28. 小さなわだかまり

 三月二十三日の朝。イギリス軍の大砲の音が鳴り渡り、それが戦闘の引き金となった。

 堅固な城壁に守られたジャーンシーの兵は、追い詰められながらもよく耐えた。手数が少ないイギリス軍は城を攻め倦ねているようで、一進一退の攻防が続いていた。

 イギリス兵ほどではないにしろ、ジャーンシー兵にとっても炎天下の戦闘は厳しいものがある。敵兵に囲まれた恐怖と緊張、空腹や喉の渇きなども相まって、城内や街中の空気は殺伐としていた。

 ラクシュミーの元には被害の報告の他、弾薬不足も聞こえていたが、手配するあてはない。念のため、グワーリヤル王に助けを求めていたが、何の音沙汰もなかった。グワーリヤル王は親英派で知られている。ジャーンシーに荷担して、イギリスの心証を悪くしたくないのだろう。

 ラクシュミーにできるのは、城内を巡っては労いの言葉をかけて励まし、けが人の手当をするくらいだ。

 イギリスとの戦闘開始から一週間経とうという頃。夜中に、ラクシュミーの元にひっそりとやってきたのはノウラだった。

「――マヌ様、降伏しましょう」

 ノウラは前置きもなく、静かな声でそう紡いだ。

「皆を、ジャーンシーを裏切れと言うの!?」

 ラクシュミーの声が高くなった。隣で眠るダーモーダルが身じろぎしたのを見て、慌てて口を噤む。

 ノウラはラクシュミーの勘気に触れたことに恐れをなして唇を噛んだが、逃げ出さなかった。側に膝を突いた彼女に、真正面から見据えられ、ラクシュミーは戸惑う。

「もう、ジャーンシーは終わりです。イギリス軍に勝つなんて、無理です。このままお城にいても、敵兵に辱められて殺されるだけ。マヌ様がそんな目に合うなんて、考えるのも嫌です。たとえ結果は同じでも、裁判にかけられるほうが、まだ救いがあります」

「ノウラ、諦めてはだめよ」

 この娘の悪い癖が出てしまった。ラクシュミーはなるべく明るく笑って、物事を悲観しがちな侍女の手を取った。ノウラはこういうとき必ず目が泳いでいて、ラクシュミーの慰めで落ち着きを取り戻すのだが、この日は違った。ノウラには常ならぬ冷静さがあり、視線が泳ぐことも、震えてもいなかった。

 そういえば、こうして会話を交わすことも久々だ。ラクシュミーの頭の中はジャーンシーのことでいっぱいで、それ以外を考える余裕がなかった。特にここ一年ほどはオルチャとの戦にかかりきりで、ラクスマン・ラーオやヴィクラム・ハーンと軍議を重ねてばかりだった。

 ラクシュミーが公事に励む間、ダーモーダルの面倒はノウラが引き受け、タラと共に王妃の宮殿ラーニー・マハルの女たちを上手くまとめていた。

 特にジェルカリーは、低カーストの己が宮殿で王妃の護衛を担う重圧に膝が震える有様だったが、ノウラの説得や慰めで気を持ち直し、今では名実共にラクシュミーの右腕となっている。

 ノウラは銃の扱いも、馬に乗るのも上手くはない。だが、人の心を容易に開かせる思いやりや穏やかさがあり、自然と敬愛を受けている。皆の良き相談役として、欠かせない人物となっていた。

 ジャーンシーに来た頃の、木の影にすら怯えていた少女の姿はもうない。ノウラもまた、変わったのだ。

「……以前、マヌ様を助けて下さった方がおられましたね。あの方なら、降伏してもきっとマヌ様を悪いようにはしません」

 ラクシュミーは首を振った。

「彼は総督府の人間よ。イギリスを裏切ることはできない。わたしがジャーンシーを捨てられないのと同じように」

 諭すように、ノウラの肩を撫でると、侍女は悲しそうに眉を下げた。

「でも、マヌ様はあの方と一緒にいるときが一番幸せそうでした」

「……」

 虚を突かれたラクシュミーは咄嗟に反論できなかった。

 妻となった以上、例え亡くなったとしても夫に操を立てるのは当然のことだ。それが女の義務だからだ。この規律を疑ったことなどないのに、ましてや放棄するなんて!

