数式の宇宙ともふもふの次元理論

時系列:高等部二年生の数学の補習授業





 聖アストライア女学園の放課後の教室。

 窓から差し込む西日が、チョークの粉をキラキラと照らし出している。その中で、数学教師の如月きさらぎともえ先生は、数人の生徒を相手に補習授業を行っていた。今日のテーマは、フラクタル図形と自己相似性。黒板には、マンデルブロ集合やコッホ曲線といった、複雑で美しい図形が描かれている。

 補習と一概に言ってもこの場合の補習は学力向上を目的とした補習であるので、決してこの場にいる万里小路聖歌が『もふもふ』に現を抜かした結果、学力不足に陥ったとかではない。


「――このように、フラクタル図形とは、図形の一部を拡大すると、再び全体の図形と同じ形が現れるという、自己相似性を持つ図形のことです。この性質は、自然界の海岸線や雲の形、あるいは植物の葉脈などにも見出すことができます。数学とは、このように世界の隠れた法則性や美しさを記述する言語でもあるのです」


 巴先生の怜悧れいりな声が、静かな教室に響く。

 生徒たちは、難解な数式と図形に、ややうんざりしたような表情でノートを取っていた。

 その中で、万里小路聖歌だけが、黒板のフラクタル図形を、まるで何か素晴らしい芸術作品でも鑑賞するかのように、うっとりとした眼差しで見つめていた。


「……万里小路さん。あなた、何か質問でもありますか? 先程から、そのコッホ雪片の図を熱心に見つめているようですが」


 巴先生が、やや訝しげに声をかけると、聖歌ははっと我に返ったように顔を上げた。


「まあ、巴先生。申し訳ございません、あまりの美しさに、つい見惚れておりましたの。このコッホ雪片の、無限に続く複雑な縁取り……。これはまるで、わたくしが以前、極北の地で出会ったという幻の白銀狐、『スノー・ゴッデス』様の、豊かで幾重にも重なる尾の毛のようですわ! 一本一本の毛が、さらに細かく枝分かれし、それらが集まることで、あの、えもいわれぬ『もふもふ感』と、神々しいまでのボリュームを生み出している……。この図形は、まさにその『もふもふの構造』を、数学的に証明しているのではありませんこと!?」


 聖歌は、目を輝かせながら一気にまくし立てた。教室の他の生徒たちは、聖歌のそのあまりにも突飛な発想に、もはや呆気にとられている。巴先生は、眼鏡の奥の瞳を細め、しばし聖歌の言葉を吟味するかのように沈黙した。


(極北の白銀狐……スノー・ゴッデス……? コッホ雪片が、もふもふの構造……? この生徒の頭の中は、一体どうなっているんだ……。いや、しかし、フラクタル構造が自然界の毛皮のパターンに応用できるという研究論文を、どこかで読んだような気も……)


 巴先生は、数学者としての論理的な思考と、聖歌の非論理的だが妙に核心を突いているかもしれない感性の間で、激しく葛藤した。そして、ややあってから、こほん、と一つ咳払いをして言った。


「……万里小路さん。君のその着眼点は、非常にユニークであり、数学的には……そうですね、全くのナンセンスと言わざるを得ませんが、ある種の詩的な比喩としては、興味深いかもしれません。ただし、その『もふもふの構造』とやらを、テストの答案に記述することは、断じて許可できませんからね」

「あら、先生。わたくしは、数学の美しさと『もふもふ』の美しさは、きっとどこか高次元で、深遠なる法則性によって結びついていると信じておりますのに。例えば、このマンデルブロ集合の複雑な境界線……これは、わたくしがいつかお迎えしたいと願っている、伝説のザ・ワン様の、宇宙そのものを内包したかのような、無限の奥行きを持つ毛並みの質感を予感させますわ。その一点一点に、異なる手触りの小宇宙が広がっているのです……!」


 聖歌は、もはや誰にも止められないといった勢いで、自らの「もふもふ宇宙論」を展開し始めた。巴先生は、その言葉の奔流を浴びながら、遠い目をして窓の外の夕焼け空を眺めた。


(……私の理解を超える生徒は、これまでも何人かいた。だが、ここまで次元の異なる生徒は初めてだ……。もしかしたら、彼女は、我々凡人には見えない『数学の真理』を、その『もふもふ』というレンズを通して見ているのかもしれない……。いや、そんなはずはない。断じてない……はずだ……)


 その日の補習授業は、万里小路聖歌の「もふもふフラクタル理論」によって、かつてないほどのカオスと、そしてほんの僅かな数学的ロマン(と巴先生は信じたくなかったが)に満たされたものとなった。巴先生は、その夜、珍しく深酒をしたという。姪の玲奈、遠縁の親戚にあたる凛子共々聖歌に振り回される可哀そうな人たちであった。

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