Record07「呼吸」
だが、その束の間の勝利の喜びは、長くは続かなかった。
数時間が経過し、人々が安堵しきっていた、まさにその時。
活動を停止していたはずのザ・ワンの巨躯が、再び不気味な脈動を始めたのだ。
その黄金の単眼に走っていた亀裂が完全に割れたかと思うと、そこに闇が生じ、黒い煙を吸い込むようにして塞がり、以前にも増して鋭い、そして冷たい光を放ち始めた。
「そん……な……」
誠が、愕然としてザ・ワンを見上げた。
次の瞬間、ザ・ワンの体から、漆黒のオーラが奔流となって溢れ出した。それは、先程までのエネルギーとは明らかに異質で、より根源的で、そして抗いがたいほどの絶望そのものを具現化したかのような力だった。
空は再び闇に閉ざされ、大地は激しく揺れ動き、海は荒れ狂った。そして、ザ・ワンの姿が、ゆっくりと変貌を始めたのだ。
その巨躯はさらに膨張し、闇色の毛皮は、まるで虚無そのものを纏ったかのように絶対的な黒へと変わる。水晶の角は、より鋭く、より禍々しく天を衝き、六対あった極彩色の翼がそれぞれが孤独、恐怖といった絶望を象徴するかのような、おぞましい文様を浮かび上がらせた。
そして、その黄金の単眼は、見開かれたまま、もはや何の感情も映さず、ただただ、この世界に対する絶対的な否定を放射しているかのようだった。
それは、もはや生命体というよりも、終末そのものとでも呼ぶべき姿だった。
「あれは……一体……」
美琴が、恐怖に震える声で呟いた。
有栖川ケイは、観測データを見て絶叫した。
『そんな……! あれは……あれは、私たちの攻撃によって、一時的に活動を停止したのではなく……! むしろ、私たちの攻撃エネルギーを吸収し、それを触媒として……より高次の、より純粋な破壊概念へと至ってしまった……進化したんだわ……っ!』
第二の絶望。それは、先の戦いで僅かな希望を掴みかけた魔法少女たちと、そして世界中の人々の心を、容赦なく打ち砕いた。
力を使い果たし、仲間も傷ついた状態で、さらに強大になったザ・ワンを前に、魔法少女たちは言葉を失い、立ち尽くすしかなかった。
「もう……ダメだ……。勝てるわけがない……こんなものに……」
萌の瞳から、光が消えかけていた。
「私たちの戦いは……無意味だったっていうの……?」
雫が、力なく膝をついた。
美琴も、翠も、結も、もはや立ち上がる気力すら湧いてこない。妖精たちも、そのあまりの絶望的な光景に、ただ震えることしかできなかった。
誠は、歯を食いしばり、絶望に染まりそうになる心を必死で奮い立たせようとしていた。
(ここで諦めてたまるか……! 彼女たちが繋いでくれた希望を、こんな所で終わらせるわけにはいかない……!)
