34. 悔悟

 時は多少前後する。

 四月一日の深更、ラクシュミー王妃を含む小勢が、ジャーンシーの城壁を馬で乗り越え、一路カールピーへと向かった。

 ラクシュミーはダーモーダルとノウラ、タラ他側近の女性兵、タートヤの部下たちなど併せて十数名だけでカールピーに到着し、砦の中に通された。そこには二千ほどの兵が待機していた。

 広い厩舎に近い一角では一心不乱に弾薬を詰める作業が行われており、戦に向けて着々と準備が進められていた。

 一昼夜を走り抜けたラクシュミーたちを迎え入れたのは、ナーナーだった。

「ラクシュミー」

 呼びかけるナーナーの声の懐かしさに、ラクシュミーは淡く微笑んだ。

 義兄あには白い上衣ジャマをまとっていたが、泥だらけだ。無造作にタ巻いたターバンからは髪がはみ出し、顔の下半分が伸ばしっぱなしの髭に覆われている。とても宰相を名乗るような風体ではなく、手入れしていないのが一目瞭然だった。ラクシュミーですら、誰だかすぐに判別できなかった。

 総督府が血眼になって探している反乱の首謀者が、まさか雑兵と同じく山賊のように身なりになっているとは思うまい。

「会いたかった」

 義兄は短くそれだけを告げた。なんて愛想のないことだ、とラクシュミーは内心で呟く。

「わたしもよ」

 ラクシュミーは微笑み、ナーナーとの距離を詰めた。

 すたすたと向かってくる義妹を、両手を広げて待っていたナーナーの頬を、ラクシュミーは思い切り引っ叩いた。乾いた打擲音に、周囲がびくりと肩をふるわせたが、ラクシュミーは気にならなかった。

 カールピーへ向かう道すがら、義兄に何と言ってやろうかとずっと考えていたのだが、言いたいことが沢山ありすぎて、順序がつけられなかった。

 タートヤに頼まれたこともあり、冷静に説き伏せようとしていたのに、ナーナーの顔を見た瞬間、その考えは頭の中から飛んでいた。

「馬鹿な事してくれたわね。お陰でわたしはしなくても良い苦労をしたわ」

 義兄を睨みつけ、ラクシュミーはきっぱりと告げた。じん、とした痛みに目を向ければ、打ちつけた手が赤くなっていた。

「気づいていたのか」

「ナーナー、まさか、あんな戯れ言みたいな約束を果たそうとしたの?」

 ――蓮の花が良いわ。わたしに相応しいでしょう?

 ――たくさん頂戴。このインドを埋め尽くすくらいに!

 十五の自分が言い放った台詞を、今でも克明に覚えている。本当に叶えて欲しいと思ったわけではない。ただの言葉の綾なのに、大真面目に受け取って。どうしてこうも揃って愚かなんだろう。

「埋め尽くす、まではいかなかったがな」

 ナーナーは晴れやかな笑顔を浮かべて、ラクシュミーを責めることはしなかった。いっそのこと、ラクシュミーのせいだと罵られるか、最初の時点で見捨ててくれれば良かったのに。それならこんなに心苦しい思いをしなくても済んだ。

「……ナーナー、グワーリヤル城を攻めるの?」

「ああ。親英派の王としてはイギリス軍に派兵して点を稼ぎたいところだが、重臣や当のグワーリヤル兵が派兵に乗り気でない。一部は既にこちらにいる。残りの兵も反乱軍に加わりたいそうだ」

 説明しながら、ナーナーはラクシュミーを砦の奥へと案内した。雑然とした砦内で、作戦室と思しき場所に足を踏み入れる。

「向こうからそんなことを?」

「ああ。シンディア家長に話しても埒が明かない。城の門番に伝えたほうが早かった」

 グワーリヤル軍の司令官はナーナーの傘下に入る意向を伝えており、襲撃の日取りを詰める段階まで来ているらしい。グワーリヤル王と軍の折り合いが悪いとは聞いていたが、そこまで決定的な亀裂が入っているとはラクシュミーも予想外だった。

「話が上手く行き過ぎてはいない? 本当に彼らは味方してくれるの?」

「大丈夫だ。おれだけなら信用に欠けたかもしれんが、ラクシュミーがここにいるからな」

 首を傾げたラクシュミーに、ナーナーはくすりと笑みをこぼした。

「知らなかったのか? ラクシュミー王妃の名はこの辺りで鳴り響いてる。イギリス滅亡のため下界に降りてきたドゥルガー女神の化身だとまで言われてる」

 ラクシュミーは額に皺を刻み、首を振った。とんでもない話だ。

「わたしはただ、成り行きで争いを起こしたに過ぎないわ」

「おれは構わないが、兵たちの前では言うなよ。士気に関わる」

 ナーナーの忠告を受けて、ラクシュミーは長い逡巡の後に頷いた。

「グワーリヤル城を襲撃したと見せかけて兵を出させる。それがそっくり我が軍のものとなる算段だ。そのつもりで準備しておけ」

 ナーナーは一方的に言い放ち、ラクシュミーと女性兵のために部屋を用意してくれた。簡素な作りの部屋だが、屋根があって敵の襲撃を恐れなくて良いというだけで、安心感が段違いだ。

