35. 停滞
ラクシュミー一行を加えたカールピーはたちまち活気づいた。
褪せぬ美貌に快活な笑顔を浮かべるラクシュミーは、戦を前にした殺伐とした空気を和ませるのに一役買った。
イギリス風の乗馬服を身につけて陣内を闊歩する姿は勇ましく、息子のダーモーダルへ馬や銃の扱いを教えるのにも堂に入っている。王妃が直接軍を率いていた噂は本当だったのだ、と、教えを請いたいという者が列をなした。
男だらけの陣中に降って湧いた女性の姿に、不埒なことを考える者もないではなかったが、ナーナーが徹底的にラクシュミーのことを、シヴァ神の化身だのドゥルガー女神の顕現などと持ち上げていたせいか、我先にと女達の警護を買って出る兵のほうが多かった。
「……ちょっと大袈裟すぎるわ」
ラクシュミーがナーナーに苦言を呈した。ラクシュミーの身辺警護ならタラたちだけで十分だ。ああ見えて彼女たちは既に歴戦の兵士なのだから。
「煽れるだけ煽っておくさ」
ナーナーは気にしていないようで、平然と言い放った。
この頃になると流石に山賊の頭のような姿ではなく、髭を綺麗に整え、衣装も改めていた。若々しく整った顔が現れて、記憶との差異が縮まった。義兄の表情には、タートヤが言うような危うさは感じられなかった。
大義を失っている、と言うがマラーター宰相に返り咲き、イギリスを駆逐することがそうだとは思えない。確かに、時期尚早であったし、カーンプルでの虐殺は誉められたことではないが、今更責めたところで帳消しになるわけでもない。
「ねえ、ナーナー。いつ出発するの?」
カールピー到着の翌朝、ラクシュミーは馬場に現れた義兄に尋ねた。
日程は詰めているところだ、としかナーナーからは言われておらず、詳細を知らぬことに焦りを覚えた。こうしている間にも、ジャーンシーの民は苦しい戦いを強いられているのに。
「……すまない、ラクシュミー。もう少し待ってくれないか」
ナーナーがそう苦々しく答えるので、実はグワーリヤル兵を取り込めてないのではないか、と追及すると「そうじゃない」と、きっぱり否定した。
「……お前を、幕僚に加えるのを嫌がる連中がいてな」
折れそうにないラクシュミーを前にして、ナーナーが渋々事情を話す。ナーナーが取り込んだのは末端の兵だけではない。旧来のマラーターの貴族も多くいる。彼らは、グワーリヤル城を拠点としてイギリス軍を迎え撃つべきとし、ジャーンシーへの派兵に反対している。
そも、彼らの常識では、軍事に女が関わるのは『ありえない』ことだ。主君たるナーナーが、己でなく外国に嫁いだ王妃の武名を借りて兵を集めていることにも難色を示しているとか。
「今は非常時なのよ! 常識とか名誉が関係あるの!?」
悲鳴に近い抗議をするラクシュミーに、義兄は「少し、落ち着け」というが、そんな余裕はない。
「いくら気に入らなくても、将来的に『マラーター宰相』を盛り立てることになる連中だ。造反されては困る。今はまだ」
ナーナーの言い分は理解できても、納得はできない。唸るラクシュミーを横目に、ダーモーダルが話が終わるのを今か今かと待っている。
ダーモーダルは常に女に囲まれている。知っている男といえば、ラクスマン・ラーオくらいで、若い男の存在に興味津々だった。到着早々、ナーナーが自身の義理の伯父だと知って、より好奇心を刺激されたらしい。
「わたしを将にしろとは言わないわ。ただ、クーンチまで軍を進めるべきではないかしら。カールピーは古い砦だもの、イギリス軍の砲門の前では役に立たないわ」
できればラクシュミー自身が説得に赴きたいところだったが、このカールピー砦の主はナーナーだ。客分でしかないラクシュミーがしゃしゃり出て、相手の態度を硬化さるような愚は避けたかった。
「分かった」
義兄の、簡潔な返事で会話を切り上げた。ラクシュミーが終わったわよ、という風にダーモーダル微笑みかけると、息子は嬉しそうにナーナーにじゃれつく。無邪気な笑い声が砦に響き、久々に故郷のビトゥールに戻ってきたように錯覚した。
だが、その翌日。ナーナーが説得に成功するより先に、ベートワ河の戦闘以来、行方不明だったタートヤがカールピーに姿を見せた。
「ラクシュミー、すまなかった」
追撃のイギリス軍をまくために、山道を抜けてきたというタートヤは、迎え入れたラクシュミーに、まず謝罪を口にした。
