プロローグ05
その日は、朝から冷たい雨が、まるで空がすすり泣いているかのように降りしきる、陰鬱な午後だった。
聖アストライア女学園での一日の授業を終えた聖歌は、いつものように万里小路家が手配した黒塗りのハイヤーの後部座席に深く身を沈めていた。
窓の外を流れる灰色の景色は、まるで色褪せた水彩画のようで、聖歌の完璧に整えられた日常に、ほんの僅かな、しかし無視できない倦怠感の影を落としているかのようだった。
重厚な車内に低く響くのは、タイヤが濡れた路面を滑る音と、ルーフを叩く雨音だけ。その単調なリズムは、聖歌の心に微かな波紋を広げ、普段は意識の奥底に
車内には、彼女が朝、ほんの一滴だけ手首につけた、ホワイトリリーと稀少なムスクをブレンドした特注の香水の残り香が、雨の日の湿った空気と混じり合い、甘くも切ない、不思議な芳香を漂わせていた。
「……お嬢様、本日の紅茶は、ダージリンのファーストフラッシュでございますが、少し濃いめに淹れましょうか? それとも、気分転換に、先日お取り寄せになったセイロンのヌワラエリアになさいますか?」
助手席から、甲斐甲斐しく聖歌の世話を焼く年配の侍女、松本が、穏やかな声で尋ねた。
彼女は、聖歌が幼い頃から万里小路家に仕え、その誰よりも鋭敏で、そして風変わりな感受性を、温かく見守ってきた数少ない人物の一人である。
聖歌は、窓の外の灰色の景色から視線を動かさずに、小さく首を横に振った。
「ありがとう、松本。でも、今は結構ですわ……なんだか、この雨音を聞いていると、昔、父の書斎で読んだ、北欧の古い叙事詩の一節を思い出しますの。霧深い森の奥で、銀色の毛皮を持つ巨大な狼が、月に向かって遠吠えをする……そんな、少しだけ寂しくて、でもどこか心が震えるような物語を」
「まあ、お嬢様は本当に物知りですこと。銀色の毛皮の狼……きっと、とても美しくて、そして触れたら温かいのでしょうね」
松本は、聖歌の言葉の奥にあるもふもふへの憧憬を正確に読み取り、優しく相槌を打った。聖歌は、そんな松本の理解に、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ふと、聖歌の柳眉が、ぴくりと微かに動いた。それは、訓練された鷹が、遥か彼方の獲物の気配を捉えたかのような、鋭敏な反応だった。
普段ならば、その美しい白亜の学園と、壮麗な自邸との間を往復するだけの、変化に乏しい車窓の風景。
その中でも、特に気にも留めないような、古びた雑居ビルが密集する、日の当たらない薄暗い一角。
今日の聖歌の意識は、なぜかその場所に強く引き寄せられた。
「……?」
彼女の蒼い瞳が、僅かに見開かれる。
そのビルの屋上付近から、何かが軋むような、あるいは硬い金属同士が激しくぶつかり合うような、耳障りで不快な音が、断続的に聞こえてくる気がしたのだ。
いや、それは単なる音というよりも、もっと不協和で、空間そのものが歪んでいるかのような気配の揺らぎとでも呼ぶべきものだったかもしれない。
雨音に巧妙に隠され、常人の聴覚では決して捉えられないであろうその微細な変化を、聖歌の研ぎ澄まされた五感は、まるで高性能なセンサーのように正確に捉えていた。
それは、空気の振動、僅かな魔力の残滓の匂い、そして何よりも、そこに存在する異質なものの手触りとでも言うべき、言葉では説明し難い感覚だった。
「……何かございましたか、お嬢様?」
運転手の田中が、バックミラー越しに聖歌の様子の変化に気づき、気遣わしげに尋ねた。
彼もまた、この若き女主人の時折見せる、常人離れした鋭敏さに長年接してきた一人である。
聖歌は、一瞬、何かを言いかけたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻り、静かに首を横に振った。
「いいえ、田中さん。何もございませんわ。少し、雨音が強くなったように感じただけですの……気のせいかもしれませんわね」
田中も、そして隣で心配そうに聖歌の顔を覗き込んでいた松本も、その言葉を鵜呑みにはしなかった。
聖歌の五感が、時として常人には捉えられない些細な事象を拾い上げること、そして、それを他者に説明するのが常に困難であることを、彼らは経験上知っていたからだ。
そして、万里小路家の人間は、彼女のそういった特異性を受け入れていた。彼らにできるのは、ただ黙って見守り、そして彼女が望むならば、その指示に忠実に従うことだけだった。
ハイヤーは、次の角を滑らかに曲がり、比較的人通りの少ない、古い公園の脇を通り過ぎようとした。雨に濡れた木々の緑が、車窓を暗く染める。その時だった。
「……田中さん。停めてくださる?」
聖歌の凛とした、しかしどこか熱を帯びた声が、静かな車内に響いた。その声には、有無を言わせぬ響きがあった。
田中は、即座にハイヤーを路肩に滑るように停止させた。
彼が「いかがなさいましたか、お嬢様?」と問うよりも早く、聖歌の目は、公園の奥深く、雨に煙る木々の向こうの一点に、まるで縫い付けられたかのように釘付けになっていた。
その蒼い瞳は、普段の穏やかさからは想像もつかないほど真剣な輝きを宿し、何かに強く引き寄せられているかのようだった。
そこにあった。
