プロローグ04

 美術の授業が終わり、次の授業は鷹司たかつき綾乃あやの先生による礼法であった。

 旧華族の血を引く、凛とした美しさを持つ女性教諭で、長い黒髪を綺麗に結い上げ、授業では常に上質な和服を着用しており、その所作は極めて優雅。生徒たちの憧れの的であった。


 生徒たちは、清浄な木の香りが漂う、畳敷きの広々とした礼法室『尚心亭しょうしんてい』へと移動する。ここでは、正座の姿勢、お辞儀の角度、襖の開け閉め、お茶のいただき方といった、日本の伝統的な作法を、鷹司先生の優雅で厳格な指導のもと学んでいた。


 聖歌の所作は、ここでもまた、他のどの生徒よりも完璧で、まるで平安時代の絵巻物から抜け出してきた姫君そのものであった。

 その背筋の伸びた美しい正座の姿勢、指先まで神経の行き届いた優雅な動き、そして相手への敬意と細やかな心遣いが自然に滲み出る立ち居振る舞いは、鷹司先生をして「万里小路さんのお作法は、もはや教えることは何もございません。むしろ、わたくしが見習わなければならないほどですわ」と言わしめるほどだった。


 しかし、聖歌の意識は、作法の正確さやその精神性だけに向けられているわけではなかった。彼女の鋭敏な五感は、この礼法室に満ちる、様々な手触りや質感をも敏感に捉えていたのだ。


(この畳のい草の香り……なんて清々しくて、そして踏みしめた時の、この適度な弾力と温もり。まるで、春の野原の乾いた草の上に寝転んでいるかのようですわね。そして、このお茶碗……手に取った時の、このひんやりとして滑らかな陶器の肌触り。特にこの高台のざらつきが、指先に心地よい刺激を与えてくださる。お抹茶の泡の、あのクリーミーでベルベットのような舌触りも、想像するだけで……)


 そして、聖歌の視線が最も熱心に注がれていたのは、鷹司先生が身に纏う、美しい友禅ゆうぜんの訪問着であった。淡い藤色を基調とし、裾には繊細な筆致で四季の花々が描かれたその着物は、まさに日本の美の結晶とも言える逸品だった。


(鷹司先生のお召し物……あの、光の加減で微妙に色合いを変える、深みのある絹地の光沢。そして、その生地が持つであろう、しっとりとした重みと、肌に吸い付くような滑らかさ……きっと、触れれば指先に、えもいわれぬ幸福感が広がっていくに違いありませんわ。あの生地で、アンリエット様のための最高級のお座布団を作って差し上げたら、どれほどお喜びになるかしら? いつか、先生にお願いして、あの着物の端切れをほんの少しだけでもお譲りいただけないものかしら。わたくしのもふもふコレクションの、新たな至宝として、大切に保管いたしますのに……)


 そんなことを真剣に、そしてうっとりと考えながら、完璧な所作でお茶を点てている聖歌の横顔は、どこまでも真摯で、そして美しかった。

 鷹司先生は、聖歌のその非の打ちどころのない優雅な姿に満足そうに頷きながらも、彼女の蒼い瞳の奥に時折宿る、何か計り知れないものへの強い渇望のような、あるいは獲物を見つけた獣のような鋭い輝きに、ほんの僅かな戸惑いと、そしてある種の芸術家が傑作を前にした時のような、ゾクゾクするような興奮を覚えるのであった。








 全ての授業が終わり、放課後。多くの生徒たちがクラブ活動やお稽古事へと向かう中、聖歌は一人、学園の広大な図書館『ソフィア・ライブラリー』の、さらに奥まった場所にある『稀覯書きこうしょ・特殊文献』のコーナーへと足を運んでいた。

 そこは、司書長である雨宮あまみやしおり先生に特別な許可を得なければ立ち入ることのできない、学園の知の聖域とも言うべき場所だった。

 

 聖歌の関心は、一般的な動物図鑑や、ペットの可愛らしい写真集などにはなかった。

 彼女が求めているのは、もっと魂を揺さぶるような世界の真理もふもふに迫る情報。

 古今東西の神話に登場する聖獣たちの記述、錬金術師が残したという幻獣の生態記録、世界各地の辺境に細々と伝わる未確認生物の目撃談、あるいは、異端とされた博物学者が書き残した、英知の書、禁断の書物に関する考察。それらの中にこそ、彼女が追い求める世界の真理もふもふへの手がかりが隠されていると、聖歌は固く信じていた。


 分厚い革装丁の本を数冊選び出し、彼女は閲覧室の大きな窓際の、自分専用と化した席に着いた。

 窓の外には、夕焼けに染まり始めた空が、まるで巨大な不死鳥が翼を広げたかのように、壮麗なグラデーションを描き出している。


 ぺらり、ぺらりと、ページをめくる、乾いた羊皮紙の音だけが、静かに響いていた。

 聖歌の蒼い瞳は、古いインクで記された異国の文字や、手描きの精緻な挿絵を、食い入るように真剣に追っている。その横顔は、まるで失われた古代文明の謎を解き明かそうとする、若き日の考古学者のように真摯で、そしてどこか神聖な輝きさえ帯びていた。


