第8話「月影狼」
万里小路聖歌の『ザ・ワン様お迎えプロジェクト』は、その壮大なる第一歩として、地球上に存在するかもしれない、まだ見ぬ至高のもふもふの原石を探し出し、丁重にお迎えするという、極めて個人的かつ世界規模のスカウト活動から始まっていた。
もちろん、その活動資金と実行力は、全て万里小路家の無尽蔵の財力と、セバスチャン率いる超有能なスタッフたちによって賄われている。
聖歌自身は、サンルームで優雅に紅茶を嗜みながら、セバスチャンが世界中から集めてくる有望なるもふもふ候補リスト(極秘)に目を通し、その中から特に心惹かれる運命のお相手を選定するだけ、という、まさに女王様のごとき立場であった。
最早何でもありだなという話だが、何でもありがまかり通るのが現当主万里小路聖歌という人間なのである。
そして、数ある候補の中から、今回聖歌のもふもふアンテナが強く反応したのは、都心からやや離れた、現在は閉鎖されている広大な植物園の跡地に棲息するという、月光を浴びてその毛並みが白銀に輝き、まるで生きる月光そのものとも噂される、美しい狼型の特異生物――巷のオカルトマニアや一部の魔法少女たちの間では、その神秘的な姿から
「まあ……! なんて詩的で、そして魂を揺さぶるほどに美しい響きのお名前なのでしょう、月影狼様……!」
聖歌は、セバスチャンが用意した、月影狼の高解像度写真と、その周辺環境の生態学的データが添付された報告書を、うっとりとした表情で眺めていた。
高解像度写真はもちろん万里小路家特製の超高性能隠しカメラで、対象に気づかれずに撮影されたものだし、データはドローンと特殊センサーを駆使し、風向きや月の満ち欠け、さらには周辺の土地の精霊的エネルギー値まで網羅した、完璧なレポートだ。
写真に写る月影狼は、確かに夜の闇の中で、その銀色の毛並みを月の光に照らされて神秘的に輝かせ、孤高の気品を漂わせる美しい狼の姿をしていた。
「この、まるで
聖歌は、早速セバスチャンに次の指示を出した。その内容は、表向きはあくまで「月の美しい今宵、少々遠出のピクニックを計画しておりましてよ。そこで偶然出会うかもしれない、新しい月の妖精か、あるいは狼の姿をした月の神様のようなお友達をお迎えするための、ささやかで、でも万全を期した準備をお願いできますかしら?」という、どこまでもメルヘンチックで、そしてお嬢様の可愛らしい我儘の範疇に収まっているはずであった。少なくとも、聖歌本人の認識においては。
セバスチャンは、その言葉の裏にある真の目的を正確に理解しつつも、「かしこまりました、お嬢様。月の女神も、その完璧なおもてなしに嫉妬するほどの、万全なるピクニックをご用意させていただきます」と、完璧な笑顔で応じた。
そして、そのピクニック当日、月の光が冴え冴えと地上を照らす……と聖歌が判断した完璧な夜。
かつて多くの市民の憩いの場であった広大な月見ヶ丘植物園の跡地は、現在は高い鉄条網と『関係者以外立入禁止・違反者は法的措置も辞さず・特に夜間は猛犬注意』といった物々しい警告看板に囲まれ、月光の下、不気味なほどの静寂の中に沈んでいた。
その廃園の周囲を、しかし、まるでこれから某国の特殊部隊が秘密裏に軍事作戦でも開始するかのような、最新鋭の装備を搭載した漆黒の車両が、音もなく、そして完璧な包囲フォーメーションで取り囲んでいた。
中央には、万里小路家の紋章が控えめに――しかしもちろん純金で、暗闇でも微かに輝くように特殊加工が施されて――あしらわれた、超大型の特注キャンピングトレーラー『
その周囲には、黒のタクティカルスーツに身を包み、暗視ゴーグルと特殊な非殺傷系音波兵器――対特異生物用、ただし主な効果は「対象を心地よい眠りへと誘う」という聖歌様の要望を反映したもの――を装備した、木村率いる屈強なボディガードたちが、数十名単位で包囲網を敷いて展開。上空には、複数のフクロウ型サイレントドローン
これが、万里小路聖歌の言う「ちょっとしたピクニックの準備」の、その恐るべきもふもふ中心主義的な全容であった。
