幕間:聖アストライアの昼下がり

時系列:もふアン魔獣時目撃→聖獣化前



 結界越しの煌めきを目撃した翌日。

 万里小路まりのこうじ聖歌せいかの学園生活は、表面上は何一つ変わることなく、完璧な調和の中で時を刻んでいた。

 昨夜の出来事は、彼女の胸の奥深くに、新たな『もふもふ』への鮮烈な興味という名の小さな種を蒔いたが、その種が芽を出すのはもう少し先のこと。

 今はまだ、淑女教育の緻密なカリキュラムと、級友たちとの優雅な交流が日常の主旋律であった。


 昼休み。聖アストライア女学園自慢の大食堂ルミエールは、生徒たちの華やかな談笑で満たされていた。


 ガラス張りの天井から降り注ぐ柔らかな陽光が、白いテーブルクロスや銀食器をきらきらと照らし出し、まるで高級ホテルのメインダイニングのような雰囲気を醸し出している。

 今日のランチメニューは、舌平目ウシノシタのムニエル~焦がしバターソース~、季節の温野菜添え、そして数種類の焼きたてジャパン。デザートには、パティシエ特製のベリータルトが用意されていた。

 聖歌は、生徒会長の如月きさらぎ玲奈れいなと、取り巻きである一条院いちじょういん彩子あやこたちばな響子きょうこ白鳥しらとり百合子ゆりこといったいつものメンバーと共に、中庭の薔薇園を見渡せる窓際の特等席についていた。


「聖歌様、本日の舌平目ウシノシタ、ソースの焦がし具合が絶妙ですわね。わたくし、思わずパンをお代わりしてしまいましたわ」


 彩子が、うっとりとした表情でフォークを置いた。彼女は美食家としても知られ、その評価は学園内でも一目置かれている。


「ええ、彩子様。バターの芳醇ほうじゅんな香りと、レモンの爽やかな酸味が素晴らしいハーモニーを奏でておりますわね。そして何よりも、この舌平目の身の、ほろりとした繊細な舌触り……まるで、上質なカシミアのストールを舌で味わっているかのようですわ」


 聖歌の独特の食レポに、玲奈がすかさずツッコミを入れる。


「……聖歌、その比喩はどうかと思うわ。カシミアは食べるものではないでしょう」

「あら、玲奈様。最高の褒め言葉のつもりでしたのに。手触りの素晴らしさを表現する語彙が、そのまま味覚の素晴らしさにも通じることだってあるはずですわ。例えば、このパンのクラムの柔らかさ、まるでアンゴラ兎の赤ちゃんのようですもの」


 聖歌は、手にしたパンを愛おしそうに見つめながら言った。

 周囲の生徒たちは、もはや聖歌のもふもふ語録に慣れっこになっており、響子などは「確かに、言われてみればそんな気もするな!」と笑っている。リリィ――百合子のこと――は、「アンゴラ兎の赤ちゃん……きっと、ふわふわで温かいんでしょうねえ」と夢見るような表情を浮かべていた。

 そんな和やかな、そしてどこか珍妙な会話が続く中、ふと、聖歌の視線が窓の外、中庭の一点に吸い寄せられた。

 そこでは、学園の庭師頭であるグラン・パルファン――と生徒たちが親しみを込めて呼ぶ老庭師――が、剪定した薔薇の枝を丁寧に集めている。その傍らで、学園のマスコット猫であるアンリエット様が、日向ぼっこをしながら丸くなっていた。


「……アンリエット様のあの毛並み。陽光を浴びて、まるで銀色のシルクのようですわね。そして、グラン・パルファンのあの使い込まれた革手袋……長年薔薇に触れ続けてきたその手袋は、きっと独特の柔らかさと温もりを宿しているに違いありませんわ」


 聖歌の呟きは、誰に言うともなく、彼女の関心のありかを明確に示していた。

 玲奈は、またか、と内心で肩をすくめたが、何も言わずにベリータルトにフォークを入れた。美味しい。





 午後の授業は、アルベール先生担当の美術。今日のテーマは『質感の表現』だった。

 教室内には、様々な素材――ベルベットの布、使い古された革、光沢のある金属、ざらざらした石、そして鳥の羽や動物の毛皮の標本の精巧なレプリカ――が用意され、生徒たちはそれらを自由に選び、鉛筆や木炭、パステルなどを使ってデッサンに取り組んでいた。

 聖歌は、迷うことなく、白孔雀の大きな羽と、黒猫の毛皮のレプリカを選び取った。

 そして、画用紙に向かうと、まるで何かに憑かれたかのように、驚くべき集中力で筆を動かし始めた。

 アルベール先生は、教室内をゆっくりと巡回し、生徒たちの作品にアドバイスを与えていたが、聖歌の席の前で足を止めると、興味深そうに彼女の手元を覗き込んだ。


「ほう、マドモアゼル・マリーゴールド。その筆致、まるで羽毛の一本一本、毛の一筋一筋に命を吹き込んでいるかのようだね。君は、対象の手触りを、視覚情報として完璧に捉え、それを紙の上に再構築する才能に長けているようだ」

「先生、ありがとうございます。わたくし、この白孔雀の羽の、空気を孕んだような軽やかさと、その奥に秘められた芯の強さ……そして、この黒猫の毛皮の、闇よりも深く、それでいてシルクのような光沢と滑らかさを、どうにかして表現したいのですけれど、なかなか思うようにはいきませんの。本当に触れた時の、あの指先に伝わる官能的な感触を、絵で伝えるというのは、かくも難しいものなのですね」


 聖歌は、少し残念そうに眉を寄せたが、その目は燃えるような探究心に満ちていた。

 アルベール先生は、その言葉に深く頷いた。


「その通りだ、マドモアゼル・マリーゴールド。芸術とは、詰まるところ、見えぬものを描き、触れえぬものを感じさせる試みなのかもしれない。君のその触覚への渇望は、いずれ君だけのユニークな芸術世界を切り開くだろう。楽しみにしているよ」


 先生の言葉に、聖歌の表情がぱっと明るくなった。


「はい、先生! わたくし、頑張りますわ!」


 その日の聖歌のデッサンは、他のどの生徒の作品よりも、圧倒的なまでの質感と、見る者の指先にまでその感触を訴えかけてくるような、不思議な迫力に満ちていたという。

 放課後、聖歌はいつものように図書館の稀覯書きこうしょ室へと足を運んだ。彼女が手に取ったのは、古い博物誌や、世界各地の幻獣に関する記述が収められた古文書だった。ページをめくるたびに、羊皮紙の乾いた感触と、古いインクの微かな匂いが、彼女の五感を刺激する。


(昨日見た、あの黒豹のような獣……その毛皮は、きっとこの本に載っている、夜を統べる幻獣のそれに近かったに違いないですわ。あの力強さ、あの野性味……そして、あの、雨に濡れてなお失われない密度の高い毛並み……)


 聖歌の心は、既に昨夜の公園へと飛んでいた。まだ見ぬもふもふへの期待と、それを確かめたいという抑えきれない衝動が、彼女の中で静かに、しかし確実に育ち始めていた。

 聖アストライア女学園という完璧な箱庭の静謐な日常は、彼女の内に秘めたる本能を、もはや包み隠しきれなくなりつつあったのかもしれない。

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