しかし、彼の決意もまた、絶対的な力の前に、あまりにも無力に思えた。
ザ・ワンが、その虚無の瞳を、ゆっくりと地上に向けた。そして、その口から、言葉ではない、しかし魂を直接凍らせるような、冷たい宣告が響き渡った。
それは、この星の終焉を告げる笛の音のようにも聞こえた。
先程までの束の間の勝利の喜びは、より深い闇へと突き落とされ、彼女たちの瞳からは急速に光が失われていく。
「う……あ……」
「もう……戦えない……。何をやっても……無駄なんだ……」
「こんな……こんなのって、ないよ……。私たちの希望は……一体、何だったの……?」
彼女たちのパートナー妖精たちも、その強大な負のエネルギーに当てられ、弱々しく光を明滅させていた。
「美琴……しっかりして……!」
コンが、必死に呼びかける。
「萌、聞こえるか! お前の炎は、そんなもんじゃないはずだ……!」
イヤハトーズが叫ぶ。
しかし、彼女たちの声は、少女たちの絶望の壁を突き破ることができない。
誠は、その光景を目の当たりにし、唇を噛み締めた。
有栖川ケイからもたらされたアウター・ワンの新たなデータは、絶望的なものばかりだった。
その力は、もはや物理的な干渉だけではどうにもならない、概念的、精神的な領域にまで及んでいる。
「教授……! 何か……何か手はないのですか!?」
誠が、通信機に向かって叫ぶ。神代教授の声は、珍しく弱々しかった。
『……誠君。残念ながら……現時点では、有効な対抗手段が見当たらない。あれは……我々の理解を、そしてこの世界の法則を、遥かに超えた存在だ……』
その言葉は、誠の心に残っていた最後の希望すらも打ち砕くかのようだった。
そして、二度と希望など抱かせまいと生み落とされた星の仔らが、魔法少女たちに襲い来る……その時だった。
「フェニィックス!」
「あいよサラ!」
それは魔法少女たちを守るかのように天へと伸び、星の仔らを打ち砕いていく。
「ん、素敵。けど前の方が好き」
「ん。趣味悪」
ザ・ワンから放たれる絶望から守るように、木々と花々が芽生え、辺り一帯を覆っていく。
それは、世界各地で現れた魔法少女たちによる援軍だった。
この災厄に立ち向かうべく、生み出された戦士たち。彼女たちは今ここに集い、そして絶望を跳ね返そうと、希望の光を灯し始めた。
街のあちこちから、か細い、しかし確かな声が聞こえ始める。
それは、生き残った民たちの、祈りの声だった。
「お願い……負けないで……光の少女たち……」
「私たちの星を……未来を……守って……!」
最初は小さな囁きだったその声は、やがて大きな合唱となり、絶望に包まれた街に響き渡り始めた。それは、武器を持たぬ普通の人々ができる、唯一の、そして最後の抵抗だったのかもしれない。
その声は、風に乗り、瓦礫を越え、不思議なことに、絶望に沈む魔法少女たちの心にも、微かに届き始めていた。
「あなたたちは……それに、この声……?」
美琴が、虚ろな目で呟いた。
「……みんな……私たちを……呼んでる……?」
雫が、涙に濡れた顔を上げた。
そして、結が、小さな手で地面を掴み、ゆっくりと立ち上がろうとした。
「……まだ……まだ、終わってない……!
その瞬間、結の胸元で、魔力増幅装置が、再び力強い光を放ち始めた。それは祈りという純粋な想念エネルギーに共鳴したかのようだった。この星に直接繋がっている結だからこそできた芸当――結の魔力増幅装置は、繋がった地球を通じ、やがてこの星を守ろうとする意志、守りたいという願いへのアクセスし、魔法少女たちに伝播していく。
「これは……!?」
翠が、驚いて自分の胸元を見た。
「みんなの想いが……私たちに力を……? ウォーーーー! 燃えてきたぜェ!」
萌の瞳に、再び炎が灯った。
「イイネイイネ! あなた気に入ったヨー!」
フェニックスの魔法少女、サラが萌の傍に降り立つと、その手を掴み立ち上がらせる。
そして、その声に呼応するかのように、次から次へと魔法少女たちが姿を現わす。それは空を超え、時空の壁すらも超えて、今この場へと集ってくる。
誠は、その光景を信じられない思いで見つめていた。
(まさか……人々の想いが、本当に奇跡を起こすというのか……!?)
