生け花に宿る、もふもふの気配

時系列:高等部二年生の華道の授業中。





 聖アストライア女学園の礼法室「尚心亭しょうしんてい」に隣接する華道教室は、清浄な木の香りと、季節の花々の甘い香りに満たされていた。床の間には、鷹司たかつかさ綾乃あやの先生が活けた見事な立花が飾られ、凛とした気品を漂わせている。生徒たちは、それぞれの花台に向かい、鷹司先生の指導のもと、真剣な面持ちで花と向き合っていた。


 今日の花材は、春の訪れを告げる桃の枝、菜の花、そして撫子。万里小路聖歌もまた、白い陶器の花器を前に、静かに花鋏を手にしていた。彼女の指先は、まるで蝶が花に舞い降りるかのように軽やかに動き、一本一本の花材を丁寧に選び、その表情を確かめている。


「……聖歌さん。あなたのその撫子の選び方、何か特別な基準がおありなのですか? 先程から、同じような撫子を何本も手に取り、その花弁の縁を熱心にご覧になっているようですが」


 鷹司先生が、聖歌の傍らで静かに声をかけた。聖歌は、顔を上げると、にこやかに答えた。


「まあ、鷹司先生。お見通しですのね。ええ、わたくし、この撫子の花びらの、この……ほんの僅かに波打つような縁取りの部分が、まるで春の空を舞う小鳥の、生まれたばかりの羽毛のように繊細で、そして愛らしいと感じまして。その中でも、特に『もふもふ』とした気配を強く感じさせてくれる一本を、探しておりましたの」

「……もふもふとした、気配、ですって?」


 鷹司先生は、その言葉に一瞬、美しい眉をひそめた。華道の指導において、「気配」という言葉を使うことはあっても、それに「もふもふ」という形容詞がつくのは、彼女の長い指導経験の中でも初めてのことだった。


「ええ。この撫子の花びらの質感、そしてこの柔らかな桃色のグラデーション……。それはまるで、わたくしが幼い頃に大切にしていた、アンゴラ兎のぬいぐるみの耳の内側の、あの忘れられない手触りを彷彿とさせますの。そして、こちらの菜の花の黄色は、まるで陽だまりの中で丸くなっている子猫の、あの温かくて安心するような毛並みの色……。これらの花々が持つ、それぞれの『もふもふの気配』を、この花器の中で調和させ、一つの美しい物語として表現できたらと、そう願っておりますの」


 聖歌は、うっとりとした表情で、手にした花材を見つめながら語った。その言葉は、もはや華道の心得というよりは、彼女独自の「もふもふ芸術論」とでも言うべきものであった。

 鷹司先生は、聖歌のその言葉に、しばし黙って耳を傾けていた。そして、ややあってから、静かに口を開いた。


「……聖歌さん。あなたのその感性は、実にユニークで、そして……豊かですね。華道とは、単に花の美しさを活けるだけでなく、その花が持つ生命の気配や、季節の移ろい、そして活ける者の心を表現する道でもあります。あなたが、花材の一つ一つに、そのような深い愛情と、そして独特の『手触りの記憶』を感じ取っていらっしゃるのなら、それはきっと、あなたの作品に、他にはない特別な輝きと温もりを与えることでしょう」

「まあ、先生……!」


 聖歌の顔が、ぱっと明るくなった。


「あなたのその『もふもふの気配』を大切になさい。そして、それをあなたの心で感じたままに、自由に表現してみてください。きっと、素晴らしい作品が生まれるはずですわ。楽しみにしています」


 鷹司先生は、そう言うと、聖歌に優しく微笑みかけ、他の生徒の指導へと移っていった。

 聖歌は、先生の言葉に深く勇気づけられ、改めて花材と向き合った。彼女の指先から生み出される作品は、伝統的な華道の型からはやや逸脱していたかもしれないが、そこには確かに、春の陽光のような温かさと、小動物の柔らかな毛並みを思わせるような、優しく愛らしい「もふもふの気配」が満ち溢れていた。


 その日、鷹司先生は、万里小路聖歌という生徒の持つ、底知れない感性の深淵と、その「もふもふ」という不可解なキーワードの裏に隠された、純粋で強大な愛情の力に、改めて気づかされることとなった。そして、彼女の活けた花が、教室全体を不思議な幸福感で包み込んでいるのを感じ、静かに目を細めるのであった。

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