移動、又の名を退屈

「温泉行こう。」


彼はそう言った。


「え?」


再び現実は理解から遠ざかって行ってしまったようだ。元から豆粒ほどしか見えていなかったのは事実だが、ようやく距離を詰め始めていたところだったというのに。


「温泉だよ温泉、うん、それがいい」


彼は何やら一人で納得している様子だが、私は困惑を隠せなかった。温泉?あの温泉か、あの効能とか言われても毎日入らなきゃあまり意味がないのではないか、と思わせてくるあれのことか?


「あの、予約とかって…」


「黙れ、お前は人質だぞ」


彼は静かにそう言った。おかしい。さっきまで仲良くなった風だったのに、いつの間にか関係値がリセットされている。いや、一緒に温泉に行けるということは、むしろ大きく関係が進展したのだと言えるかも知れない。


「おい人質、近場のいい感じの温泉を調べろ。」


新型アシスタント「人質」は、「おい人質」と呼びかけて命令をするだけで、ユー(カイハンのユー)ザーをサポートします。


「さっきは、身の安全は保障するとか言ってたのに…」


「言うことを聞いたら、だ。勘違いするなよ」


彼はかなり余裕が出てきたようだ。瞳からも余裕がにじみ出ている。こんなことなら、あのまま泣かせておくべきだっただろうか。いや、あのままにしておくのは、流石に可哀そうだ。私の精神衛生的にもよろしくない。


「って言うか、スマホそのままでいいんですか?助けとか呼べちゃうけど」


「あんなに白昼堂々やったんだ、どのみち警察は来る」


「そこが分からない、いや、そこも分からない。分からないことだらけだ。なんのためにあんな場所で、あんな時間に、あんな方法で、僕なんかを」


「5W1Hってやつか、懐かしいな」


「僕、お金にはならないと思うけど」


「こういうのはお金じゃない、気持ちだよ」


「お金だよ」


そう、分からないことだらけだ。むしろ不自然な点しかない。


「お金じゃないなら、売られるの?それとも、労働力として外国で」


「いや、三日経ったら帰す」


「土に?」


「家に」


すべての生命の根源、海いえに?」


「黙れ…そうだな、気が向いたら話してやる」


とにかく、身の安全が保障されているなら、これ以上の詮索は無意味だ。下手に刺激するのもよくないだろう。既にかなりイラつかせてしまった気もするが、まあいい。スマホで温泉旅館を検索する。


「……」


「………」


「ラジオつけるぞ」


「あっ、どうぞ」


さっきから人質と友人がシームレスに切り替わっているような気がする。なぜだろう、悪い気はしない。もし出会う場所が違えば、彼とは親友になれたかも知れない。そして、額の冷えピタがぬるくなってきた頃。


「あっ、こことかどうですか?温泉「まつ「速報です、○○県○○市で、誘拐事件が発生しました。犯人は、ドラッグストアに突如侵入、商品の冷えピタシートを振り回しながら、店の従業員三名を蹴り飛ばし、客の一人を車に乗せ、逃走したとのことです。従業員はいずれも軽症。警察は、犯人と被害者の身元の特定を急いでいます」


なんておかしな事件だ。人質になってしまった人が可哀そうだ。


「俺は強盗じゃない、誘拐犯だ!のセリフも入れてほしかった。全くセンスがない…それよりも、温泉だ温泉。で、なんていう旅館だ?」


彼は何も気に留めていないようだった。さっきもそうだが、彼には捕まらない自信がるのだろうか。あるいは、最初から捕まることを覚悟していたのか。いやむしろ、自ら捕まろうとしている?

だとすれば、納得できる部分が多い。白昼堂々犯行を行ったことも、顔を隠そうともしないことも、スマホを取り上げなかったことも…しかし、だとすれば何のために。


「ほら、早く」


「あ、ああ、旅館の名前ですね。温泉「まつだい」九〇年続く老舗旅館だとか。」


「末代なのにか」


「はい」


「気に入った、そこにしよう、住所は?」


「○○県○○……、ここから一時間ぐらいですね」


「よし、行くか」


私はついいつもの癖で、SNSアプリを開く。TLに流れてきた投稿を、なんとはなしに眺めていると…


「ぶふっ」


「どうした?温泉が楽しみで笑みがこぼれたか?」


「いや違います。あの、風斗さん」


「なんだ?」


「今のトレンド一位、誘拐犯だ!です」


「センスがあるな」

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