第10話「エンプレス・モフ包囲網」

 対魔獣防衛機構『ガーディアンズ』日本支部において、「エンプレス・モフ」――すなわち万里小路聖歌――に対する警戒レベルは、神宮寺司令の苦渋に満ちた、半ばヤケクソ気味の決断により、正式に「コードΩオメガ」へと引き上げられた。

 これは、正体不明かつ潜在的脅威度が測定不能、影響範囲は地球規模に及び、国家規模、いや、国際的な連携と最大限の警戒をもって対処すべき対象にのみ適用される、事実上の最高警戒レベルである。もはや、魔獣災害における「コードSスペシャル」をも上回る、まさに『ガーディアンズ』創設以来、空前絶後の事態であり、『ザ・ワン』と同じカテゴリーに分類された。

 この最高司令に基づき、『ガーディアンズ』日本支部は、その持てる全ての資源と人員、そしてドクター・アリスの時折暴走する頭脳を結集させ、かつてない規模の「エンプレス・モフ包囲網」を展開した。

 聖歌の行動予測範囲――主に高級パティスリー、老舗和菓子店、珍しい動物を扱っていると噂されるペットショップ、古美術商、そして彼女が通う聖アストライア女学園周辺――には、最新鋭の光学迷彩とサイレント飛行機能を搭載した昆虫型監視ドローンが、文字通り二十四時間体制で乱舞し、彼女が立ち寄りそうな全ての場所には、熟練の魔法少女チームが、高度な気配遮断魔法と秘匿性の高い魔力障壁と共に、息を殺して配置された。


 万里小路家の、それ自体が要塞のような広大な敷地周辺は、高感度センサーと指向性マイク、さらには「もふもふエネルギー探知」というドクター・アリス産トンチキ秘密道具によって常にモニタリングされ、彼女の優雅な通学路や、最近頻繁に訪れるという、自宅庭園に増設された「観月庵もふもふサンクチュアリ」周辺は、文字通り鉄壁と呼ぶにふさわしい、しかし万里小路家のセキュリティには決して悟られてはならないという、極めて難易度の高い包囲網が敷かれたと言ってよかった。


 ドクター・アリスは、この壮大にして緻密な包囲網を、「エンプレス・モフ捕獲のための聖杯戦争フェーズ1~女神の散歩道を捕捉せよ~」と名付け、指令室の巨大モニターに映し出される配置計画図を眺め、その完璧なまでの計算と彼女の勘に悦に入っていた。


「これでエンプレス・モフ様の行動パターンを完全に把握し、彼女の次なる一手を未然に防ぎ、あわよくば彼女を『保護』し、その素晴らしい『もふもふパワー』の秘密を解明することが可能ですわ! うふふ、あはははは!」


 神宮寺司令は、その高笑いを聞きながら、胃薬の瓶に手を伸ばそうとして、ストレスかはたまた薬の多様からくるものか、薬を掴めず同席していた別の魔法少女に薬を取ってもらい口に運ぶ始末。『ガーディアンズ』崩壊ももう間もなくかもしれない。



 一方、その厳重なる、どこか穴だらけな気配もする包囲網の中心にいる万里小路聖歌は、春の麗らかな陽気の中、お気に入りの、アンティークレースとシルクのリボンで飾られた純白の日傘を差し、聖アストライア女学園の美しい庭園を、いつものように優雅に散策していた。


「まあ、もふアン。最近、なんだか空気が賑やかですわね。小鳥さんたちのさえずりも、心なしか以前より多くなったような気がいたしますわ」


 聖歌の肩の上で、特製のシルククッションに鎮座する小さな聖獣、もふアンが「きゅい? きゅいきゅい!」と、小首を傾げる。聖歌の視線の先には、学園の上空を、まるで新しい種類のトンボか何かのように、ゆっくりと、しかし明らかに不自然な軌道で旋回する、小鳥や昆虫によく似たシルエットの金属的な物体がいくつか見えた。


