第3話「始動する極秘計画」

 その日から数日間、聖歌は『星渡りの獣の譚』を繰り返し読みふけり、そこに描かれた『原初の巨獣』の、まだ見ぬもふもふの素晴らしさに想いを馳せては、うっとりとしたため息をつくばかりであった。しかし、ある日、彼女はふと我に返った。


「……でも、この方は異世界の伝説のお方……わたくしが、この地球でお会いすることは叶わないのでしょうか……? ああ、なんということでしょう、この胸を焦がすほどの想い、この指先が疼くほどの渇望を、どうすれば……」


 その時、まるで天啓のように、彼女の脳裏に執事セバスチャンの顔が浮かんだ。


「そうですわ! セバスチャンなら、あるいは……!」


 聖歌は、すぐさまセバスチャンの元へと駆けつけると、いつになく真剣な、そして切実な表情で尋ねた。


「セバスチャン! あなたに、大至急調べていただきたいことがありますわ! この『星渡りの獣の譚』という書物に記されているのですけれど、このような……その、夜空のような毛皮を持ち、オーロラのように輝き、そして宇宙の神秘を宿したかのような、それはそれは素晴らしい『巨獣』が、この地球上、あるいはその近辺に、存在している可能性はございませんこと? もしくは、過去に存在したという記録でも構いませんわ! お願いです、万里小路家の全ての情報網を駆使して、お調べになってちょうだい!」


 セバスチャンは、聖歌のそのあまりの剣幕と、彼女が手にしている異世界の文献らしきものの表紙の奇妙な紋章に、一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにいつもの完璧な執事の顔に戻り、恭しく一礼した。


「お嬢様、そのような壮大なご関心をお持ちとは、さすがはお嬢様でございます。かしこまりました。その『星渡りの獣』に類する存在に関する情報を全世界、いえ、必要とあらば宇宙の果てまで、このセバスチャンが責任を持ってお調べし、ご報告申し上げます」


 その言葉通り、数日後、セバスチャンは聖歌の元へ、驚くべき報告をもたらした。


「お嬢様。先日ご依頼のありました『星渡りの獣』に酷似した存在について、極めて興味深い、そして重大な情報が見つかりました。実は、今から四十年前、この地球にも、その記述と驚くほど特徴が一致する巨大な未知の存在が出現し、世界各地に甚大な被害をもたらしたという記録が、ごく一部の政府機関及び研究機関に極秘裏に保管されておりました。その事件は、当時関わった者たちの間で、『アウター・ワン・カタストロフ』と呼ばれていたようでございます」

「まあ! 『アウター・ワン』ですって!? なんという……! では、その方は今、どちらにいらっしゃるの!?」


 聖歌は、身を乗り出して尋ねた。


「……それが、お嬢様。その『アウター・ワン』は、当時の魔法少女……いえ、特殊な能力を持つ少女たちの決死の戦いと、国際的な協力によって設立されたばかりの『ガーディアンズ』という組織の、文字通り総力を挙げた封印作戦によって、かろうじてその活動を停止させられ、現在は、その『ガーディアンズ』日本支部の地下最も深い場所に、何重もの厳重な結界と物理的拘束具、さらには異なる次元の壁を隔てた先にいわば保護、管理されているとのことでございます」


 セバスチャンは、さらに続けた。


「ただし、その封印は決して完全なものではなく、いつ再びその強大な力が目覚め、世界に厄災をもたらすかわからない、極めて不安定で危険な状態にある、とも……」


 その言葉を聞いた瞬間、万里小路聖歌の中で、くすぶっていた渇望の炎が、一気に天を焦がすほどの勢いで燃え上がった。そして、壮大にして華麗なる計画が形を取ったのだ。


 数日後――遂に、聖歌は壊れた。


 ――あの、筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい、異世界の伝説にまで謳われた『ザ・ワン』様が、そのような無粋で、野蛮で、そして何よりも『もふもふへの冒涜』としか言いようのない劣悪な環境に『保護・管理』という名目で幽閉されているなど、断じて許せることではありませんわ!

