20. 焦燥

 六月が始まって間もなく、宮殿の自室で眠るラクシュミーの元にタラが一通の手紙をもたらした。

「手紙を寄越したのは何者です?」

「カーンプルのスィパーヒーを名乗りました。引き留めましたが、他のマラーター諸侯の元に赴くと言って、すぐに立ち去ったそうです」

 ラクスマン・ラーオがタラに王妃の判断を仰げと指示したという。ラクシュミーが手紙を開くと、そこにはジャーンシーの蜂起を促す文面があった。顔を強ばらせたラクシュミーを見て、タラが心配そうにのぞき込んできた。

「手紙には何と?」

「ジャーンシーに駐屯しているスィパーヒーに反乱の協力を取りつけているそうです。彼らを従えてジャーンシーを取り戻せ、と」

 事の重大さに気づいたタラは、きりりと目を釣り上げ、表情を引き締めた。

「いかがなさいます」

 問うた彼女は、歴戦の将のようだった。ラクシュミーは寝起きで鈍った頭を叩き起こす。

 基地で相次いで起こる反乱の主役は、会社軍の八割を占めるスィパーヒーである。総督府はまさか彼らが刃向かうなど、考えていなかったようだ。こんな密書が、容易くラクシュミーの手元に届くのだから。

 この混乱なら、ジャーンシーを取り戻せるかもしれない――と、芽生えた期待を抑えつける。結果を動機にしては行動してはならない、とクリシュナの言葉を唱えて逸る心を宥めた。

 手紙の送り主も計画の全容も不明な状態で、勝機があるかなど分かるはずもない。

(そもそも、カーンプルのスィパーヒーが、何故わたしの元に……?)

 呼びかける相手が同じスィパーヒーなら、理解できる。スィパーヒーはアワド出身が多く、同郷・同カーストという二重の結びつきが存在するからだ。だが彼らはあえて、ラクシュミーや他の旧マラーター諸侯を選んだ。

 手紙を睨みつけて黙り込んだラクシュミーを、タラは辛抱強く待っていた。

 ラクスマン・ラーオの報告を思い出す。街の辻でなされるイギリス滅亡の予言や、新聞に掲載された批判記事――イギリスの政策で職や土地を失った人間は多く、恨みの声が聞こえない日はない。

 だが、ある時期から突然数が増えた上に、敵愾心を煽るような言葉が並び、剣呑な空気に変わっていった。加えて、村や基地に配られた蓮の花。伝言の起点は確かカーンプルの周辺ではなかったか。

(もしかして……ナーナーが仕組んだの?)

 カーンプルは、ラクシュミーの故郷であり義兄の住まうビトゥールから半日とかからないところにある。

「……馬鹿じゃないの」

 思わず呟いたが、いや、とラクシュミーは首を振った。ナーナーが事を起こしたという証拠は何もない。確かに文面の手跡は似ているが、決め打つには早すぎる。

「明日、宰相と相談しましょう。決定はそれからでも遅くないわ」

 ラクシュミーはジャーンシーの主だが、主であれるのは宰相以下、ジャーンシーの役人や民のお陰でもある。ジャーンシーの命運に関わることを、ラクシュミーの一存で決めることはできない。タラは納得したように頷き、部屋を辞した。

 まんじりともせす翌朝を迎えたラクシュミーは、朝の祈りを終えてからタラとジェルカリーを伴って城に向かった。

 ラクスマン・ラーオに手紙の件で話があると告げると、すぐさま執務室に通される。ラクシュミーは前置きなしに、送り主が義兄のナーナーである可能性を告げた。

「ナーナー殿の手紙であれば、腑に落ちます。スィパーヒーらの動きは、何者かの意志を感じます。あえてデリーを指示したのは、皇帝を隠れ蓑にしようと考えておられるのでしょうか」

 ラクスマン・ラーオの顔には、ほのかな喜色が浮かんでいた。

「これは、好機かもしれませんぞ、ラクシュミー王妃殿下」

 手紙を握る手に力を込めるラクスマン・ラーオとは対照的に、タラ・バイは渋面を作った。

「もし、ナーナー殿の手紙通りに反乱が起こるとなると、大変なことですわ。ラクシュミー様がスィパーヒーを先導していると、公館から責められることは免れません」

 ラクシュミーは唇を噛む。問題はそこなのだ。

 リアムがそうであったように、ラクシュミーもあくまで法を武器に戦うつもりだ。リアムが去った後も別の弁護士を雇い、ロンドンの東インド会社役員会に訴状を送っている。芳しい返事は未だないが、望みを捨てるつもりはなかった。

