24. ローズ少将

「ハーヴェイ、君に頼みたいことがある」

 一八五七年の十一月。ハミルトンに呼び出されたリアムは、続けられた言葉に目を瞠った。

「中央インド野戦部隊率いる、ヒュー・ローズ少将の麾下に入ってもらいたい」

 ローズがボンベイに到着したのは九月。その頃には、デリーの赤城レッド・フォートの攻略自体は既に完了していた。

 皇帝バハードゥル・シャー二世帝は最後、最愛の王妃や息子さえも連れず、一人で城を抜け出し、フマーユーン廟で身柄を押さえられた。この時点で、ムガル帝国は事実上の終焉を迎えていた。

 デリーを拠点に反撃を開始した会社軍は、次々と占拠された基地を奪還していたが、地方では小規模の反乱を含めて、まだまだ活発な動きを見せている。特に、つい先日終結したカーンプルの戦は陰惨を極め、会社全体を震撼させた。

 虐殺を指示したと見られるナーナー・ゴーヴィントは、メーラトの蜂起に端を発する一連の反乱全てを計画した首謀者と比定され、総督府は彼の捕縛に心血を注いでいる。

 ナーナー・ゴーヴィントはカーンプルを放棄した後、タートヤ・トーぺーと共にあちこち流転しては反乱軍を組織し、潰されてもまたどこからどもなく現れるという、ゲリラ戦を展開していた。

 そしてもう一カ所、反乱勢力の中で異彩を放っているのが、ジャーンシーだった。ここでもスィパーヒーの蜂起はあったが、彼らはデリーへ去ってしまい、代わりに王妃を中心とした堅固な地盤を築かれていた。

 十月には近隣のオルチャ軍を下し、政敵である従兄ナラヤン・ラーオと、彼を庇護していたダチア軍をも撃破していた。

 イギリス軍に破れ、各地で散り散りになっていた反乱勢力は、自然とナーナー・ゴーヴィントかラクシュミー・バーイー、いずれかの下に集まり始めていた。

 総督府はローズ少将に、反乱軍の指導者を捕縛し、直ちに中央インドの平定するよう命じた。

 そのローズ少将は現在、インドールに近いムホウに駐留中だという。ジャーンシー攻略に先駆けて、周辺地理に明るい通訳を寄越すようハミルトンに依頼した。そこで白羽の矢が立ったのがリアムだ。

 ジャーンシー王妃はスィパーヒーを扇動して駐在弁務官レジデントを殺害、その報酬としてスィパーヒーに金品を与えて追い払うと、そのまま領地をかすめ取って王位を復権させた――と、総督府は判断している。だが、ジャーンシー併合後のラクシュミーの行動と、彼女の人となりをそばで感じたことのあるリアムには、違和感しかない。

「エリス大佐のほうがジャーンシー勤務が長く、精通していらっしゃいます。私ではローズ閣下のお役に立てるかどうか……」

 ジャーンシーへ行けるものなら行きたい。前のめりになる気持ちを抑え、探りを入れた。

 ローズの要求を満たすのは、どう考えても十年以上ジャーンシー統治を任されていたエリスのほうが妥当だ。あえてリアムを選ぶ理由はない。

「エリスはミルザプールでな、今から呼んでは行軍が遅れるだけだ。ジャーンシーの反乱は速やかに鎮圧せねばならん」

 ミルザプールはベンガル管区にある町で、フォート・ウィリアムのお膝元だ。インドールとは真反対に位置し、しかも今は北インド一帯が反乱の爪痕を残しており、南部に迂回して移動するより他ない。

 エリスの転属先を知ったのは今が初めてだったが、少なくとも不安定な戦地ではないことに、安堵を覚えた。

「ハーヴェイは王妃と親交があったであろう。もしできるのであれば、降伏を呼びかけてもらいたい」

 内心ため息を吐く。総督府も意地が悪い。この局面において、過去の清算を求めてくるとは。

(もし王妃を説得できれば出世は確実、なのだろうな)

