プロローグ06

 昨夜のあまりにも刺激的で、何よりも至高のもふもふの原石との出会いは、聖歌の心に、消えることのない鮮烈な印象を刻みつけていた。

 一夜明けても、あの雨に濡れた黒曜石のような毛皮の想像上の感触が、彼女の指先に生々しく蘇ってくるかのようだ(触れてはいないが)。

 聖アストライア女学園での淑やかな授業――古典文学ではいにしえの恋物語に隠された衣擦れの音の官能的な手触りを論じ、美術では粘土の可塑性における究極の癒やし効果についてアルベール先生と熱く語り合い、音楽ではハープの弦が指を弾く感触を天使の羽毛で魂を撫でられるかのようと表現した。


 その日の授業を終えた聖歌はいつもの黒塗りのハイヤーの後部座席に乗り込んだ。


 昨夜、彼女が運転手の田中に「覚えておくように」と指示した後、すぐに執事のセバスチャンにも連絡が入り、彼はその卓越した情報収集能力を遺憾なく発揮していた。

 聖歌がハイヤーに乗り込む僅か数分前、セバスチャンからの初期報告が、運転手の田中、侍女の松本、そして聖歌の身辺を警護する木村を含む護衛チームの面々にもたらされたばかりだった。

 その報告によれば、例の公園周辺ではここ数週間、原因不明の小規模な器物損壊事件や、正体不明のエネルギー反応が断続的に観測されており、信憑性は低いもののいくつかの目撃情報からは、極めて危険性の高い、未知の特異生物が関与している可能性が強く示唆される、というものであった。

 その特異生物が、昨夜聖歌が目撃した黒い影と同一のものであるかはまだ不明ながら、万が一の事態に備え、護衛チームは最大限の警戒態勢を取るよう指示されていた。


 もっとも、聖歌自身はそのセバスチャンからの詳細な危険情報にはまだ目を通しておらず、彼女の頭の中は、昨日垣間見た黒曜石の毛皮と、それをどうやってお迎えするかという、至極個人的で、しかし彼女にとっては世界で最も重要な計画のことで一杯だったが。


 聖歌は、常と変わらぬ穏やかな、しかしその奥に確固たる意志を秘めた声で、運転手の田中に告げた。


「田中さん、ごきげんよう。早速で恐縮ですけれど、昨日わたくしが最後に『覚えておくように』と指示いたしました場所へ、もう一度お願いできますかしら?」

「……お嬢様。昨日の、あの雨の公園脇でございますか? ……セバスチャン様からの報告にもございましたが、あの周辺は現在、少々物騒な状況にあるやもしれませぬが……何か、お忘れ物でもなさいましたか?」


 バックミラー越しに、田中が僅かに訝しげな、そして隠しきれない心配の色を滲ませた視線を送る。助手席に控える初老の侍女、松本も、聖歌の言葉に、持っていた刺繍の枠を膝に置き、不安そうな表情を浮かべた。

 聖歌は、そんな二人の反応もどこ吹く風、完璧な淑女の微笑みを浮かべた。その微笑みは、春の陽光のように温かく、しかし有無を言わせぬ静かな圧力と、一種の「わたくしの決定は覆りませんわよ?」という、万里小路家令嬢としての絶対的な自信に満ちていた。


「ええ、そうよ、田中さん。忘れ物……そう、わたくしの魂の片割れとも言うべき、それはそれは大切な何かを、あの場所に置き忘れてきてしまったような気がするのですわ。それを探しに行きませんとね。うふふ。ご心配には及びませんわ、わたくしには屈強な木村さんたちもおりますし、何より、わたくしのセンサーが、危険なものはちゃんと教えてくれますから」


 聖歌のその詩的な、そして周囲には全く意味の通じない上に、何の安心材料にもならない言葉に、田中は「……かしこまりました、お嬢様。安全には最大限配慮し、お送りいたします」とだけ答え、滑らかにハイヤーを発進させた。松本は、小さくため息をつくと、聖歌の無事を祈るように、そっと胸の前で十字を切った。


