「自己紹介」

「そこじゃねえだろ!後なんでだよ!嫌いじゃねえよ!…言っただろ、俺は誘拐犯、お前は人質だ。大丈夫だ、言うことをちゃんと聞いていれば、無事に帰してやる。」


「意味が分かりません!僕、明日は仕事で…」


「頼む、お願いだ…、金ならいくらでも払うし、何だってやってやる…、だから…」


男の声は震えていた。それこそまるで、命乞いをする人質のような、鬼気迫る嘆き。追い詰められた人間に残された、最終手段。まさか誘拐犯に金を積まれるとは。

依然状況は理解しかねる。しかし、私はなぜだか口を開くことができなかった。


「とにかく、黙ってついてきてくれ。身の安全は保障する」


「……」


バックミラー越しに見えた彼の表情は、酷く歪んでいて、今にも泣きだしそうだった。これではどちらが人質か、いよいよ分からない。




私の母は、とにかく鋭い女性だった。一度として彼女に嘘が通用したことはなかったし、私が学校でいじめられた時も、父がメタボリックシンドロームに突入したことも、父から大学の入学祝いにもらった大切な腕時計を、私が三日で壊してしまった時も、彼女は、


「なにかあったでしょ?ううん…○○のこととか?」


と言って、見事にその内容を言い当てるのだった。

一度母に聞いたことがあった。「どうして分かるの?」と


「目を見れば分かる、当り前じゃない。人間の魂は、瞳に宿るのよ」


彼女はそう言った。なんでも、父の異常な豆腐嫌いも、初めて会った時から見抜いていたとか。



改めて見ると、彼は中々整った顔立ちをしている。一言で例えるなら、「鷹」だろうか。鋭い瞳に、高い鼻。こめかみから顎にかけてのラインは、美しい流線型を描いている。よく見ると、クマが濃く、頬は少し痩せこけており、その鋭い瞳には、酷い焦燥と必死さがにじみ出ている。とても嘘をついているようには見えない。


「分かりました。今日から僕は、人質です」


「…っ、ありがとう…っ!」


不思議と、清々しい気分だった。冷えピタで頭がおかしくなかったのかも知れない。もしや、初めからそれが狙いだったのか。でも、仕方ない。だって、悪い奴には見えなかったんだから。

一見優しそう、いい人そうな奴が一番怖い、というが、私はあの言葉が大嫌いだ。だったら何を信じたらいいというのか。


「僕は日向涼平(ひなたりょうへい)。好きな食べ物は明太子。座右の銘は、罪を憎んで人を憎まず。あなたは?」


「え?」


「だから、自己紹介」


「いや、俺、あの…」


「冗談ですよ。これで涙、止まったんじゃないですか?」


「え?」


「誘拐犯が泣いてたら、カッコつかないでしょ。」


「なんか、変な奴だな、お前」


「冷えピタを振り回してた人に言われたくないです」


彼はしばらく俯いて、なにかを決意したように顔を上げると、


「…如月風斗(きさらぎふうと)、好きな食べ物は…焼きそば」


と、まあまあな音量でそう言った。


「よろしくお願いします、風斗さん」


「…ああ…よろしく、涼平」


なんだか無性におかしくなって、私たちは、同時に吹き出してしまった。こんなに笑ったのは、いつぶりだろうか。

ああ、お腹が痛い。終いには涙まで出てきてしまった。誘拐とは、こんなに楽しいものだったのか。


いつまでそうしていただろう。過呼吸になりながら、彼は車の窓を開けた。その瞳には、もうあの必死さは感じられなかった。


「ところでこの車、どこに向かってるんですか?」


「さあ」


「さあって何ですか」


「特に決まってない」


「計画性ないですね」


一瞬、彼の顔に、再び翳りが見えた気がしたが、すぐにまた明るい顔をして


「温泉でも行くか」


とそう言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る