 リアムは浮かびそうになった嘲笑を堪え、頭を下げた。

「畏まりました。微力ながらご協力いたします」

 再び顔を上げた時には皮肉はさっぱり消して、にこりと微笑んで引き受けた。リアムは早速、ローズ将軍の援軍として送られるベンガルの騎兵隊に随行し、インドールを離れた。

 反乱はベンガル管区や北中部にかけて広がっていたが、南のボンベイ、マドラスは比較的穏やかだ。同じスィパーヒーでありながら、こちらは白人士官に従順だった。

 リアムのジャケットの内側には、護身用のカービン銃が忍ばせてある。その重さはそのまま、反乱鎮圧の第一線に送られた重責となってのしかかってくる。

 下級社員のリアムに戦場の経験はないが、不測の事態に備えるべきだと理解はできる。銃の扱いを知っていても、実際に人を撃てるかには自信がなかった。

 ハミルトンは、あくまでもインド中央部の地理の空白を補うことが任務で、リアムが戦場に立つことはないと強調していたが、それを丸呑みにして安心できるほど、リアムは楽天家ではない。

 こうして根強く続く反乱を見ていると、これまでリアムが信じていたものが正しかったのかどうか、分からなくなってくる。

 本国と同じように法律を定め、教育や医療を施し、鉄道を敷いてきたのは、この国を文明国たらしめるのに必要であり、彼らはこれを享受することによって、幸福がもたらされる――はずだった。

 実際にはイギリスの持ち込んだものが、インドの中に亀裂を生んでいる。綿工業だけを取ってもそうだ。最初、インド綿はイギリスの最も欲した交易品だったのに、今は工業化したイギリス綿をインドが買う。そのせいで廃業した職人達が路頭に迷うこともしばしばだった。

 インドの工業化も進んで雇用が増える一方、農地を耕す手を失い、荒れた土地を手放す一家があり、息子をスィパーヒーに差し出して延命を図る一家がある。そのスィパーヒーが、イギリスの尖兵となって自らの国の命を縮める矛盾。それを断ち切るほうが、よほどインドのためではないのか。

(……矛盾しているのは私も同じだな)

 誓約社員の一人にすぎないリアムが国家天下を見渡し、一法人に過ぎない東インド会社が広大なインドを御すべく鎮座している。

 今まで上手く回っていたかに見えた歯車は歪な上、百年の年月で既に錆び、腐り落ちるのを待つばかりだ。

(あの王妃に会って、何を言えばいい?)

 ラクシュミー自身の行いがイギリスを刺激していることなど、彼女は百も承知だろう。それでもなお、屈することなく反抗を続けている。

 今更、言葉での説得など通用するか分からないが、リアムが行けば、多少は考慮してくれるかもしれない――というのは自惚れだろうか。

 深くため息をついて、前髪をくしゃりと握った。忙しさにかまかけて、近頃散髪をしていない。やや癖のある金髪が視界の邪魔をするのを払いのけ、彩度の強いインドの空を睨みつけた。

 年が明けて一月末、リアムはムホウに到着した。早速、ローズの兵舎を訪ねると、彼は勲章を幾つもぶら下げた立派な軍装で現れた。

「今日も暑いな」

 初対面のヒュー・ローズ少将は、挨拶よりも先に、空を見上げて顔をしかめた。

「想像以上だ。君は平気なのかね?」

 六十近くの老齢に加えて、細身で長身のローズに、武張った気配は感じられなかった。

 切れ長のアイスブルーの瞳は、皺に埋もれていてもしっかりと光を宿し、積年の深みを湛えている。少将という地位にありながら、気さくさすら覚えることにリアムは戸惑った。

「平気ではありませんが、慣れてはいます。インドの夏はこれからが本番です」

 答えると、ローズは眉根を寄せ、やれやれと息を吐いた。閉口したくなる気持ちは分かる。リアムが初めてインドに来たのは五月だったが、同じ事を言われた時には目眩がしたことを覚えている。