 車は昨日と同じ場所――雨はすっかり上がったものの、まだ湿ったアスファルトの匂いと、むっとするような草いきれが漂う、古い公園の脇道に滑るように停車した。

 聖歌は、供の者たちが何かを言う前に、さっと一人で車を降りると、昨日の鮮烈な記憶と、彼女の持つ異常に鋭敏な五感を頼りに、迷うことなく歩き出した。


 彼女の繊細な鼻腔は、常人には感知できない微かな魔力の残滓――それは、彼女にとってはどこかスパイシーで、それでいてほんのり甘い、未知の獣の香りのように感じられた――を捉えていた。

 そして、そのプラチナブロンドの髪を揺らす微風の中にも、昨日の黒豹型の彼が残したであろう、野性的で力強いオーラの欠片を感じ取ることができる。

 地面に残された、雨で消えかかった僅かな足跡や、折れた小枝の角度すらも、聖歌にとっては重要な手がかりだった。それは、昨日のあの素晴らしいもふもふの原石が、どの方向へ逃げ込んだのかを明確に示唆しているように思えた。


 ふらふらと、しかしその足取りには奇妙な確信が満ちており、まるで目に見えない赤い糸に導かれるかのように、聖歌が向かったのは、公園に隣接する、昭和の面影を色濃く残す古い雑居ビルが迷路のように立ち並ぶ区画。その一角、人気は全くなく、昼なお薄暗い、ゴミの腐臭とカビの匂いが混じり合うような路地裏へと、彼女は純白のレースの日傘をくるりと回しながら、何のためらいもなくその華奢な足を踏み入れた。

 その姿は、まるで場違いな高級娼婦か、あるいは異世界から迷い込んだ妖精姫のようであった。


「お嬢様! お待ちください! そのような場所は、セバスチャン様からの報告にもあった通り、非常に危険である可能性が! お嬢様お一人でお入りになるなど、断じてなりません! お嬢様、お嬢様ぁ~~っ!」


 慌ててハイヤーから飛び出し、後を追ってきたボディガードの木村が、悲鳴に近い制止の声を上げた。彼の額には、既に脂汗が滲み、その手は緊張で僅かに震えている。彼もまた、セバスチャンからの報告を受け、このエリアが『特異生物X』の潜伏場所である可能性を危惧していたのだ。


 だが、聖歌はまるでその声が聞こえていないかのように、あるいは聞こえていても全く意に介していないかのように、路地の奥へ奥へと進んでいく。

 その大きな蒼い瞳は、何かを探す熟練の狩人のように真剣で、時折立ち止まっては、壁の染みや、地面に落ちている得体の知れない物体を、白い手袋に包まれた指先で(直接は触れずに)仔細に観察している。


「まあ、この壁の染み……よく見ると、微かに虹色の光沢を帯びておりますわね。まるで、伝説の霊鳥の羽毛のようですわ。そしてこの香り……少し刺激的ですけれど、どこか癖になるような、野生の麝香じゃこうにも似た……ふむ、昨日のあの方の、体毛以外の部分も、なかなか興味深い質感と芳香を持っていたのかもしれませんわね。特にこの粘液のようなものは、乾燥させれば素晴らしい光沢の樹脂標本になりそうですわ」


 聖歌のその呟きは、木村の耳には全く届いていなかった。彼はただ、この令嬢が次に何をしでかすのか、そしてお嬢様の絶対的安全確保という自分の任務を全うできるのかという、極度の緊張と不安に苛まれていた。


 そして、ゴミ集積所の大きなポリバケツと、崩れかけたブロック塀の隙間、その最も薄暗く、そして最も不潔な場所の奥で、ついに彼女は――それを見つけた。


 小さな、泥と雨水と、おそらくは血と煤で汚れた、ただの毛玉のような塊。

 しかし、それは微かに、本当に微かに身じろぎし、苦しげで浅い息遣いと共に、周囲に対する鋭い警戒心と、生きることへの僅かな執着を放っていた。

 昨日聖歌が結界越しに見た、あの荘厳で力強い、翼を持つ黒豹型の魔獣とは明らかに異なる、より小型で、見るからに弱々しい個体。おそらくは、昨日の激しい戦闘の余波で深手を負い、この路地裏の奥深くに、最後の力を振り絞って逃げ込んできたのだろう。その体は、ところどころ毛が抜け落ち、痛々しい傷口からは血が滲み、見る者によってはただの汚れた害獣としか思えないような、惨めな姿だった。


