第2話


 

 聖堂で合唱団が歌っている。


【レクイエム】だ。


 華やかで、色彩に満ちていると母親が表現し、愛した作曲家が作った鎮魂歌。

 

 勉強の合間に始まって何となく聞いていたが、今は完全に手が止まって、机に足を乗せ、椅子に頬杖をついて聞き入っている。

 視線は、窓を伝い落ちる雨粒を追っていた。


 十二月二十七日。


 いつもは厳格な規律の中で、携帯すら私室に持ち込めず、消灯時間後の私語もイヤホンをしない音楽鑑賞やテレビ鑑賞なども禁じられており、扉に鍵を掛けることすら許されない寮なのだが、ピリピリとした空気を感じないのは、恐らくそもそもそういう空気を作り上げる人間自体がいないからだろう。


 帰宅すらテストの点数次第では簡単に許されないこのリースアンバーの学生寮だが、さすがにクリスマスには解放され、ほとんどの学生が帰宅する。

 シザ・ファルネジアもクリスマスイブの夜から帰宅したが、今朝、学生寮に帰って来た。

 そんなに多くは無いが、早めにクリスマス休暇を切り上げて帰って来る学生はいる。

 ほとんどがクリスマスから年始までは自宅で過ごすのだが、

 研究や課題、論文の進捗状況次第では帰って来るのは自由だ。

 

 ただしこの時期学生寮の管理室も閉まっている為、何かあった場合は担当教授の判断を仰ぐようにというルールがある。寮に戻っている旨を必ず連絡し、消灯時間になったらそれも報せ、朝食は担当教授のカレッジにある食堂で必ず取らなければならない。

 

 ノグラント連邦共和国屈指の名門、ダルムシュタット国立大学は優秀な人材を広く集めながらも、未だに一部ではこういった古い慣習に生徒を従事させる面も持っていた。

 しかし、現代においてそういった寮に入るかどうかは個人の意思に任されるし、どうしても馴染めない場合は退寮も許されている為、無理にそういった環境に放り込まれているというわけではなかった。


 管理室が閉じられているこの期間だけは、何かあった時の為に部屋に携帯を持ち込むこと、そして部屋の扉に施錠することが許されていた。

 消灯時間後の見回りも無いため、この時期だけはそういったことは個人の良識に任される。


 シザは研究や課題、論文の進捗が遅れていた為休みを切り上げて帰ってきたわけでは無い。何も遅れていないし、切羽詰まっているわけでもないが、帰って来た。


 漠然とした理由を言うならば、家よりもこちらの方が私室に籠って勉強に集中出来るだろうと思ってのことである。

 

 ……何か怒っているような感じだ。


 シザは聞こえて来る合唱団のレクイエムに耳を傾けながら、そんな風に思った。

 モーツァルト特有の色彩に満ちたような印象が無く、死者への悼み、悲しみ、嘆きは確かに強く感じたけれど、それ以上に怒りのような色を感じる。


 シザは音楽には詳しくなかった。

 というよりも、敢えて詳しくなっていない。

 音楽にまつわる知識があると、純粋に音楽が楽しめないような気がするから、調べたくないのだ。何も知らないまま、音楽だけにとことん集中し、耳を傾けるのが彼は好きだった。

 そして旋律や曲調から、作曲家がそこに込めた意図などを想像する。

 知識も何もない所から、音だけで、その曲に与えられた意味に思いを馳せる。

 調べることはしないが、ある時どこかで偶然にその曲の意味を知った時に、自分の思い描いていたものと、合っていても間違っていても、楽しいからだ。


 シザは音楽は独りで聞くことを好む。

 

 没頭して、独りで聞く。

 それが幸せな時間だ。

 知識を友人と語り合い、名曲に感動して批評し合うようなことは、彼の趣味ではなかった。

 

 まるでこの世で唯一の人を想うかのように、

 音楽を聴く時だけは陰に籠って一人で聞きたいと願う。


 だから他人と分かち合ったり、説明をする為の知識は一切不要だ。


 自分がその曲を聞き、何を感じたか。

 それを重視する。


 怒りのようなものを強く感じるけれど、

 それが何に対する怒りなのか、そんなことに思いを馳せる。

『死』は確かに、生きる人間にとって多くが理不尽だと感じるものなのかもしれない。

 シザは両親を四歳の時事故で失っている。

 そのことについて、自分は確かに悲しみで満ちていても、心のどこかで怒りも感じていた。

 理不尽だ、と思うこともある。


『死』を受け止めることは極めて難しい。

 自分自身のものであっても、

 ……自分の愛する人のものであっても。


 鎮魂歌ではあるけれど、

 何かシザは『死』というものに強い意志で向き合おうとする、

 そんな意志も感じた。

 その強くあろうとするような気配が、もしかしたら怒りの感情に酷似しているから、怒りを感じ取ったのかもしれない。


 しかし、死者に捧げられる聖歌は淀みなく歌い上げられる。


 灰色の空。


 響き渡る歌は生の力に満ち溢れている。


 例え、鎮魂歌だとしても。



 窓を伝い落ちる雨粒を視線で負うと、机の上に飾られた花が目に入って来た。

 普段シザは、部屋に花は飾らない。

 気が散るからだ。

 美しくても、枯れて行っても、その変化を気にしてしまうから、無い方がいいと思って一切そういうものは置かないようにしている。


 そっと手を伸ばし、珍しく机の上に咲いた淡い色の薔薇に触れた。

 可憐な色の大きな薔薇は、本来このクリスマスの時期には咲かないけれど、

 温度調節をされた温室でなら栽培出来るため、予めクリスマス明けには大学寮に戻る予定を聞かせていた実家の弟が、シザに贈ろうと思って時期まで調節して大切に育ててくれたらしいのだ。


 兄弟の母親は遺伝子学の優秀な研究者で、

 寒さや干ばつに強い品種の植物の研究などもしていた。

 この品種は母親が作った品種であるらしい。


『兄さんはあんまり部屋に花は飾らないって言ってたけど。

 年末だから、飾っておいて。一緒にいられないけど、大学のこと応援してるから』


 別れ際に美しい薔薇を差し出してくれた姿が、忘れられない。

 嬉しかったけど、

 自分は何故、こんなことをしてもらう前に自分の方がこういうことをしなかったのだろうとそのことは不満に思う。

 

 弟とシザは血は完全に繋がっているのだけれど、

 性格も顔も、あまり似ていない。

 シザは神経質な所があり厳格な性格をしていて、陰に籠るようなことすらあるけど、 弟は昔から大らかで優しく、非常に穏やかな性格をしていた。

 どちらかというと他者を気遣う故の内向的な表情を浮かべることが多いが、情け深さゆえだ。

 独りの世界に籠りたくても籠れない。

 他人を冷淡に切り捨てられないから。


 ――ユラ・エンデは、そういう弟だった。



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