29. 蹉跌

「タートヤ! よく来てくれたわ!」

 城門を開き、援軍を迎え入れたラクシュミーは、真っ先に頭の男の元に駆け寄った。兵に指示して荷を運び入れていた男、タートヤ・トーぺーはラクシュミーを見るなり目を丸くした。

「マヌか? 見違えたな」

「もう八年も経つもの。タートヤは変わらないわね」

 そうかな、と日に焼けた顔をくしゃくしゃと綻ばせた壮年の男には、確かに離れていた歳月分の皺が刻まれていたが、戦場での動きは鋭く切れがあった。

「ラクシュミー王妃殿下、このお方は……?」

 ラクスマン・ラーオが怪訝な顔を向けてくるのに、ラクシュミーはあっと声を上げる。

「彼はタートヤ・トーぺー。ビトゥールで導師をなさっていたのよ。剣もお強くて、わたしも指南して頂いていたの」

「お初にお目にかかります。ラクシュミー王妃は娘のようなものでして、お助けすべく参上致しました」

 タートヤは折り目正しく礼を取る。ラクスマン・ラーオはジャーンシーの宰相だと自己紹介し、タートヤの部下たちの仕事ぶりに目を向けた。

「タートヤ・トーぺー殿、今運ばれている荷は何ですかな?」

 装備もカーストもばらばらな彼らは、大量の荷とともにジャーンシー城に訪れたのだ。

 タートヤは笑みを作り、ラクシュミーとラクスマン・ラーオを、続々と城内に運ばれる木箱の側へ案内した。釘が打ちつけられ、封をされた箱の蓋を剣の先を使って器用に引き剥がす。と、中に詰められていたのは弾薬だった。ジャーンシー兵が切望していたものに、ラクシュミーはぱっと目を輝かせてタートヤを見た。

「お困りだろうと思いましてね。多くはありませんが糧食も用意しております」

「タートヤ! わたしにはあなたがラーマ王子に見えるわ!」

「君はイギリスという魔王ラーヴァナに囚われたシーター王女と言うわけか」

 歓声を上げるラクシュミーにタートヤは陽気な笑顔を返した。久々に、屈託なく笑えた。

 タートヤはカーンプルの反乱が失敗した後、ナーナーと何名かの廷臣と共に移動していたという。各地で人を集めては英軍の基地を襲い、略奪を繰り返しながらジャーンシーを目指して来たのだと語った。

「……ナーナーはどうしているの?」

 その義兄の姿がない。ラクシュミーが尋ねると、タートヤは口元を結んだ。和やかな空気が薄れたのを感じたラクシュミーは、最悪を覚悟して息を詰めた。

「安心しろ。ナーナー様も生きておられる」

「良かった……」

「喜んでくれるのはありがたいが、俺たちは無償でラクシュミー殿下を助けに来たわけじゃない。だが、ジャーンシーの行く末にも関わる話だ」

「場所を変えたほうが良さそうね。宰相も同席願えるかしら」

「ええ、はい」ラクスマン・ラーオは戸惑いながら頷く。「執務室が宜しいですかな?」

「ご配慮痛み入ります」

 タートヤの表情からすると、複雑な話なのだろう。ラクシュミーは手を合わせてタートヤを見上げる。

「私の侍女も連れて行っても良いかしら。大丈夫、頼りになる女性よ」

 タートヤの了承を取りつけたラクシュミーは、早速タラとジェルカリーを呼んだ。彼女たちはラクスマン・ラーオと共にラクシュミーの参謀とも呼べる存在だ。

 ひとまずヴィクラムに、大量の弾薬を振り分けるように指示したラクシュミーは、遅れてやって来たタラとジェルカリーを連れて宮殿の奥、内謁殿ディーワーネ・カース近くにある宰相の部屋に向かった。