 その小さな生物は、聖歌の接近に気づくと、最後の力を振り絞るように「グルル……ッ!」と低い唸り声を上げ、僅かに残った鋭い小さな牙を剥き出しにした。その瞳は、恐怖と苦痛と、そして「これ以上近づくな」という必死の拒否感を出している。それは、追い詰められた野生動物が示す、最後の、そして最も悲しい抵抗だった。

 だが、聖歌の反応は、木村の、そしておそらくはその場にいたであろう他の誰の予想をも、遥かに、そして華麗に裏切るものだった。いや、或いはこの場に玲奈がいたならば、この後の展開を予測に胃をより痛めていたことだろう。


「まあ……!!」


 彼女の大きな蒼い瞳が、これ以上ないというほどに見開かれ、まるで最高級のサファイアが内側から光を放つかのように、キラキラとしたどこまでも純粋な輝きを湛えた。

 その表情に、恐怖や嫌悪、あるいは憐憫といった色は微塵もなかった。

 あるのは、ただただ純粋なまでの感嘆と、そして抑えきれないほどの、まるで運命の相手と巡り合ったかのような――深い、深い愛情。


「なんて、なんて……! なんて愛らしいのでしょう!! この小さなお身体で、これほどの深手を負いながらも、その気高い魂の輝きを失わずに、よくぞご無事で……! その毛並み、たとえ今は泥に汚れ、血に濡れていても、その奥に秘められた本来の気品と、至高の手触りのポテンシャルは、わたくしの、この万里小路聖歌の目をごまかすことはできませんわ! きっと、丹念にお手入れすれば、月の光を編み込んだベルベットのように、あるいは夜空に散りばめられた星屑をそのまま紡いだかのように、素晴らしい手触りを取り戻すに違いありませんわ! そして、このつぶらな瞳……! 警戒心と苦痛の中に、ほんの僅かに垣間見える、純粋で無垢な魂の煌めき……! ああ、たまりませんわ! これぞまさしく、わたくしが長年探し求めてきた、原石そのものですわ!」


 聖歌は、うっとりとした表情で、その泥だらけの小さな生物を見つめ、一歩、また一歩と、まるで聖母が迷える子羊に手を差し伸べるかのように、ゆっくりと近づいていく。


「お、お嬢様、いけません、いけません! それは、セバスチャン様からの報告にもあった特異生物の可能性が極めて高いですぞ! 我々がまだその生態も危険性も把握できていない、未知の存在です! 何をするか分かりません! お手を触れては……!! お嬢様? 聞いておいでですか? お嬢様……お嬢様ぁ~~!?」

 木村が、ついに我慢しきれず、聖歌の細い腕を掴んで制止しようとする。

 しかし、聖歌はそれを、まるで能楽師のような優雅な仕草で、断固として振り払った。


「問題ありませんわ、木村さん。わたくしには分かりますの。この子は、決してわたくしに危害を加えたりなどいたしません。むしろ、わたくしがこの子をお護りしなくてはならないのです。見てくださいな、こんなに小さくて、そして傷ついて怯えているではありませんか」

「は……はあ!? お護りすると申されましても、お嬢様、それは……! 生物学的に完全に未知の存在であり、その危険性は計り知れないと、報告書にも明記されておりましたはず! 万が一、お嬢様のお身体に何かあっては、我々護衛の責任問題では済みません……!」

「あら? そんな報告書あったかしら? 兎も角、わたくし、この子と、魂のレベルで運命的な出会いを果たしたのですわ。この天啓とも言うべき邂逅を無下にするなど、それこそ万里小路の名誉と、わたくしの長年にわたるもふもふ道の探求に対する冒涜ですわ。それに、木村さん、この子の瞳をよくご覧なさいな。こんなにも愛らしく、そして助けを求めるような、潤んだ瞳をしている子が、わたくしに牙を剥くはずがございませんでしょう? ねぇ?」