 だが、その完璧な令嬢然とした佇まいの奥深くには、彼女だけの、そしてこの世界にとっては極めて異質で、場合によっては非常に厄介な価値観が、静かに、しかし確固として、そして日々成長しながら根を張っていたのである。


 例えば、聖歌は学園で飼われているペルシャ猫のアンリエット様――その名前は彼女が勝手に、そして学園の誰もがそう認識するように仕向けたものだったりする――の毛並みを撫でる時、恍惚とした表情で、時には小一時間以上も微動だにせず、その至高のもふもふとの交感を続けることがあった。そのプラチナブロンドの髪にアンリエット様の銀色の毛が数本付着していようとも、制服のスカートに猫の足跡がついていようとも、彼女は全く意に介さない。

 むしろ、それをアンリエット様から賜った聖痕として、誇らしげにしている節さえあった。

 その指先は、アンリエット様の毛の一本一本が持つ、微妙な太さ、柔らかさ、そしてその根本から毛先にかけての絶妙なグラデーションまでもを記憶するかのように、丹念に、そして執拗に、しかし決してアンリエット様の機嫌を損ねることのない神業的なテクニックで毛並みを梳く。


 教師から学業優秀の褒賞として贈られた、最高級パシュミナのショールに対しても、その評価は「まあ、手触りだけは、アンリエット様の足先の飾り毛の、ほんの先端部分くらいには匹敵するかもしれませんけれど。やはり、あの神聖なる世界の真理もふもふには遠く及びませんわね」という、どこまでもアンリエット様基準の、そしてある意味では極めて辛辣なものだった。


 世界が、人知れず『魔獣』と呼ばれる異形のモノたちの脅威に晒され始めていることも、そして、それに対峙するために『魔法少女』と呼ばれる少女たちが戦いを繰り広げていることも、聖歌にとっては、新聞の片隅に載る『原因不明の大規模損壊事故』や『突発的局地型磁気嵐』といった、「よく分からないけれど、わたくしの愛するもふもふたちの安眠を妨げるような物騒な事件は、早く解決してほしいものですわね」程度の認識でしかなかった。

 世界経済の動向や、国際政治の駆け引き、あるいはクラスメイトたちの恋愛模様よりも、彼女の関心と情熱は、常に内へ、自身の五感を満たすもの、特に触覚という最も原始的で、そして最も深遠な感覚へと、深く、そして際限なく向けられていたからだ。


 美術館でルネサンス期の巨匠の名画を鑑賞する際も、彼女が最も注目するのは、描かれた貴婦人のドレスのベルベットの質感や、背景の羊の毛の巻き具合、あるいは天使の羽の柔らかな陰影であったし、音楽会でオーケストラの壮麗な演奏を聴く際も、彼女の意識は、ヴァイオリンの弦を擦る馬の尾の毛の質や、ティンパニの革の張り具合、そして指揮者の燕尾服の生地のドレープの美しさに集中していた。


 授業中、窓の外を眺めながら、聖歌は時折、誰にも聞こえないほどの小さな声で、ため息混じりにこう呟くことがあった。


「……まあ、なんて素晴らしい毛並みなのでしょう。あの雲……まるで、巨大なサモエド犬が、大空でお昼寝をしているかのようですわね。あの背中に顔をうずめて、心ゆくまでもふもふできたら、どんなにか幸せでしょう……わたくしのコレクションに、ぜひともお迎えしたいものですわね。もちろん、丁重な交渉の上で、ですけれど」


 それは、教科書に載っていた、遠い異国の雪山に生息するという、幻の白狼の写真を見ての感想だったり、あるいは、風に揺れる柳の枝垂れた様が、まるで白澤はくたくの、豊かで長い純白の体毛のように見えたからだったりする。

 あるいは、本当に、空に浮かぶ雲の形が、偶然にも巨大な綿菓子や、あるいは彼女が夢にまで見る至高のもふもふの獣の寝姿のように見えたからだったりするのかもしれない。


 夕暮れの光が、図書館の大きな窓から差し込み、聖歌のプラチナブロンドの髪を黄金色に染めていた。

 彼女は、読んでいた古びた革装丁の本からふと顔を上げ、窓の外に広がる、まるで上質なベルベットのような質感の、紫紺の夜空が始まりつつあるのを見上げた。一番星が、ダイヤの粒のようにキラリと輝いている。

 そして、小さく、しかし確信に満ちた、そしてどこか熱に浮かされたような声で呟いた。


「……ええ、間違いありませんわ。きっと、この世界のどこかに、いえ、この宇宙のどこかに、わたくしがまだ見ぬ、究極にして至高の、筆舌に尽くしがたいほどの素晴らしいもふもふが、わたくしとの運命の出会いを待っていらっしゃるはずですわ……!」


 その蒼い瞳は、遠い何かを、まだ見ぬ至宝を捉えているかのように、きらきらと、そしてどこまでも深く輝いていた。

 聖アストライア女学園という名の、美しくも完璧なる箱庭は、彼女のその尽きることのない探究心と、宇宙規模のもふもふ愛を満たすには、もはやあまりにも狭すぎるのかもしれない。

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