「手短に話そう。我々の軍は今二手に分かれている。上手く行っていれば、ナーナー様は今頃カールピーにたどり着いておられるはずだ」

 カールピーはジャーンシーの北東、百マイル先にある砦だ。ジャーンシーよりも規模も質も劣るが、軍が駐留するくらいなら十分機能しうるだろう。

「ご存じでしょうが、我々は総督府に目をつけられておりましてな。ナーナー様と行動すれば目立つことこの上ない。ナーナー様は私ならマヌを助けられるだろう、と送り出してくださったのだ」

「ナーナーが、わたしを?」

「そうだ」

 タートヤは力強く頷く。

「マヌ……いや、ラクシュミー王妃殿下。御身はジャーンシーを離れ、カールピーのナーナー様を頼られよ」

「タートヤまで、そんなことを言うの?」

 ラクシュミーは苛立ちを隠さず、首を振った。

「わたしは最期までジャーンシーにいる。逃げないわ」

「落ち着きなさい、マヌ。おれは逃げろと言っているんじゃない。カールピーのナーナー様と合流して、グワーリヤル城へ向かうんだ」

「グワーリヤルに?」

「そうだ。あの砦には糧食も弾薬もある。それを手に入れさえすれば、ここのイギリス軍なぞあっという間に蹴散らせる」

 確かに、グワーリヤルはブンデルカンド地方最大規模の要塞だが、その主たるシンディア家領主は親英派である。各地のスィパーヒーの乱を見てもどこ吹く風で、ラクシュミーが救援を求めても無視されている。

 ラクシュミーが難しい顔をしていると、タートヤはくすりと笑った。

「シンディアの長にどれだけ懇願しても無駄だよ、マヌ。君は筋を通そうとしたのだろうが、おれたちに必要なのはグワーリヤル兵であって、シンディア家の主ではない。兵たちの中には、王を見限って反乱に加わっている者も多い。彼らの協力を得るんだ」

 ラクシュミーが黙り込む横で、ラクスマン・ラーオが喜色を浮かべる。

「王妃殿下、タートヤ殿のお言葉に従われては? 物資の不足は急ぎ解決せねばならない問題です。グリーワヤルの城は難攻不落、戦の舞台をあちらに移せばあるいは……」

「そんなに上手くいくものでしょうか」

 乗り気のラクスマン・ラーオに、慎重な意見を唱えたのはタラだ。

「話によると、グワーリヤル王はずいぶんとイギリスに傾倒なさっているご様子。異変があれば、すぐさま注進なさいますでしょう。兵たちも、恩義あるシンディア家を見捨てますでしょうか」

「だからこそ、王妃の存在が必要だ」

 タートヤはぐっと顎を引いて、力強く断言した。

「君の活躍は良く聞こえている。美しい女性でありながら、男のように勇敢で、優秀な指揮官だと。腰抜けのグワーリヤル王より君を主と仰ぎたいと、そう兵たちに思わせるんだ」

「そんなこと……できないわ」

 ラクシュミーは顔を顰めて首を振った。

「なんだ。君らしくもなく弱気じゃないか」

「……ジャーンシーはどうするの?」

「しばらくおれたちが引き受ける。おれは憎き反乱首謀者の片割れだぞ。英軍を引き留めるには格好の獲物じゃないか。ラクシュミーが戻るまでの時間くらいは稼げる」

 タートヤは胸を叩いて言い切った。タートヤの強さを疑うわけではないが、それでもラクシュミーは逡巡した。

「今すぐには決められない。……少し、時間をちょうだい」

「構わないが、おれたちの贈り物を使い果たすまでには決めてくれよ」

 作戦会議はお開きとなった。寺院で祈りを捧げたいというタートヤの要望に沿って、ラクシュミーが案内を買って出た。

 狭い寺院の中で香を上げ、マントラを唱えて祈りを捧げた後、タートヤが先ほどまでの陽気さを打ち消して、暗い面持ちで口を開いた。

「グワーリヤル城を得ることが、ジャーンシーの危機を救う――というのは確かだが、それだけじゃないんだ。ラクシュミー、ナーナーを止めてくれないか」

「どういう意味?」

「ナーナーは、最早義務を見失っている」

 タートヤはカーンプルでのイギリス人捕虜に対する虐殺について、淡々と語った。

「再び占拠したイギリスにも報復されたが、先に刺激したのはナーナーだからな。おれは……止めるべきだったのに、できなかった。おれもまた、正しい義務が何なのか、分からなくなってきている」