有栖川ケイが、興奮した声で通信機から叫んだ。
『神宮寺君! 魔法少女たちのマジカル・フィールドが、急速に増大しているわ! しかも、その波形は……以前とは比較にならないほど安定し、そして調和している! まるで、彼女たちの心が一つになったかのように!』
魔法少女たちは、互いに手を取り合い、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、もはや絶望の色はなかった。そこにあるのは、この星の全ての人々の想いを背負い、最後の最後まで戦い抜くという、揺るぎない決意だった。
「行くよ、みんな! うちらん全てば賭けて!」
翠が、力強く宣言した。
金色に光る巨大な柱が、少女たちの体から迸り、天へと昇っていく。
それは、絶望の闇を切り裂く、希望の虹のようにも見えた。
変貌したザ・ワンは、その人間たちの儚くも美しい抵抗を、依然として虚無の瞳で見下ろしていた。しかし、その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、これまでにはなかった興味のようなものが宿ったのを、誠は見逃さなかった。
魔法少女たちの決死の抵抗と、民たちの祈りが奇跡的な共鳴現象を引き起こし、彼女たちの力は一時的に増大した。しかし、それでも変貌したザ・ワンの圧倒的な力を前に、状況を覆すには至らなかった。
少女たちは、次々と繰り出される間の歪み、時間の停滞、そして魂に直接響く絶望の囁きという概念攻撃によって、再び追い詰められていく。
「くっ……! キリがない……! 何て力なの……!?」
美琴が、氷壁を生成しながら悲鳴に近い声を上げる。
「みんな、諦めないで! 私たちの想いは、まだ消えちゃいない!」
「ソウデース! 消えても、何度でも、復活させマース!」
萌とサラが炎を最大に燃え上がらせるが、ザ・ワンの放つ冷たいオーラに押し返される。その度に人々の心の灯は消えかかるが、サラの魔法がそれを
神代教授と有栖川ケイ、そして誠たちは、この絶望的な状況を打破するための最後の手段を模索していた。そして、ケイが、古代の異星文明の記録や、異次元の物理法則に関する膨大なデータを解析した結果、一つの可能性を見出した。
「……教授、神宮寺君。見つけましたわ……。あれを完全に消滅させることは、おそらく不可能。でも……もしかしたら、封印することができるかもしれない……!」
ケイが提示したのは、地球の地脈エネルギーと、複数の強力な魔力源を共鳴させ、対象を異次元の狭間に隔離、封印するという、あまりにも壮大で、そして危険な計画だった。
「しかし、ケイ君、その封印術式を起動するには、膨大なエネルギーが必要だ。それに、術式が完成するまで、アウター・ワンを特定の場所に留めておく必要がある。今の彼女たちに、そんなことができるだろうか……?」
神代教授が、苦渋の表情で問う。
「……やるしかありません」
誠が、きっぱりと言った。
「彼女たちなら、きっと……僕が、この作戦を彼女たちに伝えます。そして、封印地点への誘導も……僕がやります」
その言葉には、もはや迷いはなかった。
誠は、再び危険を顧みず、ボロボロになりながらも戦い続ける魔法少女たちの元へと向かった。そして、彼女たちに封印作戦の全てを伝えた。
「……封印……? それが、本当に可能なの……?」
翠が、息を切らしながら尋ねた。
「可能性は低いかもしれない。それに、君たちには、さらに大きな負担を強いることになるだろう。もしかしたら……二度と魔法少女として戦えなくなるかもしれない。それでも……」
誠の言葉を、美琴が遮った。
「やります。それが、この星を守るための、最後の希望なら……私たち、もう何も失いたくないから……!」
他の少女たちも、力強く頷いた。彼女たちの瞳には、恐怖も絶望も超えた、静かで、しかし燃えるような決意が宿っていた。
「ありがとう……。封印地点は、この都市の地下深くに建設中の、旧政府の巨大シェルターだ。そこは、特殊な地質構造の上にあり、地脈エネルギーが集中している。そこまで、あいつを誘導してほしい。時間は……おそらく、半日もないだろう」
半日。それは、あまりにも短く、そして絶望的な時間だった。しかし、彼女たちには、もうそれしか残されていなかった。
世界中の魔法少女と、妖精、そして一人の若き科学者。彼らの、地球の未来を賭けた、最後の戦いが始まろうとしていた。その作戦の成否は、誰にも分からない。ただ、彼らの胸には、決して消えることのない、小さな希望の灯が、確かに灯っていた。
ザ・ワンの虚無の瞳が、再び地上に向けられた。その視線の先には、最後の力を振り絞って立ち向かおうとする、小さな、しかし決して屈しない光の戦士たちの姿があった。
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