19. 王妃様のお馬巡り
時は少し遡る。
「王妃殿下、メーラトでスィパーヒーが蜂起したと」
ジャーンシーの宰相ラクスマン・ラーオが丸顔に精一杯の焦燥を乗せ、ラクシュミーの元を訪れた。その時ラクシュミーは机に向かって手紙を認めている最中で、側には侍女のノウラを相手にダーモーダルがはしゃいでいた。
「ラクスマン・ラーオ! どうしたの?」
歓声を上げて駆け寄ってくるダーモーダルに、彼は「ご機嫌うるわしゅう」と笑顔を向けたが、ラクシュミーの姿を見ると、渋面を作った。
「この期に及んで、まだ総督府を説得しようというのですか?」
呆れた様子のラクスマン・ラーオに対し、ラクシュミーは泰然たる態度で「無視されても構わないわ。抗議した、という事実が大事なの」と返し、ペンを置いた。
「それよりも、メーラトのことを詳しく教えて」
オダニで顔の半分を隠していても、王妃の美しさは少しも損なわれていない。それどころか日増しに磨きがかかっている。
輿入れの時から側で見てきているラクスマン・ラーオですら、しばし呼吸を忘れるほどだ。この王妃の深い瞳に見つめられると、胸がざわざわとして落ち着かない。
この時二十二歳のラクシュミーは、相変わらず未亡人の白いサリーで過ごしていた。
「畏まりました。メーラト基地のスィパーヒーがイギリス人将校を殺害し、そのままデリーへ向かい、
デリーには老境に差しかかったムガル皇帝バハードゥル・シャー二世がいる。イギリスの傀儡であることは周知の事実だが、その権威はまだ消えておらず、スィパーヒーらは皇帝の庇護下にいるという。
「メーラトだけではございません。カーンプルやアーグラなど多数の基地でも同様にデリーを目指して行軍しております。これはスィパーヒーの暴走というにはあまりにも……」
統率が取れている。ラクシュミーは眉根を寄せた。
「それに奇妙な噂もございます。年始からイギリス滅亡の予言が各地でなされたとか、アワド周辺の村々でチャパーティーが配られたとか、基地に蓮の花が手渡されていったとか」
ラクスマン・ラーオの報告にラクシュミーは引っかかりを覚えたが、それらが何を意図するものなのかは分からない。
「未だ兆候はございませんが……ジャーンシーのスィパーヒーが蜂起せぬとも言い切れませんな」
「ジャーンシー王妃として、街の人々を守る義務があります。警備兵を増やす許可を請いましょう」
は、と頭を下げるラクスマン・ラーオから目を外し、再びラクシュミーはペンを取る。数分も経たぬ内にさらさらと文面を書き上げて、ラクスマン・ラーオに託すと、暇を持てあましているダーモーダルに声をかけた。
「さあ、これから馬場に行きましょう」
「はい、母様!」
ダーモーダルはぱっと顔を輝かせた。ラクシュミーの差し出した手を取って、弾むように歩き出す。
夫の従弟のモルダールは今年、九つになる。ダーモーダルには母と呼ばせているが、ラクシュミーにとっては年の離れた弟のようだ。宮殿にやってきた当初はよく体調を崩していたが、馬に乗るようになってからは丈夫になってきたようだ。
ジャーンシー併合から三年、イギリスの身勝手さに手を焼いてばかりだ。まず、併合直後には牛の屠殺が勝手に解禁された。ヒンドゥーにとって牛は神聖な、ムスリムにとっては汚れた生き物である。屠殺など到底認められない。
ラクシュミーの抗議を受けて初めて、
一方的な押しつけに納得できず、屠殺解禁を返上するよう要請しているが、受け入れられる気配はない。
更には、ラクシュミー大寺院への寄付を行っていた村の税収を差し押さえられることになった。故郷にいた頃から、祈りを捧げるのが日課だったラクシュミーにとって、寺院の維持は当然の義務だが、その資金は村の寄付頼みだっただけに、痛手だった。
(ジャーンシーは、本当に『生かされていた』のね)
馬場へ続く道を歩きながら、ラクシュミーは苦く笑った。エリスやリアムが、いかに良心的であったのか、今になって良く分かる。ネワルカー家存続に腐心した祖先たちの努力など、イギリスのひと吹きの前では塵芥と変わらない。
年金として提示されている月五千ルピーも、併合への抗議として拒否しているため、ラクシュミーの懐事情はかなり厳しい。
もちろん、役人や侍女たちの手当もイギリス持ちである。これも拒否したいところだったが、ラクシュミーの我慢に皆をつき合わせるわけにはいかない。いつか返すと約束し、イギリスからの借財としている。夫の統治期間における財政赤字も、いつの間にかラクシュミーの負債として積み上げられていた。