「セバスチャン、本当に素晴らしい、完璧な準備ですわね。これなら、どんなにシャイで、どんなにデリケートで、そしてどんなに毛玉だらけの月の妖精さんをお迎えすることになっても、安心してわたくしのもふもふサンクチュアリへ丁重にお連れすることができますわ。このわたくしの期待に応えてくれるなんて、あなたはやはり世界最高の執事、いえ、もはや『もふもふソムリエ』の称号を差し上げるべきですわね!」
セバスチャンは、銀のトレイに乗せた最高級台湾産凍頂烏龍茶を聖歌に差し出しながら、恭しく一礼する。
「お嬢様にご満足いただけまして、そして『もふもふソムリエ』などという過分なる称号まで賜りまして、望外の光栄でございます。周囲の安全確保、及び、対象となります『月の妖精様』の、心身両面、そして何よりもその『毛並みの尊厳』に最大限配慮した、丁重なる保護のための準備は、全て万端整っております。あとは、お嬢様の『
その言葉に、聖歌は「まあ、ピクニックですのに、本当に大袈裟ですこと。でも、それもまた、万里小路家の『おもてなしの心』と、わたくしの『もふもふへの愛』の現れなのでしょうね。うふふ」と、優雅に小首を傾げたが、特に深く気にする様子もなかった。
この常軌を逸した、もはや「ピクニック」という言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうなほどの準備は、当然ながら、対魔獣防衛機構『ガーディアンズ』の知るところとなっていた。
前回の『エンプレス・モフ』正式認定と、ドクター・アリス直属の特別対策本部の設置、及び、暴走阻止のための監視役として神宮司司令の名の下で配属された極秘部隊『サイレントナイト』を受け、彼らは万里小路聖歌のあらゆる動向を、文字通り24時間365日体制で、国家機密レベルの予算と人員、そして最新鋭の監視技術を投入して監視していたのだ。
もっとも、その監視網の多くは、万里小路家の超高度な防諜システムと、聖歌自身の予測不能な『もふもふレーダー』による気まぐれな行動によって、ことごとく無力化され、あるいは誤情報に踊らされ続けていたが……。
そして、この月見ヶ丘植物園跡地への、明らかに異常な規模の人員と、某国の小規模な軍事介入と見紛うほどの最新鋭物資の移動は、即座に『ガーディアンズ』日本支部指令室の全モニターに、最高レベルの緊急警戒警報として叩きつけられた。
「間違いない! エンプレス・モフが、ついに動いたぞ! しかも、今回は本気も本気、過去最大規模の『お迎え』作戦だ!」
指令室では、ドクター・アリスが、いつもの白衣を興奮のあまりはだけさせ、髪を振り乱しながら、普段の早口がさらに三倍速になったかのような勢いで奇声を上げていた。
その大きな丸眼鏡の奥の瞳は、新たな仮説と陰謀論と、そしてほんの少しの個人的な期待で、子供のように、あるいは
「この規模、この完璧なまでの布陣、そしてこの月齢と潮の満ち引き、さらには地磁気の微妙な変動と、今夜のラッキーカラー占いまで計算に入れたかのような絶妙なタイミング! これは、間違いなく、伝説の希少魔獣『月影狼』を捕獲し、完全に自身の支配下に置き、そしてその魂の奥底まで『もふもふ調教』を施すための、恐ろしく周到に計画された大規模作戦ですわ! 月影狼の持つと言われる、月光エネルギーを自在に操作し、他者の精神に聖なる月の癒やし、あるいは恐怖を与えるという特殊能力……あれを解析し、自らの『
神宮寺司令は、メインスクリーンにリアルタイムで映し出される、万里小路家のピクニックという名の特殊生物戦略的捕獲および懐柔部隊の、もはや笑うしかないほどの圧倒的な威容と、ドクター・アリスの常軌を逸した熱弁に、最早何度目かも分からない、今日一番強烈な頭痛と胃痛と、そしてほんの少しの「いっそ、もう全部任せてしまおうか」という諦観を同時に覚えていた。
彼は、デスクの引き出しから、特大サイズの胃薬の瓶と、強力な鎮痛剤、そして非常用の精神安定剤を取り出し、ミネラルウォーターであくまで適量を一気に呷った。でも併用しちゃダメなやつである。多分そろそろ死ぬかもしれない。遺書は用意済みである。