「ノウラ、変なこと言わないでよ。びっくりするじゃない」

「マヌ様のことを、あたしはずっと見てました。あたしはマヌ様の味方なんですから、嘘を吐かなくても良いんです」

 ダーモーダルを気遣って小声だったが、ノウラの強気な物言いは初めて聞くものだった。

「嘘なんか……」

 吐いてない――と、言い切ろうとして、できなかった。

 彼に会うと決まって心が弾んだ。会えなければ胸が痛んだ。言葉を交わすには時間が足りず、いつも機会を伺っていた。

 夫のことは尊敬していた。生涯を夫に尽くすと決めていた。けれど、リアムを前にすると、沢山の違和感があるのだ。ほんのわずか、気のせいで済ませられる程度の小さなわだかまり。

 ラクシュミーの胸の底で転がるそのわだかまりは、取るに足らない屑石のようなのに、時折目も眩むような美しい光を放っている。その正体を、ラクシュミーは暴きたくなかった。

「マヌ様が王妃としてのお役目を果たそうとしていること、とても嬉しいです。誇り高いブラフマンの魂をお持ちなんだと感心します。でも、もうマヌ様は寡婦で、誰を想おうと……」

「ノウラ、黙りなさい。わたしを侮辱するの!?」

 半ば泣きそうになりながら、ラクシュミーは叫んだ。はっとしてダーモーダルを振り返ると、少年はすっかり寝入っていた。ゆっくり上下する少年の薄い胸をしばし眺めていると、「申し訳ありません」と消え入るような声でノウラが詫びた。

「マヌ様がどんな道を選んでも、あたしはマヌ様に従います。それだけは覚えておいてください」

「……昔からずっと、ノウラはわたしの味方よ。だから、もう下がってお休みなさい。明日も戦闘よ」

 畏まりました、とノウラがプラーナムの礼を取り、部屋を退出していく気配を感じながら、ラクシュミーは身体を横たえた。

「……母様、つらいの?」

 気づけば眠っていたはずのダーモーダルが、ラクシュミーの目をのぞき込んでいた。

「少し、ね。でも大丈夫、きっと上手くいくわ」

 ダーモーダルがころんと転がってラクシュミーに寄り添うと、抱きついてきた。大きくなったと言っても、自分の半分くらいしかない息子を抱きしめ返すと、ダーモーダルはくすくすと笑った。この無邪気さに、いつも救われている。

 ラクシュミーも忍び笑いをしながら、ノウラの言葉をぼんやりと反芻する。

 夫と何度も肌を重ね、子を産み、そしてどちらも失った。ラクシュミーに、女として知らぬ感情などないと思っていた。けれど今、ここにある想いは、何なのだろう。生まれて初めて見る宝物を前にした様に、おろおろとしている。

(何も知らない頃に戻ったみたい……)

 ――もし、本当にそうだったなら。

 迷いなく彼の懐に飛び込んで行けたのに。

 ラクシュミーは目を閉じて夜明けを待ったものの、意識は冴えてしまい、ろくに眠ることができなかった。

 再び目を開けた時にはまだ薄暗く、温く湿った空気が枕元に沈んでいた。

 ダーモーダルを起こさぬようにそっと寝床――床に絨毯を敷いただけの簡易なものだ――を抜け、城の露台に出た。

 東を見ると、地平の底にうっすらと白い帯が延びていた。もうそろそろ太陽が顔を出し、大砲の音が空を震わせる時刻だ。

 今日一日、無事に乗り切れても、明日はどうなるのだろう。寺院にたどり着いたラクシュミーは、先行きの見えない不安に耐えかねるように、神像の前で深く深く祈った。

 寺院で祈りを済ませて宮殿に戻ると、用意されていたチャパーティーとヨーグルト、チャイを腹に収める。ほとんど味を感じない食事の後、タラにダーモーダルを預け、ラクシュミーの近習を勤めるタラ・バイとジェルカリーを連れ、銃を手に城壁に姿を出した。

