本日の宿
「また来やがったね!この土地は売らない、そういったじゃないか!いいかい、この旅館はね…」
そう言いながらこちらに向かって全速力で走ってきたのは、齢九十は優に超えているであろう、おばあちゃんだった。
「なあ涼平。お前、地面師だったのか?」
「違います。風斗さんは?」
「俺は人は攫っても土地は転がさない。そう決めてるんだ」
よく分からない線引きだ。そんなことを言っている間にも、おばあちゃんはこちらに迫っている。よく見ると、滅茶苦茶綺麗なフォームをしている。その形相たるや、まるで般若のようだ。
「土地は、売らねえよ!」
「あの、おばあさん、何やら勘違いを…」
「どうせあれだろ!ここで土地を売っておけば儲かるだとか、そういう話だろ!生憎だがね、最近宿が儲からないから不動産投資を始めたんだ!それが嘘だっていうのはバレバレなんだよ!」
駄目だ。かなりヒートアップしている。というかすごいなこのおばあちゃん。とにかく、このままだと違う意味で警察に突き出されかねない。頭を冷やさせなければ…
そうか、冷えピタ!風斗さんの方を向くと、どうやら彼も同じことを考えていたようで、冷えピタの箱を後ろ手に隠し持っている。
「いいかい、あんたらみたいなやつらはね、ボランティアでもしてみたらいいんだ!そしたら自分の愚かさに気づくはずだよ!心のための金を、心を削って手に入れるぐらいなら、金なんてなくたって…あれ?もう一人はどうしたんだい?」
思わず横を向く。彼がいない。まさか。
それは一瞬のことであった。おばあさんの背後から手が伸びる。「それ」は、音も気配もなく、静かに、その、額へ…
「冷たい!」
「おばあさん、俺たちは土地転がしじゃない。客だ。」
いつの間にか隣に戻っていた風斗がそう言った。
………
「本当に申し訳ありませんでした!最近、あの野郎どものせいで気が立っていて…」
本日泊まるお座敷の上で、おばあさんが頭を下げている。
「いえ、大丈夫です、女将さん。」
にしても、あの野郎どもとは、相当恨みを買っているのだろう。ふと、この世には誘拐以外の犯罪もあるのだということを思い出した。
「お詫びに、本日の宿泊代は、お支払いいただなくて結構です」
「え、大丈夫なんですか!?」
思わず声に出してしまった。見たところ、この宿はあまり儲かっているようには見えない。
「大丈夫です。資産は溢れてますので」
一度言ってみたい台詞だ。
「ところで女将さん、一つ聞きたいことがあるんだが」
彼が口を開いた。一体何だろうか。
「どうかされましたか?」
「この旅館の名前は、どこからきてるんだ?」
女将さんは、一瞬ポカンとしたかと思うと、すぐに笑い出した。
「…いやあ、私は十八の時にこの宿を始めたんですがね。名前がどうしても思いつかなくて。あれは開店前日とかだったかね…もう自分の名前にしちゃおうって思って。松田イヤ。縮めてまつだいってことで、今の名前になったんです。あの時は本当に忙しかった。なんせ、開店前日に、看板ができてなかったもんですから。それからずっと、私一人でやってきたんです」
なるほど、そんな過去が。…ん?待てよ?
なんてことだ。まつだいは、末代だった。
せめて、暖かに @oshiruko150en
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