半透明で、まるで巨大なシャボン玉が陽光――この場合は雨雲越しの仄かな、しかし異様な光だが――を歪ませるかのように明滅し、周囲の空間とは明らかに異質な法則で律せられている、巨大な多角形の壁――後に聖歌が結界と名付けることになる現象。それは、まるで世界の一部を鋭利な刃物で切り取り、そこに別の次元を無理やり嵌め込んだかのような、強烈な違和感と、そして聖歌にとっては抗いがたいほどの神秘的な魅力を放っていた。
一般の人間には、おそらくその存在すら認識できないだろう。
せいぜい、その場所だけ局地的に霧が濃いとか、奇妙な陽炎が立っているように見える程度かもしれない。
だが、聖歌の研ぎ澄まされた蒼い瞳は、その歪な輪郭と、その内部で繰り広げられる常軌を逸した光景を、まるで超高解像度の映像を見るかのように、鮮明に捉えていたのだ。
結界の内側では、閃光が迸り、衝撃波が不可視の壁を震わせ、周囲の木々を激しく揺らしていた。
雨粒が、見えない壁に当たっては弾け飛び、パチパチと奇妙な音を立てている。
そして、黒く、禍々しい影――異形の怪物、魔獣と、それよりも小さな、しかし眩い光を纏い、俊敏に動き回る複数の点――魔法少女たちが、目まぐるしく交錯し、死闘を繰り広げているのが見えた。
新聞の三面記事を時折賑わす『原因不明の大規模損壊事故』や『突発的局地型磁気嵐』の、そのおぞましい真相が、今、聖歌の目の前で、白日の下に――この場合は雨中の下に――晒されていたのだ。
魔法少女と思しき光点の一つが、まるでバレリーナのように華麗な動きで、魔獣の放つ黒い触手のような攻撃を躱した。
そして、何か呪文のようなものを凛とした声で叫ぶと、その手に握られた、宝石が埋め込まれた杖状の物体から、眩いばかりの純白の光弾が放たれる。
光弾は、正確に魔獣の巨体に着弾し、魔獣は苦悶の咆哮を上げ、その巨体を激しく揺らした。
それは間違いなく、互いの存在を賭けた、命懸けの死闘であった。
魔法少女たちの表情は見えないが、その動きの一つ一つに、必死の覚悟と、そして悲壮なまでの勇気が込められているのが、聖歌にも感じ取れた。
だが、聖歌の関心は、その魔法少女たちの勇姿や、その戦いが持つであろう人類の存亡などという大仰な主題には、残念ながら、ほとんど向いていなかった。
彼女の瞳は、ただ一点、雨と泥に塗れながらも猛々しく動き回り、破壊の限りを尽くそうとする、その魔獣の、異形にして力強い姿にこそ、吸い寄せられていたのだ。
それは、しなやかで強靭な黒豹を思わせる四肢を持ちながらも、その背には月光を吸い込んだかのように鈍く輝く蝙蝠のような皮膜の翼を生やし、頭部にはねじくれた古木を思わせる、荘厳にして禍々しい湾曲した角を二本備えた、まさにキメラめいた幻想生物だった。
そして何よりも、聖歌の心を鷲掴みにして離さなかったのは、その全身を覆う、濡れそぼってはいたが、明らかに並外れた密度と長さを誇る、黒曜石のような濡羽色の光沢を放つ毛皮であった。
その毛の一本一本が、雨粒を弾き、まるで夜空に瞬く星々のように、鈍く、しかし確かに輝きを放っているように見えた。
「まあ……」
聖歌の桜色の唇から、思わず感嘆と、そして熱っぽい吐息が漏れた。
「なんて、荒々しくも力強く、そして神々しいまでの……もふもふ……! 恐らくは、極上の手触りに違いありませんわ、あの毛皮は……! あの、雨に濡れてしっとりと肌に張り付いた質感も、また格別の一興ですわね。そして、あの翼の皮膜! きっと、ベルベットのように滑らかで、それでいて強靭な弾力を持っているのでしょう……ああ、一度でいいから、あの背中に乗って、その翼の付け根の柔らかな羽毛に顔をうずめてみたいものですわ……!」
恐怖は、微塵もなかった。
あったのは、未知の生物に対する純粋で飽くなき好奇心。
そして何よりも、その異形の存在が秘めているであろう、まだ誰にも知られていないもふもふとしての無限のポテンシャルに対する、高名な芸術家が失われた古代文明の至宝を発見した時のような、あるいは敬虔な求道者がついに神の御姿を垣間見た時のような、強烈で、そして身を焦がすほどのときめきと探究心であった。
やがて、魔法少女の一人が放った、一際大きな光の槍が、魔獣の胸部にあると思われる核のような部分を貫いた。
魔獣は、天を衝くかのような断末魔の叫びを上げ、その巨体がゆっくりと光の粒子となって霧散し始めた。
それと同時に、周囲の空間を歪めていた結界もまた、陽炎のように揺らめきながら、静かに消えていく。
後に残されたのは、ただ雨に打たれる、何事もなかったかのような静かな公園と、そして、聖歌の胸の奥深くに宿った、新たな、そしてこれまで以上に強烈なもふもふへの鮮烈な興味と、それを必ずや手に入れずにはおかないという決意だけであった。
「……田中さん。今の場所、しっかりと覚えておいてくださる? そしてセバスチャンには、この公園の周辺地図と、最近この辺りで報告されている『不可解な事件』に関する情報を、可能な限り詳細に集めるよう、お伝えになって……少し、わたくし個人として、調べてみたいことができましたの」
聖歌は、何事もなかったかのように、しかしその声には抑えきれない興奮と期待を滲ませながら、運転手にそう告げた。
その大きな蒼い瞳の奥には、新たなコレクションの候補を見つけた子供のような無邪気さと、未知の真理の扉を開こうとする研究者のような真摯な光が強く灯っていた。
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