プロローグ03

 午後の最初の授業は、美術。

 担当は、フランス帰りの気鋭の芸術家、アルベール・デュポン先生だ。

 彼の授業は、伝統的なデッサンや油彩の技術指導だけでなく、生徒たちの自由な発想や個性を重んじることで知られ、生徒たちからの人気も高い。

 今日の課題は心の風景、あるいは魂の肖像という、いささか抽象的で難解なテーマだった。

 多くの生徒が、自らの内面と向き合い、あるいは想像の翼を広げて、それぞれの心の風景をキャンバスや画用紙に表現しようと試みていた。


 聖歌は、教室の窓際の席で、大きな画用紙に向かっていた。

 その手には、柔らかなタッチを生み出すコンテが握られている。

 彼女は、しばらくの間、窓の外、遠くに見える学園の森の木々や、空を流れる雲の形をぼんやりと眺めていたが、やがておもむろにコンテを手に取ると、迷いのない、しかしどこか夢見るような滑らかなタッチで、何かを描き始めた。その姿は、まるで何かに導かれる巫女のようでもあった。


 アルベール先生は、絵の具の匂いが微かに漂う教室内をゆっくりと巡回し、生徒たちの作品に時折アドバイスを与えたり、その独創的な発想に感嘆の声を上げたりしていた。そして、聖歌の席の傍らにやってくると、彼女の画用紙を興味深そうに覗き込んだ。


「ほう、マドモアゼル・マリーゴールド。君の魂の肖像は、また一段とユニークなもののようだね。これは……一体、どのような存在を描いているんだい?」


 マリーゴールドと呼ばれた聖歌の画用紙には、驚くほどリアルな質感で、しかしこの世のいかなる生物とも異なる、幻想的で荘厳な雰囲気を纏った動物が描かれようとしていた。

 それは、黒豹を思わせるしなやかで力強い四肢を持ちながらも、その背には蝙蝠を思わせる大きな皮膜の翼を生やし、頭部には古代の山羊を彷彿とさせる、威厳に満ちた湾曲した角を備えた、まさにキメラめいた生物だった。

 そして何よりも、その全身を覆うのは、濡れそぼっているかのように艶やかで、それでいて一本一本が星の光を宿したかのように輝く、深淵の闇色の毛皮であった。


「まあ、アルベール先生。これは、わたくしが時折、夢の中で出会う、とても高貴で、そして言葉では言い尽くせぬほど美しい毛並みをお持ちのお友達ですの。その方の魂の輝きと、そして何よりもその至高の手触りを、この画用紙の上で少しでも表現できないものかと、試行錯誤しているのですけれど、なかなか難しいですわね。特に、この光の加減でオーロラのように色彩を変化させる毛皮の光沢と、触れれば指が永遠に埋もれてしまいそうなほどの、あの宇宙的なまでの密度の高い毛の感触……それを二次元で再現するというのは、神への挑戦にも等しいのかもしれませんわ」


 聖歌は、うっとりとした表情で自らの絵を見つめながら、熱っぽく語った。その瞳は、もはや現実の教室ではなく、夢の中の幻想的な獣が棲む、遠い世界を見ているかのようだった。

 アルベール先生は、その絵の持つ異様なまでの迫力と、聖歌の真剣極まりない眼差し、そしてその口から紡ぎ出される独特のもふもふ芸術論に、しばし言葉を失い、ただただ感嘆の溜息を漏らすしかなかった。


「……素晴らしい……ブラボー、マドモアゼル・マリーゴールド! 君のその観察眼、表現力、そして何よりもその対象への愛! それこそが芸術の源泉だよ! 君のその手触りへの異常なまでのこだわりと、それを追求する情熱は、いつか必ずや、誰も見たことのない独自の芸術を生み出すだろう。ただ、そうだな……一般の観衆が、君のその深遠なる宇宙にどこまでついてこられるかは、少々未知数かもしれないがね。だが、それこそが真の芸術家の宿命というものだ!」


 先生は、若干引き攣ったような、しかし心からの称賛を込めた笑みを浮かべながら、聖歌の才能を絶賛した。


「まあ、先生! わたくしのこのもふもふへの愛をご理解いただけるとは、さすがは美の探求者でいらっしゃいますわね! わたくし、この方の神々しいまでのもふもふ具合を完璧に表現できるよう、これからも全身全霊で精進いたしますわ!」


 と、満足そうに、そして決意を新たにしたように頷いた。

 教室の隅では、東儀とうぎかすみが、自分のデッサンを続けながらも、聖歌とアルベール先生のその会話に静かに耳を傾けていた。

 艶のある黒髪のストレートボブ。切れ長で涼しげな目元。色白でミステリアスな雰囲気を漂わせる彼女は聖歌の感性を芸術的探究として興味深く観察していた。


(万里小路さんのもふもふ……それは、単なる触覚的な嗜好を超えた、何か彼女にとっての根源的な美意識、あるいは存在論にまで関わる哲学なのかもしれないわね……あの絵の獣……あれは、本当にただの夢の中の存在なのかしら……? まるで、太古の記憶か、異次元からの呼び声に応えて描いているかのようだわ……)


 霞は、聖歌の持つ得体の知れない才能と、その底知れない感性の深淵に、改めて強い興味と、ほんの少しの畏怖を感じるのであった。

 周囲の他の生徒たちは、聖歌の描く奇妙で美しいが、しかしどこか恐ろしい獣の絵と、彼女の熱弁を、遠巻きに、そして「やはり聖歌様は、我々とは住む世界が違うのだわ……」と、ある種の諦観と共に眺めていた。


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