 こんな様では導師失格だ、とタートヤは苦く笑った。

「だがマヌ、お前なら言ってやれるだろう、馬鹿なことをするなと」

「でも……」

 ラクシュミーの中では、ナーナーは、望んでもいないのに誰かの世話を焼く役目を引き受けている、少し要領の悪い義兄あにだ。タートヤの語った義兄の残虐な行いと、その人となりにはずれを感じる。

 もしタートヤの言うとおり、義兄が義務を見失っているのだとしたら、助けてやりたいと思う。だが、そのためにジャーンシーを離れては、ラクシュミーが義務を見失うことになるのではないか?

「すまないマヌ、ナーナーのことは抜きにして考えてみるんだ。グワーリヤル砦を手に入れるのは、ジャーンシーを救う手立てとなる。何故ここにいることに拘る?」

 何故、とラクシュミーは繰り返す。タートヤの言い分は分かる。

 ジャーンシー城に籠もっているだけでは現状を打開できない。イギリス軍がなるべく装備を減らさず、しかし間断なく攻撃を仕掛けてくるのは、こちらへの圧力もあるが、恐らく援軍を待っている。

 タートヤの持ってきた物資が尽きれば、また苦境を繰り返すだけだ。イギリスを退かせ、勝利を確実にせねば、それこそ何のためにジャーンシーで戦を続けてきたのか分からなくなる。

「……もしジャーンシーを失ったら、わたしはどうなるの?」

 タートヤはラクシュミーの問いには答えず、懐かしそうに目を細めた。

「まるで、ビトゥールを離れる時のようだな」

 ラクシュミーは自分の姿を見下ろす。真紅のサリーは薄汚れ、宝石やビーズの飾りも欠けていた。見窄らしくなってしまったが、ジャーンシーを象徴する大事な目印だった。

「わたしはジャーンシーを守りたい。けど、このまま消えてしまっても良いと思ってるの」

 ラクシュミーの告白に、タートヤは目を剥いた。無理もない、とラクシュミーは苦笑した。口にするまで、彼女自身も気づいていなかった――否、口にすることで、気づくことを避けていたのだから。

「わたしはジャーンシー王妃として、ここで死にたい。義務を果たした、と信じたい。……間違ってるかしら」

 夫が亡くなって五年。その面影も、敬愛も、ラクシュミーの中から徐々に薄れつつある。

 代わって、明確になるのが金髪に榛目の白人青年になった時、ラクシュミーの『王妃』の矜持が、音を立てて崩れ去った。そんなこと、あってはならないのに。

「お願い、タートヤ。わたしの義務を教えてください」

「……ジャーンシー王妃として民を救い、イギリスに勝つことだ」

 タートヤの言葉を、ラクシュミーは目を閉じて繰り返し唱えた。神の啓示を授かった敬虔な信者がそうであるように、身体の隅々にまで教えを刻み込んだ。

「『王妃』なら、ジャーンシーのことを一番に考えるんだ。ここに留まっていても意味はない」

 おもむろに瞳を露わにし、ラクシュミーはタートヤの目線を受け止めた。

「……ナーナーの元へ行くわ」

「君ならば、そう言ってくれるだろうと思っていた」

 タートヤは、励ますようにラクシュミーの肩を叩いた。その力強い励ましを受けてなお、ラクシュミーは嫌な予感が拭えなかった。

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