「如月凛子! 君の遊撃部隊、及び待機中のBチームは、直ちに現場へ急行! エンプレス・モフの行動を厳重に監視し、そして万が一、彼女が月影狼に対し何らかの強制的な契約、あるいは洗脳に近い形での聖獣化を行なおうとした場合は…その作戦の規模と危険性、そして何よりも万里小路家の社会的影響力を最大限考慮し、実力をもって、しかしあくまで『穏便に』これを阻止せよ! ただし、くれぐれも、万里小路家との全面的な武力衝突だけは、地球が滅びるとしても絶対に避けろ……あくまで、慎重に、そして冷静に、できることなら『話し合い』で解決するのだ。これは、命令である! ……聞こえているか、如月隊員? 無茶を言うなと怒鳴りたい気持ちは分かるが、これが我々にできる最大限だ……」
「はっ! ……承知、いたしました、司令。Bチームと共に、直ちに現場へ向かいます。しかし司令、あの、万里小路家の私設部隊とも呼べる常軌を逸した規模の戦力と、そして何よりもエンプレス・モフ自身の未知数の能力……我々魔法少女部隊だけで、本当に『穏便に』対処可能なのでしょうか…? それに、もしもの場合、万里小路家を敵に回すということが、この『ガーディアンズ』という組織にとって、そしてこの国にとって、一体何を意味するのか……わたくしには、想像もつきません……」
通信機越しに聞こえる凛子の声には、エースとしての誇りと責任感、そしてそれ以上に、未知の強大な存在と、その背後にあるさらに巨大な権力に対する、隠しきれない不安と困惑が滲んでいた。
彼女の隣では、Bチームの
「これは命令だ、如月隊員。我々は、エンプレス・モフの真の目的と、彼女の持つ力の全貌、そして何よりも彼女の『ご機嫌』を損ねることなく、この事態を収拾する方法を突き止めるまでは、決して軽率な行動は取れん。だが、これ以上の魔獣の『私有化』、そしてその『聖獣軍団』の無許可な拡大は、世界のパワーバランスと、何よりもわたしの胃の平和を崩壊させかねない、断じて許されざる行為だ! 行け! そして、必ず生きて帰ってこい……! わたしは死ぬかもしれないが!」
「指令……っ!」
その頃、聖歌は、お供の聖獣筆頭としてすっかり板についたもふアンを、特注のシルクとビロードでできたお散歩用肩掛けロイヤルクッションに乗せ、木村を含む数名の選りすぐりのボディガードだけを伴い、月光が神秘的な影を落とす植物園の奥深くへと、その華奢な足を進めていた。彼女のもふもふセンサーは、既に、この植物園の最も奥深く、かつて熱帯植物が鬱蒼と茂っていたという巨大なガラスドームの中から発せられる、微かで、しかし確実に極上の銀色のもふもふの気配と、それに付随するマイナスイオンたっぷりな癒やしのオーラを正確に捉えていたのだ。
月の光が、ドームの割れたガラスの隙間から、まるでオペラ座の舞台を照らすスポットライトのように、ドラマチックに差し込むように設計されたとしか思えないほど絶妙な配置の古い円形のステージの上で、ついに聖歌は、その探し求めていた運命の存在の姿を、その大きな蒼い瞳で捉えた。
銀色の毛並みが、月光を浴びて、まるで液体金属か、あるいは天の川から零れ落ちた星屑をそのまま溶かし込んで磨き上げた最高級のプラチナベルベットのように、滑らかに、神秘的な輝きを放っている、孤高にして気高く、言葉を失うほどに美しい狼型の魔獣――月影狼。それは、その鋭く澄み切った蒼氷色の瞳で、聖歌たち不躾な侵入者を冷ややかに睨みつけ、喉の奥から「グルル……フゥゥゥーッ……」という、大地を震わせるかのような低い唸り声と、絶対零度の吐息を上げ、明確な敵意と、触れるもの全てを凍てつかせるかのような聖なる警戒心を、その全身から剥き出しにしていた。その体からは、触れれば魂ごと凍傷を負いかねないほどの、鋭く冷たく、しかしどこまでも清浄なオーラが放たれている。
「まあ……!!」
