼はいずれあの家からも羽搏いて、音楽の道に進む。

 煌びやかな王宮のような各国の舞台が、彼の許に扉を開くだろう。

 彼が唯一得ることの出来なかった、

 音楽の友、師、

 その中でいずれ、ユラ・エンデは運命に導かれるように美しい音楽の女神に出会い恋をする。


(あの人はそういう、運命にあるひと)


 尚更、そんな未来をまだ知らないユラが、自分を忘れないで欲しいと花を贈ってくれたことが愛しく思う。


 別に彼の幸せを願っているのだから、

 彼が望まれたように音楽の世界で有名になり、

 同じように音楽の才ある美しい女性と出会って恋に落ちることも、

 間違いなくシザは願っているのだ。


 自分が幸せになることより、遥かにそれを願う。


 ……自分が幸せになることより、シザを悪しき運命から逃がそうと、幼い心で懸命に考えてくれたユラより大切な存在は自分には存在しない。


 だから尚更戸惑うのだ。



 何故心が時折痛むのか?


 

 自分が今、人生の境界にいるような気がする。

 何か一つ道を誤れば、闇の底に再び堕ちそうだ。

 闇の底に堕ちそうな心には、鎮魂歌の方が沁みるのかと思っていたが、

 違った。


 人生の喜びを奏でたような、明るい旋律でも、

 

 ユラのピアノは闇の深淵まで響いて来る。

 そしてそこに彩りの花を瞬く間に咲かせるのだ。


 シザは十五歳だったが、

 それでもすでに幾度か死を望んだことがある。

 怒りを覚えるほど彼は『死』を疎んでいない。

 自分の死のことを、音もしない静かな夜に考えると、

 不思議と心が鎮まり、安堵することさえあった。


 それでもそうしてみようと思わなかったのは、

 自分が死ねば、ユラが悲しむことが分かったから。

 彼との永遠の別れが、自分も寂しく辛かったからのもある。


 シザはユラとの運命の別れを、もう覚悟していた。


 自分には彼のような特別な才能は何もない。

 死んだ両親も優れた才能の持ち主だったと聞いていたが、

 彼らとも自分は違う。


 思えば養父が自分を疎んだのも、もしかしたらそういう凡庸さが理由だったのかもしれない。


 ユラとの別れは、覚悟出来ている。

 我慢出来る。

 シザが養父に殴られることを、ユラは幼い頃酷く怖がっていた。

 助けたいと願い続けても恐怖でそう出来なかったこと、

 兄に自分は想っているのだと上手く伝えられなかったこと。

 そういう怯えや、後悔や、恐怖を、

 長くユラに強いたのは養父ではなく、ある意味自分だった。


 そんな思いをしても、自分を兄として想い続けてくれたユラが、

 幸せになれるのなら、別れは我慢出来る。


 だけど、別れと永遠の別れは全く別のものだ。


 彼という幸せを永遠に遠くから眺めていたいとも願っている。

 それを見届けられなかった両親の代わりに自分が見て、

 幸せだと思うことも、この世で自分に与えられた使命だとも思えたし、

 とにかく自分一人だけだったらいつでも死を望みに行ったが、

 ユラを想うといつでも生を望むようになるのだ。


 

(愛を知って『死』を恐れるようになる。

 相手がその愛を望むか、知らずにいるかは、

 大した問題じゃない。

 自分自身が恐怖を覚える。

 愛する者との永遠の別れを)



 自分は今ユラという存在に生かされている。

 だがユラはそうではない。

 彼はシザがいなくとも幸せになれる。


 ピアノの演奏が終わり、

 再び遠くからレクイエムが聞こえて来た。



 尊き人の為に迷いなく捧げられた曲。


 この曲の要点は何と言ってもそこだ。



(ただひたすら、美しい賛美を)


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