 わたくしが、この万里小路聖歌が、必ずやあの無慈悲で独善的な『ガーディアンズ』とかいう組織の手から『ザ・ワン』様を丁重に『お迎え』し、我が万里小路家の誇る、陽光溢れる広大なサンルームに、主賓としてお招きするのです!

 そして、いずれこのわたくしが主催する、空前絶後にして豪華絢爛、古今東西のあらゆる『もふもふ』が一堂に会し、銀河の星々すらも祝福に駆けつけるという『世界もふもふティーパーティー・イン・ザ・ユニバース』にて、その至高の、宇宙の神秘を宿した毛並みを心ゆくまで堪能し、来る日も来る日も、最高級のブラシとわたくしのゴッドハンドと、そして時には聖獣となったもふアンたちの愛らしいお手伝いのもと、そのお手入れに励むのですわ――!


 何考えてるんだこの子?


 それは、世界のパワーバランスや、人類の存亡、あるいは『ザ・ワン』が持つとされる破壊的な力など、およそ常人が考慮するであろうあらゆる要素を完全に無視し、ただひたすらに純粋なもふもふへの愛と独占欲と、そして可哀想なザ・ワン様をお救いしたいという歪んだ――しかし本人にとっては一点の曇りもない――正義感だけを原動力とした、あまりにも無謀で、あまりにも傍迷惑で、そしてこれ以上ないほど万里小路聖歌らしい、計画であった。


「早速、準備に取り掛からなくてはなりませんわね」


 聖歌は、傍らで心配そうに彼女を見上げていたもふアンの小さな頭を、いつもより一層優しく、そして力強く撫でると、静かな足取りで立ち上がった。


「まずは、『ザ・ワン』様を最高のおもてなしでお迎えするための、完璧な環境を整えなくては。そして何よりも、あの方をあの無粋な『保護施設』から『お迎え』するための、華麗にして大胆不敵な計画を練り上げなくてはなりませんわ!」


 その足は、もはや父の書斎ではなく、再び老執事セバスチャンの部屋へと、確かな目的を持って向かっていた。

 今度の依頼は、単なる情報収集ではない。それは、万里小路家の総力を挙げた『ザ・ワン様お迎え大作戦』の開始を告げるものとなるだろう。


「セバスチャン、入りますわよ。先日の件、素晴らしい報告をありがとう。おかげで、わたくしの長年の夢が、ついに現実のものとなりそうですわ。つきましては、あなたに、そして万里小路家の全てに、わたくしの、いいえ、世界の未来に関わる、それはそれは重要で、そして緊急を要する『一大プロジェクト』への全面的なご協力をお願いしたいのですけれど」


 ノックもそこそこに、勢いよく扉を開けて入ってきた聖歌の、普段からは想像もつかないほど真剣で、そしてどこか鬼気迫るような表情に、セバスチャンは、読んでいた新聞から顔を上げ、長年培ってきたポーカーフェイスを辛うじて保ちながら、恭しく一礼した。


「おやおや、お嬢様。そのように生き生きとしたお顔をなさって、一体どのような心躍る計画が始まりましたのでございましょうか? このセバスチャン、お嬢様のお望みとあらば、たとえそれが月世界の兎の毛を一本残らずブラッシングすることでございましょうとも、あるいは銀河の果てまで最高級のティーカップを届けに上がることでございましょうとも、何なりとお申し付けください」


 この執事もちょっと言っていることとやっている事がおかしいのは、万里小路家のお家柄からだろうか?

