21. ラー二ー・マハルの女たち
そんな折、「ラクシュミー様!」と明るい声でやってきた人々の姿を見て、ラクシュミーは束の間、安堵を覚えた。
タラを初めとした
二十名全員が色鮮やかなサリー姿に鉄砲を抱えており、ちぐはぐながらも勇ましい様子だった。皆の凛々しい顔を見て、ラクシュミーは口元を綻ばせた。
「街は大変な騒ぎです。宮殿にいるよりお城のほうが安全だと思いまして、皆で参りました」
告げたノウラの顔は青ざめていたが、ダーモーダルをしっかりと抱き上げ、落ち着いた様子だった。当のダーモーダルは常ならぬ雰囲気に飲まれ、顔を強ばらせてノウラにしがみついている。
「城の奥にいれば安全よ。ノウラ、ダーモーダルのこと、お願い」
はい、と返答するノウラの手を握り、ダーモーダルを抱きしめる。二人が謁見の間から出て行くのを見送ってから、居並ぶ女たちに向き直った。
「みんなが来てくれると、私も心強いわ」
彼女たちに仕込んだのは馬術だけではない。砲術も同様だ。これを隠蔽するのに、イギリス人将校にはかなり袖の下を渡したが、そこらの兵にも引けを取らない精鋭を育てられたのだから安いものだ。
ただでさえ少ない兵をラクシュミーのためだけに割くのは忍びない上、女兵士の数は限られていた。ならば自分で作ろう、という安易な思いつきで始めことだが、意外なことにタラたちは嫌がらなかった。
当然、タラは反対するだろうと高を括っていたラクスマン・ラーオが、顔を青くして引き留めた。それに対して、タラは昂然と胸を張った。
「イギリスの寄越す兵など信じられますか。それならば、私どもで王妃殿下をお守りします」
一方的にジャーンシー併合の宣告を受けて以降、彼女達はどこか吹っ切れたらしい。勇ましいタラたちを見ていると、不意に涙がこぼれそうになった。まさか、彼女たちがここまで信頼できる仲間になるなど、数年前のラクシュミーは全く想像もしていなかった。
「スィパーヒーたちは城に向かっているようです。王妃の庇護を求めるためでしょう」
ジェルカリーが冷静に告げ、ラクシュミーは頷く。
「王妃殿下! スター砦が襲われました!」
伝令兵が謁見の間までもたらした報に、ざわめきが起きた。スター砦はジャーンシーの火薬庫だ。大量の火薬と共に宝石類も納められている。
「スィパーヒーらはナラヤン・ラーオの名を叫んでおります!」
伝令兵が続けた報告に、再度謁見の間がざわついた。
「痴れ者め。この期に及んで、まだジャーンシーを狙うか!」
ラクシュミーよりも先に、タラが憤慨して叫んだ。
夫の死後、ダーモーダルの養子縁組は不当だ、と訴えていたナラヤン・ラーオは私兵を率いて戦を起こそうとした。その時は、彼の私兵に取引を持ちかけ、ラクシュミーの傭兵にした。
兵を奪われたナラヤン・ラーオは、ラクシュミーの元に飛んできて謝罪し、二度と事を起こさぬと誓った。神妙な彼の言葉と態度、何より夫の従弟ということで温情をかけたのだが、それが仇となってしまった。
ナラヤン・ラーオはスィパーヒーたちの主になり、ラクシュミーをジャーンシーの主の座から引きずり下ろそうと画策したのだろう。それが成功した暁には王宮の財宝の一部を譲ろう、くらいのことは約束したかもしれない。
「それと、スィパーヒーらがガネーシュ門の大砲を奪い、イギリス人を庇護していた砦を破壊、全員殺害した模様です」
全員、と呆然とラクシュミーは繰り返した。イギリス人は女子供を含めて六十名いた。その全員が殺されたというのか。
「……ひとりも生きてはいないの?」
ラクシュミーの静かな下問に、伝令は身を縮めた。
「……恐らくは。連中が暴れていて近寄れず、詳しい人数は未確認です」
躊躇いがちな返答に、ラクシュミーは肩を落とした。あの砦の中にはジャーンシー