「それに、あちらの美しい薔薇の生け垣の陰にも、先程から大変熱心な方々がいらっしゃって、わたくしたちのことを見守ってくださっているようですし」


 生け垣の陰では、気配遮断の魔法を最大限に展開し、木の葉や花びらに擬態しながら、凛子とみらいが、息を殺して聖歌の動向を監視していた。

 凛子は、聖歌のあまりにも優雅で、あまりにも無防備な、そしてあまりにも「こちらに気づいていない」かのような様子に、言いようのない焦燥感と、ほんの少しのという疑念を覚えていた。一方のみらいは、「わあ、万里小路さん、今日も綺麗だなあ……。あのドレス、どこのブランドかなあ? あの日傘も素敵……じゃなくて! 監視! 監視しなくちゃ!」と、内心で葛藤していた。


「きっと、わたくしのこの、地道で、しかし愛に満ちた『もふもふ保護活動』の素晴らしさが、ようやく世間一般の方々にも正しく認められて、熱狂的なファンの方々や、あるいは『ガーディアンズ』の方々までもが、わたくしの安全を心配して、こうして影ながら応援し、見守ってくださっているのですね。ええ、良いことですわ。皆様のその熱い想いに応えるためにも、わたくし、もっともっと頑張って、世界中を『もふもふ』で満たさなくてはなりませんね!」


 聖歌のあんまりにあんまりな勘違いは、今日も快調に、致命的なレベルで炸裂していた。凛子は、その言葉を遠隔集音マイクで聞きながら、頭痛を覚える神宮寺司令の気持ちが、ほんの少しだけ理解できたような気がした。


 その日の午後。聖歌は「お嬢様、先日お話ししておりました、遥か古代、アトランティス大陸に存在したと伝えられる伝説の魔獣、『ヴォイドグリフォン』の羽根の一部とされるものが、都内の古美術商に極秘裏に入荷したとの情報が入りました」という、セバスチャンからの報告を受け、胸をときめかせながら、万里小路家の漆黒のハイヤーで都心にある、とある古美術商の、まるでスパイ映画の隠れ家のような店へと向かっていた。


 このルートは、『ガーディアンズ』も当然、ドクター・アリスの天才的な予測によって予測済みであった。ドクター・アリスの「エンプレス・モフは、『ザ・ワン』を制御するための古代遺物アーティファクトに偽装された、超強力な魔導アイテムを求めている! おそらくは『グリフォンの魂を宿す宝玉』とか、そういう類のものに違いありませんわ!」という相変わらずの珍説に基づき、古美術商周辺には、凛子率いるAチームと、翼と静流を含むBチームの精鋭部隊が、何重もの聖歌様のご機嫌を損ねないよう、あくまで『優しく』捕獲するための、例えば『突然目の前に最高級のもふもふクッションが現れて、思わずダイブしたくなるトラップ』や、『どこからともなく極上の紅茶の香りがして、ついそちらへ誘われてしまうトラップ』など、ドクター・アリス考案の珍品の品々と共に配置されていた。

 だが、聖歌の乗るハイヤーが、目的地の数ブロック手前の交差点に差し掛かった、まさにその時だった。


「まあ、田中さん。あちらのお店、昨日オープンしたばかりという、パリで今一番人気のパティシエが監修したという、噂のパティスリーではございませんこと? そして、あの、ショーウィンドウに燦然と輝く看板……『一日限定二十食! 雲のように軽やか、天使の吐息のように儚い、究極のもふもふスフレ・ア・ラ・ヴァニーユ』ですって! なんということでしょう! これは、もふもふの神様がわたくしに与えたもうた、運命の試練、いえ、至福の啓示に違いありませんわ! 田中さん、申し訳ありませんけれど、ちょっと、本当にちょっとだけ、寄り道してもよろしくて?」


 聖歌の、その悪気のない、しかし『ガーディアンズ』にとっては悪魔の囁きにも等しい一言で、ハイヤーは、ウィンカーも出さずに(もちろん、そんなことはないが、監視班にはそう見えた)急に進路を変え、魔法少女たちが固唾を飲んで待ち構える包囲網とは全く逆方向の、お洒落なブティックやカフェが立ち並ぶ、全くノーマークだった商業地区へと、滑るように進んでいった。運の悪いことに、他の車が視界を塞いだ瞬間の出来事だったこともあり、目標を見失ってしまったのだ。さらに運が悪いのが、空から監視していたドローンまで鳥との衝突事故を起こし故障する始末――因みに聖歌が看板の謳い文句は勝手に盛っただけで、実際は究極のもふもふという一文は無かったりする。