 だが、この手紙の予言通りにスィパーヒーが反乱を起こせば、ラクシュミーが首謀者とされ、ジャーンシーは否応なしに剣を取る羽目になる。

 ラクシュミーは一度息を吸い、一晩考えた結果を宰相に告げる。

「わたしは、この手紙に従うべきではないと思います」

「ラクシュミー殿下! 事が起きてからスィパーヒーとの繋がりを否定したところで、イギリスからの責任追及を免れることはできませんぞ。ならば、ナーナー殿と共に闘うべきでありましょう!」

「いいえ。刃を交えることはわたしが許しません」

 ラクシュミーのきっぱりとした物言いに、執務室はしんと静まりかえった。

「ジャーンシーを取り戻すためならば、わたしは剣を取ることを厭いません。訴状が通らず、戦になるとしても、今はその時ではないわ。何の備えもなく勝てる相手ではないと、皆分かっているでしょう?」

 ジャーンシー砦と、イギリス軍の駐留地にある大砲の性能の差は明らかだった。コックス大尉が得意げに語る裏には、逆らったら只では済まないと脅す色があった。

「反乱が起きた時、城が無事で済む保証はない。わたしとジャーンシーに殉じることを良しとしないのなら、イギリスに庇護を求めるか、今すぐジャーンシーを去りなさい」

 ラクシュミーは信頼している二人の顔を見つめた。驚愕や困惑、不安が綯い交ぜになった顔が、彼らの複雑な心情を物語っている。それを具に眺めてから、ふと唇を綻ばせた。

「わたしに、あなたがたの命を預けてくださいますか」

 反論は挙がらなかった。たとえ、彼らの胸の内に叛意が秘められていたとしても、この王妃の前に晒すことは叶わなかっただろう。

 目の前に座る彼女はただの女性ではなく、使命を帯びて降りてきた女神に違いない――ラクシュミーの泰然たる様は、そう錯覚させるに十分だった。

 二人は神妙な面もちでラクシュミーの足に触れ、プラーナムの礼をする。彼らの無言の肯定に、ラクシュミーは謝辞を述べた。

 剣戟の気配がジャーンシーを包み、押し潰そうとしている。肌を焦がすような緊張感に抗いながら、己の義務を貫くことが王妃としての役目だ、とラクシュミーは胸に刻んだ。

 その覚悟が問われる時はすぐにやってきた。ジャーンシー基地のスィパーヒーが蜂起した、とラクスマン・ラーオがラクシュミーの元にやってきたのは件の手紙に記してあった通り、六月四日のことだ。

 インド人連隊約三十名が、「正義ディーン! 正義ディーン!」と声を発しながら、目につくイギリス人を撃ち、ついでにとばかりにジャーンシー城下で略奪を始めた、という報告にラクシュミーの身体は怒りに震えた。

「略奪など許せないわ! 今すぐやめるように勧告しなさい!」

『幸運の女神ラクシュミー』というより『戦の女神(ドゥルガー)』の如き怒声を発した王妃に、ラクスマン・ラーオは及び腰になった。ここまで怒りを露わにする彼女は初めてだった。

「警備兵が向かっております。ですが、相手は興奮していて、聞き入れるかどうか……」

 しきりに髭を撫でつつ答えるラクスマン・ラーオを、ラクシュミーが一瞥すると、彼は慌てて「説得いたします」と頭を垂れた。

 更に彼はスィパーヒーの粗暴な振る舞いを恐れたジャーンシーの民と、白人居住区のイギリス人が砦に庇護を求めていると告げた。

「良いでしょう。砦の門を開けなさい」

 ラクシュミーの命に、ラクスマン・ラーオがふと疑問を浮かべた。「……イギリス人も、お助けになるのですか?」

「当然よ。ここで助けなければ、無関係という言に偽りあり、と受け取られる。それに、無辜の人民をむやみに死なせることは道に悖る行為よ」

 断固としたラクシュミーの台詞に、宰相は平伏した。彼は命を果たさんとして、急ぎ足で踵を返した。

 だが、ラクシュミーの望みは通じなかった。スィパーヒーの略奪行為は、警備兵の制止をものともせず続けられ、触発された一部の市民や警官までもが便乗する始末だった。

 翌日には、スィパーヒーはイギリス人を保護している砦の一部を攻め立て始め、報告を受けたラクシュミーは諍いを止めるべく兵を送った。

 彼らはジャーンシーの兵ではなく、ラクシュミーが警護のために借り受けていた会社軍の兵だったが、反乱を鎮圧せねばならない点で利害は一致している。

 立てこもったイギリス人の安否はなかなか届かないまま、時間だけが過ぎていく――じわじわと追い詰められていくのを感じながら、ラクシュミーは人知れず焦燥の汗を流した。

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