聖アストライアのメイ・フェスティバル
時系列:五月下旬、メイ・フェスティバル当日。
五月下旬、聖アストライア女学園は、年に一度の最も華やかな祝祭『メイ・フェスティバル』の熱気に包まれていた。
新緑が目に眩しい中庭には、白いオーガンジーのリボンと季節の花々で飾られたアーチがいくつも設けられ、生徒たちが丹精込めて準備した模擬店や展示ブースが華やかに軒を連ねている。ヴァイオリンやフルートの優雅な音色がそこかしこから流れ、生徒たちの楽しげな笑い声と、甘いお菓子の香りが、初夏の爽やかな風に乗って運ばれてくる。
このフェスティバルは、保護者やOG、そして厳選された招待客にのみ公開される、学園の伝統と品位を披露する重要な機会でもあった。そして、今年のメインテーマは、万里小路聖歌の半ば強引な提案が一部採用された結果、「
午前中の催し物が一段落し、昼過ぎからは中庭の特設ステージで、高等部生徒によるスピーチや音楽演奏が始まることになっていた。そして、そのトップバッターとして、高等部代表の主賓挨拶を行うのは、もちろん万里小路聖歌その人であった。
「聖歌様、まもなくお時間ですわ。ご準備はよろしいでしょうか?」
ステージ袖の控えテントで、生徒会長の如月玲奈が、やや緊張した面持ちで聖歌に声をかけた。彼女は、聖歌がどのようなもふもふスピーチを繰り広げるのか、一抹の不安……というよりは九割九分の覚悟を抱いていた。
事前に提出された原稿は、玲奈によって『過激なもふもふ表現』や『動物愛護を超越した謎の哲学』が大幅に修正・加筆され、かろうじて『学園の品位を保てる範囲内』に収められてはいたが、油断はできない。聖歌は、時にアドリブでとんでもないことを言い出す天才でもあるのだから。
「ええ、玲奈様。準備は万端ですわ」
聖歌は、この日のために新調した、若草色のシルク地に、白い小花と金色の蝶の刺繍が施された、春の女神のようなドレスをまとい、穏やかに微笑んだ。その手には、これから読み上げるスピーチ原稿(玲奈によって大幅に骨抜きにされたもの)が握られている。しかし、彼女の蒼い瞳の奥には、原稿には書かれていない『真のメッセージ』を、この会場の全ての人々の魂に直接届けんとする、静かで、しかし燃えるような決意が宿っていた。
(皆様の心に、『もふもふの福音』をお届けする時が、ついにやってまいりましたのね……!)
司会の上級生に名前を呼ばれ、聖歌がステージ中央へと歩み出ると、会場からは割れんばかりの拍手と、感嘆のため息が巻き起こった。その美しさと気品は、もはや人間業とは思えず、まるで神話の中から抜け出してきた女神が降臨したかのようであった。
聖歌は、マイクの前に立つと、まず集まった聴衆――生徒、保護者、OG、そして各界の名士たち――に、深々と優雅な一礼をした。そして、鈴を振るような、しかしどこか魂を直接揺さぶるような不思議な響きを持つ声で、語り始めた。
「皆様、本日は聖アストライア女学園メイ・フェスティバルにようこそおいでくださいました。わたくし、高等部二年星組の万里小路聖歌と申します」
そこまでは、玲奈がチェックした原稿通りだった。しかし、次の瞬間、聖歌はふっと顔を上げ、その大きな蒼い瞳で会場全体を見渡し、そして原稿から目を離して、にっこりと微笑んだ。玲奈の背中に、嫌な汗が流れた。
「本日のテーマは『
「……始まったわ……」
玲奈は、ステージ袖で額を押さえた。
「例えば、今朝わたくしが中庭で出会いました、一匹の小さなテントウムシさん。その背中の、まるでエナメル細工のような艶やかな赤い甲殻と、そこに散りばめられた黒い点の、ベルベットのような微細な起毛……。それは、まさに小さな宝石箱のような、完璧な『美』と『手触り』の調和でしたわ。また、この会場を彩る美しい花々。その花びら一枚一枚が持つ、シルクのような滑らかさ、あるいは和紙のような繊細な皺、そして露に濡れた時の、あのひんやりとした官能的なまでの感触……。これら全てが、生命の輝きであり、そして我々が五感を通じて触れ合うことのできる、奇跡の『もふもふ』なのでございます!」