 有無を言わせぬ、絶対的なまでの確信に満ちた口調と、上目遣いの問いかけ。聖歌は、どこから取り出したのか、いつも愛用している、彼女のイニシャルが銀糸で精巧に刺繍された、最高級モンゴル産カシミア100%のベビーブランケット(もちろん、その手触りは雲のように柔らかく、天使の吐息のように温かい)をふわりと広げると、怯えて威嚇の声を漏らし続ける小さな生物に向かって、ゆっくりと、そして慈愛に満ちた表情でしゃがみ込んだ。


「大丈夫ですよ、可愛らしいお方。もう何も怖がることはありませんの。わたくしが、あなた様を、この世界のあらゆる脅威と、そして何よりもそのお身体を汚す泥や埃から、大切にお護りいたしますから。美味しいお食事と、ふかふかで温かいお寝床、そして何よりも、わたくしのこのゴッドハンドによる、至福のブラッシングとマッサージをご用意して差し上げますわ。きっと、あなた様のその素晴らしい毛並みも、すぐに元の輝きを取り戻せますわよ」


 その声には、まるで古代の巫女が唱える癒やしの呪文のように、どんな猛獣すらも警戒心を解き、その魂を委ねてしまうような、不思議な包容力と、そして抗いがたいほどの魅力があった。

 聖歌が、白い手袋に包まれた手をそっと差し出すと、小さな生物は一瞬、最後の力を振り絞って牙を剥きかけたが、彼女の指先から放たれる僅かながらも小さな光に触れ、ぴたりと動きを止めた。そして、小さな黒い鼻をくんくんと懸命に鳴らし、おずおずと、しかし確実に、聖歌の指先の匂いを嗅いだ。その指先からは、ホワイトリリーと、そして聖歌自身の肌の、微かに甘い花の香りがした。


「……きゅぅ……ん?」


 生物のか細い声から、先程までの威嚇の色が、まるで春の雪解けのように薄れていた。

 その小さな体はまだ小刻みに震えていたが、瞳の奥の恐怖は、ほんの少しだけ和らいで見えた。


 聖歌は、満面の、それこそ聖母マリアもかくやと思われるほどの慈愛に満ちた笑みを浮かべると、そのカシミアのブランケットで、泥だらけの小さな生物を、まるで割れ物を扱うかのように優しく、そして丁寧に包み込み、そっと抱き上げた。

 思ったよりも軽い。そして、泥と汚れの下に隠されてはいたが、やはり素晴らしい弾力と、その奥に秘められた、磨けば必ずや至高の輝きを放つであろう、極上の毛の確かな感触。


(やはり、わたくしの目に狂いはありませんでしたわ……! この子こそ、わたくしの新たなるもふもふコレクションの、輝かしき一番星となるお方……! なんという幸運! なんという天啓! 神よ、わたくしにこのような素晴らしい出会いを与えてくださり、心から感謝いたしますわ!)


 聖歌は、内心で歓喜の声を上げながら、腕の中の小さな温もりに、至上の幸福を感じていた。


「さあ、参りましょう。わたくしの、そしてあなた様の新たなる楽園、万里小路家のお屋敷へ。そこには、あなた様を心から歓迎する、たくさんの『もふもふグッズ』と、わたくしの無限の愛が待っておりますわよ」


 呆然と、もはや何が起こっているのか理解することを放棄したかのように立ち尽くすボディガードの木村と、ハイヤーの陰から心配そうに(そして少しだけ好奇の目を向けて)その様子を伺っていた運転手の田中に、聖歌は、まるで凱旋将軍のように誇らしげに、そして高らかに告げた。

 木村は、何か言おうとして口を開きかけたが、聖歌のそのあまりにも幸せそうで、そして「これ以上の問答は無用ですわ」という有無を言わせぬオーラに気圧され、結局「……お、お車まで、細心の注意を払ってお供いたします、お嬢様……。そ、その……お方が、お風邪など召されませぬように……」と、力なく、そしてどこかトンチンカンなことを呟くことしかできなかった。

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