伝令に労いの言葉をかけ、また状況に変化があれば知らせるように、と言い添えると、伝令は畏まって拝命した。
ラクシュミーはこめかみを押さえた。状況は最悪だ。イギリス軍の駐屯地サーガルにいるアースキン大佐宛に、弁明の手紙を送らねばなるまい。
ラクシュミーが女たちに指示を下そうと口を開いたとき、新たな伝令が飛び込んできた。
「ラクシュミー様、城壁にスィパーヒー共が集まっております!」
悲鳴のような報告を受けて、ラクシュミーは弾かれたように立ち上がり、急いで城の露台に向かう。女たちも武器を携えて続き、共に城下の様子を探った。
ジャーンシー城の麓には悲鳴と喧噪に溢れていた。ラクシュミーの街を無惨に踏み潰すけたたましい足音と剣戟に、息を飲む。
スィパーヒーらは「正義をなせ!」「信仰を守れ!」「王妃はどこだ! 王妃を出せ!」と大音声で呼ばわっていた。
「なんて無礼な連中なのでしょう。ここはネワルカー家の城ですよ!」
不快を露わにするタラを遮って、ラクシュミーは伝令を振り向いた。
「代表者を連れてきなさい。彼らの要求を聞きましょう」
「ラクシュミー様、正気ですか!?」
「このままでは市民の命が危ないわ。要求を聞く代わりに略奪を止めるよう伝えなさい」
伝令がラクシュミーの伝言を携えて城下へと向かった。
やがて『彼ら』が、伝令に先導されて
遠慮のない足取りで踏み入ったスィパーヒーは三名。女たちがたむろしていることに驚き、ひそひそと囁き合った。部屋の最奥、ラクシュミーの座する玉座が見えぬわけでもないだろうに、彼らは不遜にもただ立ち尽くすだけだ。
すかさず女たちが銃を構えるのを、ラクシュミーが制した。下手に刺激して交渉が頓挫してはかなわない。
ずい、と一歩踏み出してラクシュミーを見据えたのは、三名の内最も体格の良いスィパーヒーだった。整えた口髭といい、赤の上着に白いズボンという西洋風の軍服から醸し出る風格といい、この男が主格なのだろうと伺わせた。
「ジャーンシー王妃……若いと聞いていたが、本当だったのか」
男は畏敬の念の感じられない目で、ラクシュミーを上から下まで眺め回す。ラクシュミーは男の視線に嫌悪を覚え、眦を釣り上げた。
好色な目を向けられるのは、イギリス軍の砦でも経験している。だが、その時はラクシュミーを王妃と認め、多少の遠慮が感じられた。
だが、この男の目つきはどうだ。娼婦を品定めするのと同じではないか。ラクシュミーを主として認める気は一切ないのだ。
(ナーナー、こんな連中を味方にしろというの?)
街では身勝手に振る舞い、ジャーンシーの民はもちろん、無抵抗のイギリス人の命を奪った。その上、ラクシュミーにもネワルカー王家にも侮蔑を隠さない彼らを、どうして自分の懐に入れられるだろう。
「その無礼な口利きは改めてもらいましょう。お前達が主と呼ぶナラヤン・ラーオは、正当な王ではありません。ジャーンシーの支配者はこのわたしです」
凛と言い放つラクシュミーの声が、謁見の間に涼しく響いた。男は鼻を鳴らして、態とらしく膝を突いた。
「これはこれは……失礼を致しました、ラクシュミー
「要求は何です」
「金と銃。後は兵士」
ラクシュミーの率直な問いに、男もまた簡潔に答えた。
「邪魔なイギリス人はもういない。ジャーンシーは王妃の手に戻った。これは我々の功績だ。褒美があって然るべき、だろう?」
不貞不貞しく言い放った男の顔に、唾を吐きかけたい気分だった。無慈悲に人の命をむしり取り、騙し討ちをするようなやり方を、どうしてこうも得意げに語れるのか。
過ぎた怒りのあまり、口元が震えた。罵倒が飛び出しそうになるのを堪えて、ラクシュミーは深く息を吸った。
「……お金はありません。銃もです。スター砦にあったのが全てです」
「おいおい」
男は、辛うじて取り繕っていた体裁すら捨て、呆れた調子でラクシュミーの傍に控えた女達を指さした。