聖歌の熱弁は、止まらない。彼女の口からは、次から次へと、ありとあらゆるものの『手触り』と『もふもふポイント』に関する、詩的で、情熱的で、そしてどこか常軌を逸した賛辞が溢れ出してくる。最初はぽかんとしていた聴衆も、いつしか聖歌のその不思議なカリスマと、その言葉から溢れ出す純粋な愛情に引き込まれ、まるで催眠術にでもかかったかのように、うっとりと聴き入っていた。
「わたくしたちは、日々の忙しさの中で、つい忘れがちですけれど、この世界は、なんと素晴らしい『もふもふ』に満ち溢れていることでしょう! あなたの隣にいるお友達の、その温かい手の感触。ご家族の、その優しい抱擁の温もり。そして、道端で見かける名もなき小動物たちの、その柔らかな毛並みや、小さな肉球の愛らしさ……。それら全てが、我々の心を癒やし、魂を浄化し、そして生きる喜びを与えてくれる、かけがえのない『宝物』なのですわ! さあ、皆様、今日この日から、もっともっと積極的に、身の回りにある『もふもふ』と触れ合い、その素晴らしさを称え合い、そしてその愛を世界に広めていきましょうではございませんか! それこそが、真の『触れ合う心、繋がる絆』であり、そしてこのメイ・フェスティバルが目指すべき、最高の『生命の輝き』なのでございます!」
聖歌が、両手を広げ、まるで女神が福音でも告げるかのように高らかに宣言すると、会場は一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。多くの保護者やOGが、感動のあまり涙ぐんでいる。玲奈は、その光景を信じられない思いで見つめていた。
(……何が起こったの……? あの、支離滅裂で、もふもふ一色のスピーチが、なぜこんなにも聴衆の心を掴んでいるの……? これが……これが聖歌のカリスマというものなの……? こわ……)
玲奈は、もはや自分の常識ではこの状況を理解することを放棄し、ただただ、ステージ上で万雷の拍手に応えて優雅にお辞儀をする聖歌の姿を、呆然と見つめるしかなかった。
ちなみに、聖歌が当初企画していた『世界のもふもふ大行進』や『臨時もふもふふれあい動物園』は、玲奈と学園長の必死の説得(というより懇願)によって、かろうじて阻止された。しかし、その代わりに、聖歌のクラスである二年星組の展示ブースは、「聖歌様プロデュース! 触って癒やされ天国気分! 究極のもふもふアート展」と銘打たれ、聖歌がこれまでにスケッチした理想のもふもふ生物の巨大ぬいぐるみや、世界各地の珍しい動物の毛皮のサンプル、そして聖歌自身が詠んだ「もふもふ万葉集」の美しい書などが展示され、一部の熱狂的な聖歌ファンと、その異様さに興味を引かれた好事家の間で、カルト的な人気を博していたという。
聖アストライア女学園のメイ・フェスティバルは、こうして、一人の『もふもふの女神』の降臨によって、かつてないほどの熱狂と、そしてほんの少しの混乱(主に玲奈の胃袋の中で)と共に、幕を閉じたのであった。
そして、この日、聖歌のスピーチに感動した一部の生徒や保護者の間で、「世界もふもふ愛好連盟・アストライア支部」が秘密裏に結成されたという噂も、まことしやかに囁かれるようになったという。
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学園祭編で入る予定の内容も入れちゃってた部分だけ削除
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