 この家の者は皆、正気を最初から失っているのかもしれない。

 遂に壊れたと思った聖歌もまた、最初から壊れていたのかもしれない。


「うふふ、頼もしいですわね、セバスチャン。さすがはわたくしの右腕ですわ。実は、近頃、わたくし、少々『国際的な動物保護活動』と、それから『危機に瀕した希少生物の救済と、その生活環境の劇的な改善』といった分野に、大変強い使命感を覚えるようになりましてよ」


 聖歌は、どこまでも淑やかで、純粋な博愛精神に満ち溢れた令嬢、といった完璧な表情で切り出した。


「ほう、『希少生物の救済と生活環境改善』でございますか。それはまた、お嬢様の慈悲深いお心に相応しい、大変崇高なご活動でございますな」


 セバスチャンは、内心で(来ましたな……そして、その『希少生物』とやらは、おそらく地球上のいかなる分類にも属さない、とんでもない代物なのでしょうな……『生活環境改善』とは、万里小路家の敷地内に、また一つ、常識外れの巨大施設が増えるということか……やれやれ、また当主様がお帰りになった時の言い訳を考えねば……)と、長年の経験から正確に、そして些かうんざりしながらも予測しつつ、完璧な笑顔を崩さない。


「ええ、そうなの。それで、特にあの『ガーディアンズ』とかいう、何やら物々しい名前の国際組織が『保護』という名目で事実上『幽閉』なさっている、あの……その……『アウター・ワン・カタストロフ』の中心にいらっしゃったという、『非常に大型で、そしておそらくは絶滅の危機に瀕しているであろう、大変珍しくて、そして何よりも筆舌に尽くしがたいほどにもふもふでいらっしゃるに違いない、伝説の生物『ザ・ワン』の現在の『保護』状況について、詳しく、そして大至急調査していただきたいのですけれど。特に、そのお方の、現在の飼育環境――例えば、お食事の内容(まさか粗末なドッグフードなどではありますまいね?)、運動の時間(狭い檻に閉じ込めてなどいないでしょうね?)、そして何よりも、そのお寝床の素材の品質(まさか冷たいコンクリートの上ではありますまいね!?)や、ブラッシングの頻度(まさか一週間に一度などという怠慢では……!)、使用しているブラシの種類(まさかナイロン製の安物では……??)といった、そのお方の尊厳と幸福に関わる、極めて重要なデータを、可能な限り詳細に、そして秘密裏に収集していただきたいのですわ! これは、万里小路家の、いえ、この宇宙に存在する全ての『もふもふ』の未来に関わる、大変デリケートで、そして何よりも神聖な調査なのですからっ!」


 聖歌の言葉は、どこまでも丁寧で、その表情は純粋な憂いと義憤と使命感に満ちているようにしか見えない。

 老執事は、内心で「やはり……! そして、お嬢様のその『飼育環境への懸念』の数々は、明らかに『ガーディアンズ』なる組織を『動物虐待組織』と断定していらっしゃる……これは……これは、万里小路家始まって以来の、最大級の『お迎え』案件になるやもしれませぬな……しかし、お嬢様がここまで熱くお決めになったことならば……このセバスチャン、執事として、そして一人の『もふもふ愛好家』の端くれとして、お断りする術はございませんな……」と、一瞬だけ遠い目をして天を仰いだものの、すぐに完璧な執事の顔に戻り、深々と、そしてどこか覚悟を決めたように頭を下げた。


「かしこまりました、お嬢様。その『ガーディアンズ』なる組織と、『アウター・ワン・カタストロフ』の中心にいらっしゃったという『ザ・ワン様』のさらに詳細なる保護状況、そして何よりもその『飼育環境』に関するデータ、このセバスチャンが、万里小路家の総力を挙げ、必要とあらばあらゆる非合法な手段をも辞さず、秘密裏に、かつ迅速に収集し、お嬢様のお手元にお届けいたします。お嬢様の、宇宙の平和と、絶滅危惧種の動物愛護への、その深遠にして崇高なるお考え、必ずやお力添えできることと存じます。……そして、お迎えのための『最高の環境』のご準備も、並行して進めさせていただきます」


 万里小路聖歌の、壮大にして華麗なる『ザ・ワン様お迎えプロジェクト』は、こうして、一人の完璧すぎる執事の全面的な協力(と、おそらくは多大なる胃薬の消費)のもと、誰にも止められない圧倒的な勢いで始動したのである。

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