23. 正しい義務

 攻撃を中止して待つこと四日。とうとう降伏を認めたイギリス軍が、塹壕から列を成して出てきた。そこにあるのは長い籠城にやつれ、うなだれた人々の姿だった。彼らの顔には敵に屈した悔しさと、不安とが滲んでいた。

 出てきたイギリス人は軍人と女子供含めて凡そ三百。当初潜んでいた人数の三分の一にまで減じていた。

 ナーナーはタートヤ・トーペーにイギリス人捕虜をサティーチャウラー・ガートまで送るよう命じた。女子供や病人には荷車や駕籠まで用意し、兵たちに武器の携帯すら許した。

 ナーナーの高配には捕虜も警戒を緩め、タートヤもそっと胸を撫で下ろしていた。イギリス憎しのあまり、己の教え子が過ぎた行いをするのではないか、と内心冷や冷やしていたのだ。

 ナーナーの胸の内は、最早タートヤには分からなくなっていた。マラーターの諸侯をまとめ上げ、イギリスから民を守るという目的を達するのは、宰相の養子たるナーナーの義務だと説いてきた。

 だが、彼の中にある怒りや憎しみが消えたようには見えない。今のナーナーが宰相に返り咲いたところで、良い統治者になれるかどうか……。

 タートヤは雑念を払うように首を振った。もしナーナーがが義務を見誤っているのなら、彼を正しい方向に導くのはタートヤの役目だ。

 タートヤは捕虜を取り囲むように兵を配置し、慎重にガートに続く森の中を歩んだ。湿気が濃く、淀んでいてただ歩を進めるだけで汗が吹き出た。

 やがてたどり着いたガートには、既に四十隻の船が用意されており、アズィームッラー・ハーンの手際の良さに、タートヤは感心した。ナーナーとはまた違った意味で、何を考えているのか掴めぬ男だが、有能であることには違いない。

 捕虜たちを幾つかの組に分けて乗せ終えると、タートヤは船頭の男によろしく頼む、と声をかけた。船頭は無言で頭を下げ、漕ぎ始める。

 この時期、ガンジスの水量は少ない。船底が堆積した泥に捕まっているのか、なかなか思うように進まない。船が岸を離れ、ようやく川の流れを捕まえたところで、タートヤの眼前で信じられぬことが起きた。

 背後からラッパの音が響き渡るや否や、船頭たちが一斉に川の中へ飛び込んだのである。間髪を容れず、兵が銃を構えて撃ち始めたので、タートヤは仰天した。

「お前たち、何をしている! 砲撃をやめよ!」

 だが、兵たちはタートヤの制止をものともせず攻撃を加えた。船上のイギリス兵もすぐさま応戦する。

「タートヤ・トーペー殿、何故止めるのです?」

 静かな声はすぐ隣から聞こえた。いつの間に現れたのか、そこにはアズィームッラー・ハーンの端正な顔立ちがあって、タートヤはぞっとした。自軍が降伏の約定を違えているというのに、この冷静さは何だ。

「我々は彼らにアラハバードまで無事に送り届けると約したのだぞ!? こんなもの……正しい義務とは言えぬ!」

「あいにくと」

 アズィームッラーは、すうっと微笑んだ。こんなに怖気の走る美しい笑顔を、タートヤはこれまで見たことがなかった。

「わたしはムスリムですので、ヒンドゥー導師の説法は理解できぬのです」

「信じる神が別であろうが、この行いが良からぬことくらい、お主にも分かるだろう!」

 タートヤが睨みつけると、アズィームッラーはふっと背後の騎馬兵ソワールに視線を向け、手を掲げる。それを合図に彼らはおお、と吠えて剣を掲げ、川の中に馬ごと身を踊らせた。

「アズィームッラー・ハーン! これはお主の一存か!?」

 剣の柄に手をかけたタートヤに、青年はふと顔を引き締めた。

「神の道のために奮闘することに努めよ――この聖戦ジハード我々ムスリムの使命。タートヤ・トーペー殿の言う『義務ダルマ』と同じです」

 そう言い切ると、馬を引いてくるように部下に命じた。

「ご安心ください。女子供には危害を加えぬと、ナーナー様にはお約束しております」

「ナーナー様は……このことをご存じなのか?」

「兵さえいなければカーンプルの占拠は容易い。女子供はこれからやってくる軍勢への交渉に使える。そうご提案し、了解を頂きました。手筈を整えたのはわたしです」

 アズィームッラーはあっさりと告白した。タートヤは顔を顰め、激しく首を振った。小者が差し出してきた手綱を乱暴に奪い取り、素早く馬に跨がった。

「タートヤ・トーペー殿」

 馬首を返しサヴァダ邸に向かおうとしたタートヤを、アズィームッラーが引き留めた。

「この戦いに、正しさなど存在しますか?」

 青年の問いにタートヤは虚を突かれた。答えに逡巡し――逡巡した己に腹を立てた。

「当然だ!」

 タートヤが言い捨てると一路サヴァダ邸に向かった。だが、そこにナーナーの姿はなく、スィパーヒーの二連隊が駐屯していた。血相を変えて戻ってきたタートヤを見て、ただならぬものを感じたのか、兵たちがざわついた。

「ナーナー様はいずこにいらっしゃる!?」

 乱暴な問いかけに、兵がびくりと肩を震わせて敬礼した。

「軍を引き連れ、カーンプルの占拠に向かわれました」

 そうか、と礼もろくに告げず、タートヤはその足でカーンプルまで駆け抜けた。

 街に入ると、スィパーヒーらは街の南側、即ちこれまでイギリス軍が拠点としていた塹壕の内を検分しているところだった。ナーナーの居場所を尋ねると、公館ではないかという答えを得、急ぎ向かった。