 『ガーディアンズ』日本支部指令室では、まさに阿鼻叫喚、地獄絵図とでも言うべき光景が展開されていた。


「対象ロスト! 対象が予定ルートを大きく逸脱! 繰り返す、対象ロスト! 現在地不明!」

「馬鹿な! あのルートは過去三百回分のエンプレス・モフの行動パターンと、血液型占いと、今日のラッキーアイテムまで加味して、スーパー衛星コンピューター『アマテラス』が算出した、的中率99.8%の最適経路のはずだったのに!」

「ドクター! どういうことだ! エンプレス・モフは、我々の高度な予測と包囲網を、まるで鼻で笑うかのように突破したというのか! まさか、空間転移能力まで持っているとでもいうのか!?」


 神宮寺司令の、もはや怒声というよりは絶望の叫びに近い声に対し、ドクター・アリスは、しかし全く動じることなく、その大きな丸眼鏡をカチャリと光らせて答える。

 何とか再起動したドローンを駆使し聖歌の居場所を探索し、ようやくハイヤーを発見した頃には既に聖歌は車を降りてパティスリーに足を運ぶ途中だった。


「フフフ…フハハハハ! さすがはエンプレス・モフ! 素晴らしい! これこそが、彼女の真骨頂! これは陽動ですわ! 古美術商へ向かうと見せかけて、我々の注意を引きつけ、その実、全く別の場所で『何か』を狙っているのです! あのパティスリーも、きっと何かの偽装か、あるいは秘密の連絡拠点! 本命は、間違いなく別の場所にあるはずですわ! 全部隊、第二、第三予測ポイント、及び『都内のもふもふ系パティスリー・トップ10』リストの全店舗へ、大至急急行なさい!」


 その結果、古美術商周辺の厳戒態勢は、蜘蛛の子を散らすように一時的に完全に手薄になり、聖歌が後で「まあ、今日はいつになくすんなりとお店に入れましたわね。これもきっと、わたくしの日頃の行いが良いからに違いありませんわ」と、優雅に、そして全くの見当違いな感想を抱くことになる。


 結局聖歌は、かのパティスリーで、『究極のもふもふスフレ・ア・ラ・ヴァニーユ』を心ゆくまで堪能し「まあ、なんて素晴らしいのかしら! まるで、天使の赤ちゃんのほっぺを、最高級のシルクで優しく撫でているかのような、繊細で、儚く、そして官能的なまでの泡の感触でしたわ。これはもう、食べる『もふもふ』、飲む『もふもふ』、いえ、もはや『吸引するもふもふ』とでも呼ぶべき、新たなる境地ですわね!」とは、彼女の感動に満ちた、そして相変わらず独特すぎる食レポだった。さらに店内に偶然いた巨大なスタンダードプードルの、その素晴らしいカーリーヘアの「もふもふ感」にもいたく感動し、そのプードルと小一時間ほど優雅に歓談した後、ようやく満足して本来の目的地である古美術商へと向かった。


 その頃、『ガーディアンズ』の魔法少女部隊と特殊部隊は、ドクター・アリスの「パティスリーこそが真の目的地!」という鶴の一声により、既に古美術商周辺の包囲網を解き、今度は都内有数のパティスリー激戦区に、お菓子とは全く不釣り合いな重装備で展開し、一般市民の奇異な視線と甘い誘惑に耐えながら、必死の形相で「エンプレス・モフ」の再出現を待ち構えていた。もちろん、聖歌が既にパティスリーを後にして、手薄になった古美術商へと悠々と向かっていることなど、知る由もない。