タートヤが敗北の様子を語るにつけて、苦々しさが胸に広がった。
「散り散りになった兵を集めて、再度ジャーンシーに戻ろうとしたところで、陥落の知らせが入った」
タートヤの報告に、ラクシュミーは一瞬頭が真っ白になった。ラクシュミーが抜け出して、まだ二日しか経っていないのに、もうイギリス軍の手に落ちたというのか。
兵は皆ジェルカリーを王妃だと思い、懸命に戦っていた。だが、東側の城壁にはひびが入っていて、若干もろくなっていた。そこを突かれたジャーンシー側は早々に敵の侵入を許した。それでも銃剣やタルワー刀を携え、白兵戦で粘りに粘ったものの、力が及ばなかった。
タートヤが斥候からジャーンシー陥落を聞いた時、カールピー近くにいた。それで急いでやってきたのだという。
ラクシュミーは唇を咬んだ。ヴィクラム・ハーンにラクスマン・ラーオ、ジェルカリー……城に残してきた面々を思い浮かべた。彼らがどうなったかと気を揉むラクシュミーに、タートヤは無念そうに首を振った。
「ラクシュミー、まだ諦めるな」
隣に立つナーナーが「グワーリヤル城へ向かう」と告げ、素早く踵を返す。いつの間に現れたのか、ナーナーの補佐を務めるアズィームッラー・ハーンに行軍の準備を命じた。
「イギリスも補給地を得たからには、すぐさま追撃の兵が出るだろう。クーンチ、及びカールピーでの足止めは、タートヤに任せる」
ラクシュミーが口を挟むよりも早く、ナーナーが告げる。は、とタートヤは主の足塵を拝し、素早く命に従った。
「もっと早く、グワーリヤル城に向かうべきだったわ!」
ラクシュミーは悪態を吐いた。他の兵に聞こえないよう声量を抑えたが、顔が険しくなるのは隠せない。
ジャーンシーでは、ラクシュミーが何もかも決めなくてはならなかった。己の選択が正しいのか否か、常に悩み、苛立ち、恐れてきた。それでも、何ひとつ関われないより遙かにましだ。変に遠慮をして、客人扱いされることに甘んじるべきではなかった。
ナーナーが厳しい顔で場所を変えよう、とラクシュミーを促した。作戦室にたどり着くまで、二人は無言で歩を進めた。
「……おれは、将には向いてない」
部屋に入るなり、ナーナーは意気消沈したように告白する。
「何を言い出すかと思えば……」
今、この瞬間にすべき話だろうか。ひとまず、騎馬だけでも先行させるなり、何らかの手を打つほうが先だろう。自ら判断せず、アズィームッラーやタートヤに任せきりなのだから、義兄は確かに、将には向いてないのかもしれない。
「わたしだって向いてるわけじゃないわ。他に任せられる人がいなかっただけ」
「向いてないか? お前はオルチャもダチアも下し、イギリス相手にひけを取っていない。それは王としての器があるということだ。おれとは違う」
「ナーナー、弱気になってる場合じゃないわよ」
「これまで、何度敗れただろう。兵を使えず、将も御しきれない。口うるさく頭の固い貴族のご機嫌取りばかりだ。――つくづく、嫌になる」
台詞とは裏腹に、ナーナーは清々しく笑った。
「おれは、お前にジャーンシーを与えてやりたかった。それだけじゃない、このヒンドスタンの全てを」
義兄の話の壮大さに、ラクシュミーは呆けた。
「……冗談でしょう? わたしをシヴァーシーにしようというの? 現実的じゃないわ」
シヴァーシーは、かつてマラーター王国を造り上げ、繁栄に導いた英雄の名だ。彼の功績は史実だが、己がそれと同じだけのことを成せるなどとは、かけらたりとも考えたことはない。
「わたしに、そんなことを期待されても困るわ。わたしはもうジャーンシーに嫁いだ身だし、マラーター宰相の後継はあなただけ。マラーター王国の復活を成し遂げるとしたら、それはナーナーの義務だわ」
ナーナーは、ラクシュミーの一部分だけを見て、買いかぶってるだけだ。ラクシュミーの両手は、いつもジャーンシーのことだけでいっぱいで、他を受け入れる器なんてない。
「……ひとつだけ、お前の発言力を強める方法が、ある」
ナーナーが眉根を寄せ、躊躇いがちに口を開く。なかなか続きを言おうとしない義兄を促すと、覚悟を決めたように顔を上げた。
「ラクシュミー、マラーター宰相の妻になる気はあるか?」
唐突な提案に、ラクシュミーは虚を突かれた。だが、一瞬の後、芽生えたのは嫌悪感だった。寡婦の再婚は、婦道に悖る。いち市井の女でも再婚への禁忌は根強く、ブラフマンの娘であればなおのことだ。