 公館を取り囲むように哨戒する兵に馬を預け、早足でナーナーの元に向かった。

 作戦室としていた広間に到ると、絨毯に座り込んだナーナーを見つけた。数人の男と地図を広げて相談していたが、ずかずかと踏み込むタートヤに気づくと、首を傾げた。

「どうした、タートヤ・トーペー。ずいぶん急いた様子だが……護送の任は終えたのか?」

「ナーナー様、お人払いを願えますか」

 師の、低めた声に滲んだ怒りを感じ取ったのか、ナーナーは素直に応じた。作戦室に二人きりになると、しんと沈黙が落ちた。

「何故、約束を反故にした」

「連中の流儀を真似たまでだ」

 ナーナーの返答は明瞭だった。

「先に言を違え、無茶な法で以て己の行為を正当化したのは、総督府だ。因果が巡って災い降っただけのこと。タートヤが目くじらを立てるほどのことではない」

 それに、と何事もないようにナーナーは続ける。

「人質を返した、だからおれたちに情けをかけよう、などと考える連中でないことはタートヤも知っているだろう。人質があれば多少は攻撃の手が鈍るだろうし、交渉の材料にもなる。おれは間違ったことを言ってるか?」

 タートヤは言い返せず、黙り込んだ。

「導師のお前にとっては、戦場ですら魂の修練場なのだろうな」

 ナーナーが、ため息と共に呟いた。

「立派だよ。……でも、おれはアルジュナにはなれん」

「ナーナー様、そのようなことは」

 言い差したタートヤを無視して、ナーナーは命じた。

「タートヤ・トーペー、近い内にアラハバードからカーンプル攻略の軍が差し向けられるだろう。貴君はファテープルに向かい、人質を返して欲しくば後退するよう告げろ。聞き入れない場合は叩け」

 タートヤは承服するかしまいかを迷ったが、結局は折れた。

 導師として、まだできることはあるはずだ。そう言い聞かせながらナーナーにプラーナムの礼を取った。


* * * 


 六月末、カーンプル占拠に成功したにナーナー・ゴーヴィントは、マラーター宰相の復権を宣言した。

 新宰相の命を受けたタートヤ・トーペー軍は、カーンプル奪還にやってきたヘンリー・ハヴロック少将率いる会社軍に交渉を持ちかけたが決裂。

 七月十二日、ファテープルで両軍は衝突し、ハヴロック軍が勝利を収めた。

 会社軍のアラハバードの後退はないと知ったナーナー・ゴーヴィントは、更に軍を送ったが、めぼしい戦果は得られず、七月十六日にはハヴロック軍のカーンプル到達を許した。

 ハヴロック少将はカーンプルに着くなり、人質救出を急いだ。彼らが向かったのは、人質が閉じこめられていたとされる別邸ビビ・ガルだ。

 そこでハヴロックらを迎えたのは、凄惨な殺害現場だった。

 辺り一面が血に染まり、木という木に引っかけられた長い髪は、恐らく女性のもの。破れたドレスやシャツの端切れと共に、風にゆらゆらと靡いていた。改めて地に目を向ければ、腸と思しきものがうねり、原型の止めぬ臓器がそこら中にぶちまけられていた。

「……なんということだ」

 あまりの衝撃に、ハヴロックはそれきり続く言葉を失った。

 二十年ほど前まで、カーリー女神を信奉するサグという集団がいた。彼らは人間を女神に捧げる供物としており、年に一人以上の殺人を宗教上の義務と定めていた狂信者の集まりだった。

 総督府はこの非人道的な行為に難色を示し、サグは会社軍によって掃討されたが、その彼らでもここまで残酷なことはしなかった。

 凝った血臭と、悪魔の如き執念に吐き気を覚えながら、ハヴロックは生存者の捜索に全力を挙げた。

 ビビ・ガルの中庭の井戸には子供の遺体が複数打ち捨てられ、近くのサティーチャウラー・ガートには切断された四肢が撒かれ、ガンジスの川も赤く染まっていた――部下のもたらす数々の報告は、現状のおぞましさを浮き彫りにするだけだった。

「……蛮族め!」

 吐き捨てたハヴロックの目には、憎悪が宿っていた。

「ナーナー・ゴーヴィントを決して逃がすな! 絞首台など生温い、捕まえて切り刻んでやる!」

 ハヴロック少将の怒りは、そのまま部下たちの思いでもあった。少将の命の下、カーンプル陥落させ、ビトゥールまで攻め上がるとナーナー・ゴーヴィントの宮殿からあらゆる物資を取り上げた上で、火を放った。

 反乱軍はハヴロック軍の気迫の前に崩れ去り、散り散りになったが、首魁のナーナー・ゴーヴィント、彼の右腕タートヤ・トーペー、アズィームッラー・ハーンらを捕らえることはできなかった。

 スィパーヒーは見つけ次第捕らえ、ヒンドゥーであれば牛を、ムスリムであれば豚を食わせた。その際には低カーストの掃除人の手を借り、ブラフマンの誇りを汚すことも忘れなかった。

 さらには近隣住民がナーナーらを匿っているのではないかと疑い、またこの虐殺を見て見ぬ振りをしたという理由で、住民に暴力を振るい、家屋に火をかけたのだった。

 カーンプル平定を決定づけたのは十一月のこと。

 ナーナー・ゴーヴィントの命を受けたのか、タートヤ・トーペーが反乱軍を率いてカーンプル奪還に励んだが、会社軍に破れ、敗走。

 それ以降、ナーナー・ゴーヴィント一行の足取りは、ようとして知れなかった。

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