 近くには井戸もあり、陶器の盥に水を汲んできて砂埃をぬぐい取ると、長らく感じていなかった疲労が押し寄せてきた。

 しばらくすると食事が運ばれてきて、敷物の上にずらりと器が並ぶ。チャパーティに豆カレー、チャツネという特別凝ったものでがないが、カレーには鶏肉のかけらも入っている。肉など久しく味わっていない。ささやかな贅沢であり、感謝すべきことだったが、却って喉を通る気がしなかった。

「ラクシュミー様」

 いつまでも手をつけようとしないのを見かねて、タラが叱咤するように声をかけた。

ブラフマンは献供である。ブランマールパナム・ブランマハヴィール・ブラフマンは供物である。ブランマーグノー・ブランマナー・フタム・それはブラフマンである火の中に、ブランメーヴァ・テーナ・ガンタヴィヤム・ブラフマンにより燃べられるブランマ・カルマ・サマーディナー……」

 ラクシュミーが食前の祈りを唱え始めると、タラたちも唱和した。マントラを唱え終わってから、スパイスの香り立つカレーを一口含む。味を感じることに安堵した。

 黙々と食事を続ける女たちを見やる。タラとノウラ以外の女の顔は、今初めて見たような心持ちがした。

 ラクシュミーは、王妃の宮殿ラーニー・マハルの侍女でなくても、希望する女には銃の扱いを教え、ラクシュミーの身辺警護も兼ねて戦場へと連れ出した。入れ替わりが激しく、一人一人の顔をじっくり眺める暇もなかったことや、これまでいかに気を張っていたのかを思い知らされた。

(わたしはジャーンシーにいることに拘りすぎて、周りが見えてなかった)

 いつの間にか、義務ダルマをはき違えていたのかもしれない。つまらない矜持に拘泥するのではなく、この人たちを疲弊させず、美味しい物を食べて、眠れるという安心を与えることこそが、ラクシュミーがなすべき義務だったのだ。

 今頃になって気づいた申し訳なさで、自然とラクシュミーの目線が下がった。チャパーティをちぎって、口元へ運んでいると、すすり泣く声を拾った。声の主は一番若そうな女兵士だった。

「どうしたの?」

「悔しいんです。ジャーンシーをイギリスに奪われて……」

 それは、ラクシュミーの判断が不味かったのだ。いたずらに民を傷つけることなく守る術もあったかもしれないのに、流されるままに戦を始めてしまった。

 ラクシュミーはグワーリヤル王を、援軍を寄越さない狭量な人物だと思っていた。だが、グワーリヤルを守るならば、それが正しいのだ。

 難攻不落の城塞を持つが故の選択でもあるのだろうが、ジャーンシーも中立の立場を取ることができたはずだ。

「私の夫はジャーンシー城の戦争で亡くなりました。私も夫もムスリムで……ヒンドゥーの王妃様だから、火葬でも仕方ないと思ってました。けれど、王妃様はちゃんと土葬にしてくださいました。そしてできることを成しなさい、とお言葉を」

 娘と呼んでも差し支えないほど、つやつやとした頬をした女は、つと拳を握った。

「王妃様も夫を亡くされていて、私と年が変わらないのに、いつも笑ってみんなを励ましていて……だからこそ、私、王妃様のために何かしたいって。でも、力が足りなかった……」

「アイシャ、私も同じ気持ちです。マヌ様を助けられなくて……申し訳ありません」

 隣に座っていたノウラが年若の娘――アイシャを抱き寄せる。こんな時でも優しさや思いやりを忘れない、そんな人たちに恵まれたことはラクシュミーの何よりの財産だ。鼻の奥がつんとして、慌てて口を開いた。

「謝らなきゃならないのは、わたしのほうよ。あなた達を危険な目に合わせてしまったのだもの。皆にはジャーンシーを見捨てたと言われても仕方ないわ」

「そんなこと! 皆、王妃様が正しいって信じてます。だから私たち、ここまで生き延びることができたんです」

 懸命に訴えるアイシャに、女達は各同意を示す。

「ありがとう……きっと、取り戻しましょうね、ジャーンシーを」

 はい、と女たちが頷く。後ろめたさが少しだけ薄れた気がした。

 手遅れかもしれないが、せめて彼女たちが義務を果たせるよう、手を尽くそう、とラクシュミーは改めて誓った。

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