やはりな、とナーナーは苦笑する。ラクシュミーが答えるまでもなく、拒絶が顔に出ていたらしい。
「懐かしいな。お前は最初、ガンカーダル・ラーオでなく、おれの元に来るはずだったんだ。まあ、話だけだったけどな」
「そうなの?」
初耳だった。そも、ラクシュミーに結婚相手を選ぶ権利などないし、相手が誰であろうと嫁ぐのが定めだ。女だてらに馬に乗り、剣を操るなど、数々の戒律を破ってきたラクシュミーでも、それだけはどうにもならない現実だった。
もし、ラクシュミーが十五の時のまま変わらずにいたなら、きっと今の話に、別の感慨を得たかもしれない。物心ついた頃から共に学び、育ってきた相手だ。お互いに気心を知れた仲から、そのまま夫婦の結びつきに変わるのは、そう難しいことではなかっただろう。でも、今は――
胸に拳を当てて黙り込んだラクシュミーに、ナーナーは「すまなかった」と笑った。
「お前が、頷くはずもなかった。だが、もし……お前がなりふり構わず、目的を達成したいと願ったときに、こういう手もある、ということを覚えておいてくれ」
目線を外しながら、あくまで手段のひとつだ、と念押しするナーナーの台詞が痛々しかった。義兄の求婚は、さりげなさを装っていたけれど、本心だったのだろう。いつからかは分からないけれど、ラクシュミーが嫁いでもなお失うことのなかった想いに、応えられないことが歯痒い。
「おれは、先に行く。アズィームッラー・ハーンが探しているかもしれないからな」
沈黙の気まずさに耐えられなかったのだろう、義兄は言い訳めいたことを口にして部屋を出た。
一人きりなったラクシュミーは呆然と床に座り込んで、膝を抱えた。つと目をやった右手には、細かい傷跡が幾つもできていた。改めて見ると少しも気づいていなかった傷ばかりだ。こうやって、ラクシュミーが自覚しないままに、見過ごしていた事が沢山あったのだろう。
「リアム……」
今もまだ、ローズの元にいるだろう青年の名を口にした。
(今、あなたがここにいれば良かったのにね)
ラクシュミーが困っている時、いつも手を差し伸べてくれた。彼の優しさに寄りかかってばかりではいけない、と、ついに振り払ってしまったけれど、今になって後悔している。
虫の良い考えに、ラクシュミーの口元に自嘲の笑みが浮かんだ。
頭に浮かんだ面影を振り払い、ラクシュミーは自分たちに宛がわれていた別邸に向かう。タラ以下、全員が既に揃っていた。
表情を引き締めた女たちに、ラクシュミーは休むよう告げ、ラクシュミーもまた薄い毛氈が敷かれただけの寝床に横たわった。
きっと明日にも、グワーリヤル城に向かうだろう。ラクシュミーに何を動かす力がなくても、戦うために休むべきだった。
――ジャーンシーを取り戻す。
それだけが今のラクシュミーの使命だ。
タートヤ・トーペーの帰還と入れ替わるように、ラクシュミー王妃を擁した軍勢約二千がカールピーを出立した。
陣容は騎兵千五百、歩兵六百、砲門は八。兵はマラーター貴族の率いる私兵、カールピー他近隣の義民兵、ナーナー・ゴーヴィントに付き従うカーンプルの残党、ラージプート族の傭兵などだった。
グワーリヤルへの救援要請をことごとく無視された王妃が、業を煮やして直接懇願しに出向いた、というのは一面真実だった。
彼らは五月末にグワーリヤル城郊外のゴダルプールに到った。かつて権勢を振るったマラーター王国の宰相、その後継者であるナーナー軍の勢いを恐れたシンディア家の長は、急ぎ一万一千の兵を組織した。両軍はグワーリヤルから東へ数マイルにある宿営地、モラーで衝突した。
グワーリヤル軍は歩兵七千、騎兵四千、砲門は十二。圧倒的な戦力差に、藩王は勝利を確信していた。
六月一日、朝の七時。両軍の間で砲火が交わされた。宰相軍の騎兵が砲門を奪うやいなや、グワーリヤル兵が宰相軍の騎兵に続いて、仕えていた王に刃を向けた。
慌てふためいたグワーリヤル藩王は護衛兵のみを連れて、イギリス軍の駐屯地アーグラまで休むことなく逃走した。
かくして、ナーナー・ゴーヴィントとラクシュミー率いるおよそ二千の軍勢は、グワーリヤルの兵を味方に加え、ほぼ無血で難攻不落を謳われる城を占拠したのであった。
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