 監視していたドローンを含め、幾つかの機械はセバスチャンらの張り巡らせたトラップに逆に引っかかる形となり、本来映すべき映像とは異なる映像を映されていたのだ。


 ところ変わって古美術商。聖歌は、まるで馴染みのブティックで新作のドレスでも選ぶかのように、店主が奥からおずおずと出してきた曰く付きの品々を、その鋭敏な「もふもふ鑑定眼」で一つ一つ吟味していた。


「こちらの『雪男の頭皮の一部』はいかがでしょう? なかなかの毛量かと……」

「まあ、確かにボリュームはございますけれど、少々パサつきと枝毛が気になりますわね。お手入れが行き届いていないようですし、何よりも『もふもふ』としての気品に欠けますわ。パスですわね」

「では、こちらの『ネッシーの鱗』は……」

「あら、鱗ですの? 鱗にも、もちろん素晴らしい『鱗もふ』の世界がございますけれど、これは……少々生臭さが……。わたくしのコレクションには、もう少し芳香性の高いものがよろしいかしら」


 そんなやり取りの後、ついに店主が最後の切り札として差し出したのが、例の品だった。

 そこで彼女が手に入れたのは、結局のところ、『ザ・ワン』や『ヴォイドグリフォン』に関する新たな手がかりなどではなく、店主が最近、南米のジャングルを探検したという好事家から、半ば押し付けられるようにして譲り受けたという、古代マヤ文明の神官が雨乞いの儀式でその身に纏ったとされる「聖なるジャガーの毛皮の一部」であった。尚、これら曰く付きの品々はそう題打たれているものの、実際にはただの生臭い魚の鱗だったり、良くわからないものの紙片だったりする。

 しかし、聖歌は、その「ボロ切れ」を手に取った瞬間、その大きな蒼い瞳をカッと見開き、そして恍惚とした表情で叫んだ。


「まあ! なんて野性的で、そして悠久の歴史のロマンを感じさせる、素晴らしい『ワイルド・もふもふ』ですこと! この、一見するとゴワゴワとした無骨な手触り! しかし、その奥には、ジャングルの湿気と太陽の光を何百年も吸い込み続けたであろう、凝縮された生命力と、そして何よりも、古代の神官がこの毛皮に込めたであろう、雨への切実な祈りの『魂の温もり』が感じられますわ! これは、わたくしの『もふもふコレクション』に、新たな境地と、そして何よりも『歴史の重み』という名の深みを吹き込んでくれる、まさにプライスレスな逸品に違いありませんわ!」


 聖歌は、その聖なるジャガーの毛皮の一部という名のボロ切れを、まるで国宝級の美術品でも扱うかのように丁重にシルクのハンカチに包むと、セバスチャンに命じて、その店の年間売上に匹敵するほどの法外な値段で、店主が涙を流して感謝する中、快く購入したのであった。ぼろ儲けとはまさにこのことであるが、後日、セバスチャンの手配により出動させられた警察に押し入られて財産共々押収されるとはこの時の古美術商は思いもしなかった。


 その頃、『ガーディアンズ』指令室では、依然として「エンプレス・モフ」の正確な位置を特定できず、混乱が続いていた。

 ドクター・アリスは、パティスリー周辺の監視カメラ映像を血眼になって分析し、「見ましたか、司令! あのパティスリーの店員、エンプレス・モフに何か小さなメモのようなものを渡していましたわ! やはりあそこが連絡拠点! そして、彼女が購入したスフレの箱の中には、きっと何らかの暗号化されたメッセージか、あるいは小型の魔獣が隠されているに違いありませんのよ!」と、新たな、そしてさらに現実離れした仮説を次々と展開していた。

 神宮寺司令は、もはや何も言う気力も、胃薬を飲む気力すらも失い、ただ静かに、デスクに突っ伏し、自分の額に「任務放棄」と書かれた辞表の幻覚が見え始めていた。

 万里小路聖歌の持つ勘と、彼女の有する優秀な護衛たちの活躍により、今日もまた、『ガーディアンズ』の誇る最新鋭の監視技術と、天才科学者の暴走する頭脳をズタズタに引き裂き、そして彼らの誤解を、より深く、より複雑で、そしてより救いようのない、もはやコメディとしか言いようのない泥沼へと導いていくのであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る