聖歌の桜色の唇から、感嘆と、恍惚と、畏敬の念すらも込もった熱っぽい吐息が、再び、しかしこれまで以上に深く、そして長く漏れた。
「噂に違わぬ、いえ、わたくしの貧困な想像力を遥かに、それこそアンドロメダ銀河の彼方まで超越するほどの、素晴らしい毛並み……! そして、この月光の女神アルテミスが、その寵愛する聖獣に自らの
「くるぅ!?」
現在のセンターであるもふアンが思わず抗議の声を上げるのを撫でつけつつも、聖歌は目前の大いなるもふもふに魅入っていた。
ボディガードたちが、緊張した面持ちで最新鋭の非殺傷系音波銃の安全装置を静かに外し、いつでも発砲できる体勢を取る中、聖歌は、もはや彼女の十八番とも言えるお約束の、そして誰にも止められない運命の行動として、何のためらいもなく、まるで夢の中を歩む遊病者のように、あるいは運命の王子様に引き寄せられる眠れる森の美女のように、ふわりと、月影狼へとその最初の一歩を踏み出した。
「初めまして、麗しき月影狼様、いえ、わたくしが今、この瞬間に命名させていただきました、永久不滅の真名、『ルナティック・シルバーファング・オブ・ムーンライト・エンペラー・ザ・グレートウルフ・ゴッド』様!。わたくし、万里小路聖歌と申しますの。あなた様のそのあまりにも美しく、そして触れればきっとわたくしの魂が月の彼方へと浄化昇天してしまうに違いない素晴らしい銀色の毛並みに、一目で、いえ、お噂を耳にした瞬間から心を奪われ、こうして、この月夜の晩に、運命の赤い糸に導かれて会いに参りましたの。もし、もしよろしければ、このわたくしの、生涯でただ一人の、かけがえのない、大切で、そして何よりも『もふもふ』なお友達になっていただけませんこと? もちろん、お友達になっていただけた暁には、毎日三食昼寝おやつ付き、最高級の獣毛ブラシによる至福のブラッシングと、わたくしが世界中から取り寄せた秘伝のレシピで調合いたします『月光浴びすぎちゃった☆敏感肌の狼さん専用・うるつやプラチナコート・トリートメント』、そして何よりも、このわたくしの、宇宙の果てまで届くほどの無限の愛と『もふもふ』を、心ゆくまで、永遠にご提供させていただきますわ!」
「くるあぁぅ!?」
もふアン立場危うしである。
月影狼は、聖歌のその熱烈な口説き文句にも、全く警戒を解くことなく、さらに低い唸り声を上げ、その鋭く尖った銀色の牙を剥き出しにした。人語を理解する月影狼も、聖歌語を正確に理解するのは無理だったのだろう。その顔には明らかに困惑のそれが浮かんでいる。誰だってそうなる。その体からは、絶対零度の冷気が放たれ、周囲の草木がパチパチと音を立てて凍りついていく。だが、聖歌がさらに数歩近づき、その華奢な白い手から、何か不思議な、まるで春の陽だまりのような、あるいは生まれたての純白の子兎のような、穏やかで、温かく、そして抗いがたいほどに心地よい、金色のオーラがふわりと発せられた瞬間、月影狼の唸り声が僅かに途切れ、その鋭い蒼氷色の瞳に、ほんの一瞬だけ、深い困惑――最初から困惑しっぱなしではあったが――と、ほんの僅かな好奇の色が浮かんだように見えた。
その一部始終を、植物園の外周に設置された高性能センサーと、上空を舞う超望遠カメラ付きドローンで監視していた如月凛子とBチームの面々は、息を飲んだ。
「また……あの現象が起きるというの……? あの少女、一体どれほど我々の常識を超えた力を持っているというの……! ルミナ、解析はまだ!?」
『……凛子、危険です。対象エンプレス・モフから発せられているエネルギーパターン、前回遭遇時のデータとは比較にならないほど強力、かつ複雑な多重構造を示しています。これは……もはや単なる『浄化』というよりは、『魅了』『精神支配』あるいは『絶対的服従を強いる聖なるオーラ』に近い……。我々の理解と対処能力を、完全に超えています……! Bチームの皆さんにも、最大限の警戒を! 下手に魅入られれば、我々が支配下に置かれる可能性があります……っ!』
ルミナの緊迫した警告も、もはや聖歌のもふもふ突撃を止めることはできない。