「そいつらの持っているものは何だ?」
「ジャーンシーを守るのに、十丁で足りるとお思いですか? あなたがたがお持ちのものと違って古い型ですし、それに……実を言うと弾は入っていないのです」
ラクシュミーが肩をすくめると、男が小馬鹿にしたように笑った。
「王妃、そんな言葉で我々を騙せるとでも?」
男が立ち上がり、ずかずかと近寄ってくるのを制したが、無視された。男は銃を構えたジェルカリーに近づくと、乱暴に抱き寄せた。唖然とするジェルカリーに代わって、ラクシュミーが「やめなさい!」と一喝した。
「宮殿の女達に触れることは、万死に値しますよ」
睨みつけると、男はへらへらと笑った。こいつ、酒か阿片か分からないけど相当嗜んでいるんじゃないかしら。
ラクシュミーが眉根を寄せると「けちくせえな。減るもんじゃなし」と言いながら、ジェルカリーを突き飛ばす。その際ちゃっかり奪い取った銃を、ラクシュミーに向けた。
「これでも、同じことが言えますかねえ、王妃殿下?」
「ラクシュミー様になんてことを……!」
タラが掠れた悲鳴を挙げ、銃を構えるのが目に入ったが、ラクシュミーは三度制した。
突きつけられた銃口の、底知れぬ黒い穴は死と繋がっている。自然と脂汗が浮いてくるのが分かる。ラクシュミーは恐怖をねじ伏せ、婉然と微笑んで見せた。
「弾は、入っておりません。引き金を引いたところで無駄です」
両者のにらみ合いは永遠にも思えたが、先に折れたのは男のほうだった。
「……大した女だ。王妃でなければ俺の物にしてやったのに」
「こちらから願い下げよ。お前の物になるくらいだったら、イギリス人に身を売ったほうがましだわ。少なくとも、お前より遙かに紳士だもの」
ラクシュミーが吐き捨てると、男は笑った。銃を軽く振ってから、ラクシュミーの手に返す。
「確かに古いな。この十丁で、あんたに何ができる? 手を結んでおかなったことを後悔するといい」
男は退くぞ、と背後の部下に声をかけた。
「ジャーンシーはしけた国だ。スター砦のもんは残さず持って行け」
面倒臭そうに男が命じると、背を向けてさっさと歩き出す。それを合図に、ラクシュミーは立ち上がった。
銃床を肩に押し当て、素早く発砲の姿勢を取る。左肩にかかる衝撃に備えて歯を食いしばると、迷わず引き金を引いた。
ぱん、と乾いた音が響き、一瞬全てのものが止まった。弾は男の頭のかたわらぎりぎりを掠めて、入り口近くの壁にめり込んでいた。
「隊長!」金切り声を上げた部下を、男は「黙れ!」と怒鳴りつけた。
振り返った男の顔には、何とも言えない表情を浮かんでいた。
「ろくなおもてなしもできず、残念ですわ」
硝煙の立ち上る銃口を下ろし、ラクシュミーがにこりと微笑むと、男は両手を掲げた。呆れたようなため息だけ残して謁見の間を去った。
(流石に、死ぬかと思ったわ……)
スィパーヒーたちの気配が遠のくと、ラクシュミーは銃を胸に抱え込み、ぐったりと玉座に背を預けた。
「ラクシュミー様!」
横からジェルカリーにぎゅっと抱きしめられて、ラクシュミーは声を上げて笑った。
「本当に貴女はもう、無茶ばっかりで……こっちの命が幾つあっても足りませんわ!」
過ぎた恐怖か安堵でか、一度笑うとなかなか止まらなかった。ラクシュミーの笑いの波は、周囲の女たちにも伝播して、謁見の間には不似合いな軽やかな声が響き渡った。
「王妃殿下! スィパーヒーが乗り込んできたと……!?」
数分後、慌てた様子で謁見の間に転がり込んできたラクスマン・ラーオは、王妃やジェルカリー他若い娘たちに、タラまでもが加わって、笑いながら抱き合い、踊る姿を目撃し、ぽかんと口を開けた。
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