「君がハミルトン卿の寄越した通訳だね?」

「はい。ハーヴェイと申します。閣下のお役に立てれば幸いです」

「では早速だが、地図はないのか? 本社役員会の提示した地図では全く役に立たん。総督府で独自に測量を行ってはおらんのか?」

 ローズが兵舎を出よう、と合図し、さっさと歩き出すのにリアムも合わせる。と、すっとローズのかたわらにつき添う青年と目が合った。

 綺麗に整えた金髪に、グレイッシュブルーの瞳をした優しげな面差しの彼は、ローズの副官でリスター中尉と名乗った。彼もまたも軍人というより音楽家か詩人のようだ。年の頃は、リアムと同じく二十代後半だろうか。リスターは目で会釈をし、リアムも返礼した。

「灌漑施設や鉄道を作る際には行っていますが、インド全土を網羅してはおりません」

 念のために持ってきた地図はフォート・ウィリアムではお馴染みのものだったが、さっと開いて一瞥するなりローズは唸った。

「総督府は戦を知らんらしい」

 ローズが地図を折り畳み、無造作に隣を歩く副官に差し出す。

「これはお預かり致します」

 地図はリスターが素早く受け取って、リアムに向かって愛想良く微笑んだ。

 二人ともに立ち振る舞いにどこか品の良さが漂い、これから血生臭い戦が始まるのだとは到底思えない。どこかの藩王の招待で晩餐会に出席するのだ、と聞いたほうがよほどしっくりくる。

 ローズ軍は昨年九月、兵を率いてボンベイを出立し、周辺藩王軍を鎮圧しながら十二月末にはムホウに到着していた。マドラスからの援軍と糧食を待つため、いましばらく待機する予定だという。

 テントを張っただけの簡易な本陣に入ると、そこには外観とは不似合いなビロードの椅子と大きなマホガニーの机がある。リスターはローズの指示を待つまでもなく、机上に地図を広げた。

 インド中央部を拡大したものだが、主要な街道といくつか地名が書き込まれているだけで、確かに全容を把握しているとは言い難い。

「地形はおろか街道すら示されておらん。ハーヴェイ、ここからジャーンシーへのルートはどこになる?」

「ナルフート峠か、マダンプール峠のどちらかになります」

「マダンプール峠にはシャグールの領主がいると聞いたが」

「ナルフート峠のほうが勾配がきつく、石を詰んで街道を塞いでいると道中で聞き及びました。行軍するのであれば、マダンプールのほうが負担が少ないかと」

 かつてエリスと話したことが、こんな形で役に立つとは思わなかった。この土地の地理を知るのは、あくまでジャーンシー統治に必要だっただけで、戦のためではない。ましてや、彼女の守る場所に攻め入るのに用いることになるとは。