「ラクシュミー様だ」「王妃殿下のお見えだ」「ラクシュミー殿下万歳!」

 城内の兵がラクシュミーを見上げ、歓声を上げる。笑顔で応えながらジャーンシーの外壁にいる司令官ヴィクラムの元を訪ねた。

「王妃殿下直々にお出ましにならずとも……」

 恐縮したヴィクラムが頭を伏せようとするのを制して、ラクシュミーは微笑む。

「兵を鼓舞するのもわたしの役目です。イギリス軍の様子はどう?」

「大砲を西門方向に寄せています。昨日とは違う場所を撃つようですね」

 説明を聞きながら、ラクシュミーは首を捻った。ローズは何を考えているのだろう。外壁を壊そうという目論見だろうが、しきりに大砲の場所を変える意図は分かりかねた。

「警戒を怠らないように。動きがあれば知らせてください」

 はっ、とヴィクラムの小気味良い返事を、イギリス軍の大砲の発射音がかき消した。

 びいん、とシタールの弦を弾いた時の余韻のように、空気を伝わる低音と振動。ラクシュミーはタラたちを引き連れ、被害を受けた場所まで駆けつけた。

「王妃様、危険です!」

 ヴィクラムの警告に被さる二発目の轟音に、ラクシュミーの鼓膜が破れたかと思った。ばらばらと落ちてくる破片は、間近にあった砲塔――白砲台を掠めた残骸だった。すぐさま反撃を試みた白砲台から火花が散り、負けじと眼下のイギリス兵を蹴散らした。

「兵たちよ! 幸運はジャーンシーの頭上にあります! このわたしがいる限り、敵に女神が微笑むことはありません!」

 ラクシュミーの発した気迫に押されるように、周囲の兵は我に返った。

「撃てる砲手たちは並びなさい! この街を落とせず、焦っているのは向こうです! 落ち着いて、狙いを定めれば必ず仕留められます! 弾込め始め!」

 ラクシュミーが檄を飛ばす間に、男も女も入り交じって隊列を組み、銃を構える。

「撃て!」

 号令と共に発砲音がして鉛弾が放たれる。沸き上がる悲鳴と檄。反撃の合図がかかかるや否や、イギリスの砲手に討ち取られ倒れる仲間の姿が目に入っても、淡々と砲撃を繰り返す。

 毎日のように隣の誰かや、親しい誰かが欠けていくことに、心動かされていたのは最初だけだ。立ち止まっていれば、次に欠けるのは自分だ。

 ラクシュミーは外壁をあちこちに移動しながら、日が南中するのを今か今かと待ち続けた。昼まで耐えれば命は繋がる。細い命脈だが、尽きるまでは諦めはしない。

「ラクシュミー様!」

 自身も夢中になって銃を撃っていたら、背後からヴィクラムの声がかかった。

「ベートワ河方向から軍勢が! 数はおよそ二万、イギリス軍の後背を突いています!」

「どこの軍勢ですか!?」

「不明です! 装備もばらばらです!」

 報告に来た兵の先導で東側の外壁まで移動すると、眼下では乱戦が繰り広げられていた。街門の前にいるのはインド人のひとかたまり。

 スィパーヒーの制服をまとい、銃剣を持った者がいれば、野良着姿で鋤や鍬を武器にしている者がいる。統制の取れた集団には見えなかった。が――

「ジャーンシー城へ進め! 王妃をお守りしろ!」

 戦場にもよく響く檄は、集団の先頭をゆく馬上の戦士のものだ。戦士は兵を蹴散らしながら気勢を上げ、剣を掲げる。彼が集団の頭であろう。周囲のおう、と呼応する声に壁上からも歓声が沸いた。

 ラクシュミーはあの戦士の声に聞き覚えがあった。壁上の兵が窘めるのも聞かず、彼女は姿を確かめようと身を乗り出した。

 男は馬を器用に操り、凄まじい剣さばきで敵兵を寄せつけなかった。みるみる間に街門まで近づいてくる。

 ラクシュミーは予想通りの男の顔を確認して、ぱっと微笑んだ。

「天佑です! 彼らはラクシュミー女神のもたらした勝機、我々の仲間です! 彼らを助けなさい!」

 ラクシュミーの命に力を得たジャーンシー兵は、突如現れた謎の軍を擁護して発砲する。後ろを取られたイギリス兵たちが前方からも攻め立てられ、慌てて撤退してゆく。

 敵を追い払った壁上の兵たちは、敵軍の敗走に喜色を見せ、勝ち鬨を上げた。

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