聖歌は、怯えながらも威嚇を続ける月影狼の前にそっとしゃがみ込むと、どこから取り出したのか、懐から最高級丹波産黒豆きな粉と沖縄産八重山黒糖を贅沢に使用し、創業三百年の金沢の老舗中の老舗菓子店に「月に叢雲、花に風、そして狼にこの逸品」という謎のコンセプトで特注で作らせたという、見た目も芸術的に美しい三日月型の高貴なる動物様のための最高級和風ビスケットを、白いレースの手袋に包まれた指先で、まるで聖体を捧げるかのように優しく差し出した。
「さあ、どうぞお食べになって? これは、月を愛で、そして月に愛される、気高いあなた様にこそ相応しい、わたくしからのささやかな友好の
月影狼は、その香ばしくも甘く、そしてどこか懐かしいような、抗いがたいビスケットの香りと、何よりも、聖歌から発せられる、全ての警戒心と敵意を溶かし去り、魂の奥底から絶対的な安心感と幸福感と、そしてほんの少しの「この人のためなら何でもしたい」という忠誠心で満たしてしまうかのような、不思議で温かい、そしてどこまでも深い黄金色のオーラに、しばし葛藤するような素振りを見せた。
その鋭い蒼氷色の瞳が、聖歌の慈愛に満ちた純粋な蒼い瞳と、差し出された魅惑のビスケットの間を、何度か、そして徐々にゆっくりと揺れ動いた後、ついに、おずおずと、ほんの少しの諦観をもって顔を近づけ、そのビスケットの端を、小さなピンク色の舌でぺろりと舐めた。そして――その気高く、孤高であったはずの、月光の化身とも言うべき美しい狼の瞳が、みるみるうちに蕩けていき、まるで生まれて初めて極上の美味と、生まれて初めて無償の愛に出会った子犬のような、恍惚とした、そしてどこまでも幸せそうな表情へと変わっていった。
「きゅぅ……ん。くぅ~ん……ふにゃあ……わふぅ~ん……」
「くぁあああ!?」
もふアンの「寝取られた!?」という叫びも空しく、ここに愛の誓いは成立してしまった……。
先程までの、大地を震わせるかのような力強い魔獣の姿はどこへやら、月影狼は、まるで甘えん坊の巨大な銀色のぬいぐるみのように聖歌の足元にその大きな体をすり寄せると、その美しい銀色の頭を、彼女の差し出す手に、これでもかというほど、そしてもっともっと撫でてほしいと強請るかのように押し付け始めたのである。もふアンの「この野郎こっちくんな!」という抗議虚しく、そのふさふさとした、まるで銀河の星屑を編み込んだかのような美しい尻尾は、喜びのあまりちぎれんばかりに左右に、そして時には嬉しさのあまり空中分解しそうな勢いでブンブンと振られている。
「まあ、まあ! なんて素直で、なんて愛らしく、そしてなんと素晴らしい、教科書に載せたいほどに模範的なもふもふリアクションをしてくださる、賢くて良い子なのでしょう! やはり、わたくしのこのもふもふ鑑定眼と、このわたくしが長年かけて培ってきたもふもふおもてなし術、そして何よりもこの『里小路流・もふもふとの魂の対話術に、一点の曇りも狂いも、そしていかなる誤謬もありませんでしたわ! あなたこそ、わたくしの探し求めていた、月の聖獣、いえ、もはや月の女神そのものですわ!」
聖歌は、もはや感涙にむせばんばかりの、そして母性と慈愛とほんの少しの独占欲が入り混じった満面の笑みで月影狼を力強く抱きしめ、心ゆくまでその白銀の毛並みの、想像を遥かに、それこそ宇宙の果てまで超えるほどに素晴らしい手触りを堪能する。
その傍らでは、聖歌の肩の上の特製ロイヤルクッションからいつの間にか降ろされ、そのあまりのラブラブな光景に若干引き気味になりつつも、拗ねて嫉妬したもふアンが、「もふー! もふもふーっ! もふもふもふもふーーーっ!」と、もふもふアピールをしまくっているのだが……残念ながら今の聖歌の耳には全く、微塵も届いていなかった。もふもふハラスメントここに極まりである。