「なるほどな。ジャーンシーに至るまでにも障害は多そうだ。特にこの暑さに兵たちが耐えられるか……」

「五月以降は厳しいでしょう」

 リアムがつけ加えると、ローズは分かった、と簡潔に答えた。

「短期で決着をつけるしかない、というわけだ」

 難しい顔で呟くと、リスターにいくつか指示を飛ばし、了承した青年はテントを出て行った。

「ところでジャーンシー王妃はいかなる人物かね?」

 尋ねながら、ローズは葉巻を取り出し、火をつけた。

「名はラクシュミー、年は二十三。ヴァラーナシーで生まれ、十五でジャーンシーに嫁ぐまではビトゥールにおりました。ジャーンシーで八年あまり過ごしたことなります」

「ほう。その若さでジャーンシーをまとめ上げ、近隣領主との戦に勝っていると……誰ぞ有望な参謀でもいるのか」

 リアムは眉根を寄せる。己の任期中にはジャーンシー兵の働きぶりを見る機会はなかった。

 ラクシュミーは馬や剣の扱いに長けていたが、軍を指揮する能力があるのかは未知数だ。宰相ラクスマン・ラーオや夫のガンカーダル・ラーオに戦の才があったとも聞かない。

 リアムが首を振ると、ローズは紫煙を吐き出す。

「まあ、女の身で男どもを難なく従える力量があるかは疑わしい。寡婦となってなお、夫と国に尽くす美しい王妃、という肩書きに踊らされておるだけかもしれん」

「新たにラージプート族やパシュトーン人の傭兵が増えたと聞きます。中には知略に長けた将がいるのかもしれません」

 リアムはローズにそうつけ加えながら、ラクシュミーが軍を指揮している姿を想像してみる。――案外はまっているように思えた。

 だが、彼女自身が率いているより、反乱中に頼りになる腹心を従えたと考えたほうが自然だ。ローズは無言で髭をしごき、リアムを見上げた。

「いずれにしろ一筋縄ではゆかぬ相手だ。下手をすればデリーの皇帝より人心を掴むのが上手い王妃のようだからな」

 リアムをじっと見据えてのローズの台詞に、見透かされたような気がしたが、ここで目を逸らしても不自然だ。

「貴君は王妃と昵懇だったか?」

「宮殿と公館の関係は良好でした」

 ローズがどこまでリアムの事を知っているか定かでないが、ラクシュミーと共に総督府に嘆願したと伝える必要はない。

 再度、ローズはなるほどな、と頷いたが、何を納得したのかは問わないほうが無難だろう。

「閣下」

 涼やかな声と共にテントに戻ってきたリスターが、先ほどまでの穏やかさを打ち消して呼びかけた。

「斥候が戻って参りました」

「手回しの良いことだ」

「ローズ閣下は性急なお方ですから」

 リスターはその目に悪戯っぽい光を宿したが、一瞬だけだった。すぐさま厳しい表情に戻る。

「ナルフート峠はハーヴェイ殿の仰るとおり、街道が塞がれております。一方、マンダプール峠には、反乱軍と見られる軍勢が集まりつつあります」

 リスターの報告にも、ローズは泰然としていた。

「行軍の準備だ。将軍たちを呼んでくれ」

 畏まりました、とリスターが敬礼して出て行くのを見やってから、ローズはリアムに笑いかけた。

「これからしばらくの間、貴君には負担をかけるが、よろしく頼む」

 差し出されたローズの手を、リアムは握る。分厚く力強い掌だった。


 その直後、ローズは軍勢を二つに分けて敵を攪乱しつつ、マンダプール峠のルートを辿ることを決定した。

 峠にはジャーンシーに至る前に、ローズ軍を叩き潰さんとする反乱軍が待ち構えていた。

 彼らがが地の利を生かした、変幻自在かつ多彩な攻勢を見せる一方で、ローズ将軍は堅実な戦を展開した。地形を考慮し、守りを重視した布陣で無茶な突撃はしない。その反面、武器をこちらに差し向ける者全てを反乱軍とみなし、斟酌しない苛烈さも持ち合わせていた。

 リアムの説明だけで、ローズの頭の中には戦場の景色が鮮明に見えているのか、先制攻撃を受けても慌てず騒がず即座に対応し、要所を押さえていく。

 まるで怜悧なチェスゲームを見ているようだった。部下たちの日頃の鍛錬、ローズの命に忠実であれば勝てるという信念、そしてエンフィールド銃が彼らに功績をもたらしていた。

 新たな銃の威力はリアムの予想を上回るもので、全く敵を寄せつけない。ローズの側で戦況を聞くにつれ、すさまじさに感心するよりも、寒気を覚えた。

 千五百の小勢ながら、バンプール、タルベハート、ラスガール、サーガル、ガーハコタといった町や砦を次々と平定していったローズ軍だったが、慣れぬ炎天下での連戦で、徐々に精彩を欠いていった。

 日射病で脱落する兵は多く、水の確保が困難なことがそれに拍車をかけた。圧倒的に不利だ、と考えられていたローズのジャーンシー攻略はしかし、兵の脱落を除けば恐ろしく順調であった。

 彼の率いる千五百の軍勢は、三月十日にはジャーンシーの南東約十三マイルの地点まで迫っていた。

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