この、あまりにも衝撃的かつメルヘンチックで、そしてあまりにも『ガーディアンズ』の常識と悪夢を遥かに超えた一部始終を、高性能センサーと超望遠カメラと、一部は魔法少女たちの強化された視覚と、その視覚情報を共有する妖精たちの絶叫で、リアルタイムに記録していた『ガーディアンズ』の監視部隊、及び現場に急行し、物陰から固唾を飲んでその光景を見守っていた如月凛子とBチームの魔法少女たちは、ただただ唖然とし、言葉を失い、そして自分たちのこれまでの常識と価値観と、そして何よりも「魔獣とは何か」「魔法少女の戦いとは何か」という根源的な問いが、ガラガラと音を立てて崩壊し、万華鏡のように砕け散っていくのを、ただ呆然と感じるしかなかった。
特にBチームに至っては昨年、敬愛していた先輩魔法少女を魔獣との交戦で亡くしていただけに、何故あの時に来てくれなかったのか、あの時あの力を作用させに来てくれたらという、たられば門答で頭の中がいっぱいだったが、何とか頭を振り払い、やるべき仕事を全うする。
「ほう……こく……! こちら、監視班ブラボー・ツーより緊急報告! 対象エンプレス・モフは、警戒レベルAクラス、推定戦闘力は魔法少女部隊一個大隊に匹敵するとされた、極めて凶暴かつ希少な魔獣『月影狼』を、一切の物理的抵抗、及び魔法的抵抗を受けることなく、わずか数分で、心身魂の奥底まで手なずけ、懐柔し、絶対的忠誠を誓わせることに成功しました! ……使用されたのは、三日月型の高級和風ビスケット一個と……ハグ、及び頭部・顎下を中心とした戦略的かつ高度な撫でる行為、そして「お友達になりましょう」という、一見すると無邪気な、しかし恐るべき精神感応力を伴った言葉のみであります! 繰り返します! ビスケットとハグとナデナデです! ……司令、これは、もはや我々の理解と対処能力を、銀河系の直径ほどに超越した、未知との遭遇、あるいは神の降臨レベルの事態です……! どうか、我々下々の者にも理解できるような、ご指示を……! できれば、今後の人生設計に関するアドバイスもいただけると幸いです……! これは夢なのでしょうか!」
その、もはや報告というよりは遺言に近い、若干の錯乱と思考放棄の兆候すら見られる通信を受けた神宮寺司令は、天を仰ぎ、そして静かにデスクの引き出しから非常用の辞表を取り出し、日付を記入し始めた……。
一方、ドクター・アリスは、指令室のメインモニターに大写しにされた、聖歌にじゃれつき、その足元で嬉しそうに尻尾を振る月影狼の映像を食い入るように見つめながら、「見なさい、司令! あの圧倒的なまでの、宇宙的規模のカリスマ性! あの有無を言わせぬ人心掌握術、いや、獣心掌握術、もはや神獣掌握術! ビスケットは、ただのきっかけ、ほんの小さな触媒、あるいは『友好の儀式』の供物に過ぎないのですわ! あれこそが、エンプレス・モフがその身に宿すという、高次元精神感応と魂の共振による絶対的調伏能力、『もふもふ・ゴッドハンド・ドミニオン』の、ほんの、ほんの片鱗なのです! なんという恐るべき、そして……なんという愛らしく、そして何よりも……わたくしも一度でいいから体験してみたい力なのでしょう! わたくし、彼女の研究のためなら、この身を、いえ、この『ガーディアンズ』の全予算と全権限を捧げても構いませんわ! ああ、エンプレス・モフ様! どうか、わたくしめにも、その『もふもふ』のごく一部でもお分けくださいまし!」と、新たな、さらに危険度と予算要求額が増した珍説と、そして極めて個人的かつ組織の根幹を揺るがしかねない願望を、恍惚とした表情で展開するのであった。
「もうやめてくれ……僕たちの四十年間はなんだったのだ……」
項垂れるように体から力の抜けた神宮司司令が、四十年前のアウター・ワン・カタストロフの当時を思い出しながら、あの頃の自分が絶対予想することのなかった今に思いを馳せて胃から押し寄せる酸っぱいものを辛うじて飲み込み気絶した。
万里小路聖歌の輝かしきもふもふコレクションに、また一体、強力で大変可愛らしく、そしてこの上なく素晴らしい白銀の毛並みの聖獣が、めでたく加わった瞬間であった。
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