夫の遺志を継ぎ、この国を守るのが嫁いだラクシュミーの義務だ、という信念には変わりない。が、年金を受け取ってイギリスの庇護に入り、ダーモーダルやノウラ、タラたちと共に、穏やかな余生を送ったほうが皆も幸せではないのかと、揺らぐことも多い。
宮殿内の馬場はジャーンシー城兵の鍛錬場で、兵の多くははそのまま役職を据え置かれ、雇い主だけが変わった。ラクシュミーが嫁いですぐの頃から、タラの目を盗んで訪ねては、よく馬に乗せてもらっていたので、ほとんどの兵とは顔見知りだ。
ラクシュミーが馬場に姿を見せると、既に華やかなサリーの群が待ち構えていた。
「王妃様!」
馬上のジェルカリーに声をかけられ、ラクシュミーは手を振る。
ジャーンシーが併合してからは、ラクシュミーだけでなく宮殿の女たちも気晴らしにどうかと誘った。彼女たちは初めこそ難色を示したものの、今ではすっかり馴染んで、ラクシュミーの号令一つで隊列を組めるまでになっていた。
ジェルカリーはラクシュミーの愛馬を引いて傍までやってきた。愛馬の手綱を受け取り、その鼻面を撫でながら「みんな揃ってる?」と尋ねるとジェルカリーははい、と明朗に答えた。
宮殿の洗濯人を勤めていた同い年のジェルカリーは、ますますラクシュミーに似てきた。どんな因果か、ジェルカリーも馬を操るのが得意で、並の兵士に引けを取らない剣術も身につけるまでになっていた。
こうして別のことに費やす時間を得たことが良い方向に働いたのだろう、ガンガーダル・ラーオの死を受けて、灯が消えたようだった宮殿も、次第に明るさを取り戻しつつあった。
馬に触りたい、と訴えるダーモーダルを抱き上げる。馴れた手つきで撫でる少年に、愛馬は甘えるように首を寄せた。
「それじゃあ行きましょうか」
ラクシュミーの合図で女たちが集まり、綺麗な縦列を作る。ラクシュミーもダーモーダルを抱えて馬上の人となると馬場を出発した。
ジャーンシー市内をぐるりと一周してから城壁の外へ出て、近くの丘へと向かうのがお定まりのルートだった。その丘には小さな砦があり、イギリス人のみで構成された小隊が駐在している。
ラクシュミーたちは月に何度かここを訪れては、タマリンドの木陰に座り、景色を眺めながら食事を取ることにしていた。
町中を鮮やかなサリーの一行が、馬に乗って闊歩する姿は嫌が応にも目を惹いた。先頭をゆく真っ白なサリーのラクシュミーを見て、王妃と気づいた人々が歓声を上げる。
「ダーモーダル、背中を伸ばして。堂々とするのよ」
照れ屋の息子が俯きがちになるのを、ラクシュミーが叱咤して、自らも背筋を正して歓声に応えた。
スケーンは初め、感心しないとラクシュミーを責めたものだが、ただの気晴らしだと言い張り続けている。
幸運なことに、この『王妃様のお馬巡り』は市民の楽しみにもなっているようで、スケーンも下手に刺激をすればうるさいと――牛の屠殺の件で十数回に渡って抗議の手紙を送ったのが記憶に新しいのだろう――判断してか、近頃は渋々黙認されている。
並足で景色を楽しみながら、ゆるやかに丘に向かうこと一時間。いつものように砦を訪ねると、責任者であるコックス大尉がラクシュミー一行を出迎えた。
「お仕事中、お邪魔いたします」
「とんでもない。美しい女性方の訪問でしたら歓迎致しますよ」
コックスは強ち嘘ではない口調で告げた。
「砦のそばをお騒がせして申し訳ありません。図々しいついでに、砦に入れて頂くことはできないでしょうか」
ラクシュミーの申し出に、コックスは眉根を寄せた。常ならば、挨拶だけで済ませていたのだから当然だろう。
「いつも立派な砦だと感心しておりましたの。それに、いざとなればジャーンシーの民を守ってくださるとお伺いしておりますわ」
「ええ、それも責務の内です」
「ご存じの通り、わたしはイギリスの情けがなければ立ちゆかぬ身です。お礼をしようにも……お恥ずかしい話ですけれど、先立つ物もありません。ですからせめて、労いの言葉だけでもお許し願えないでしょうか」
しおらしい風情でコックスを見上げると、そういうことでしたら、と破顔した。
「砦の兵たちも、王妃のお言葉を賜れば士気も上がりましょう。御身ほど美しい王妃のために戦うのは男の誉れです」
まあ、とラクシュミーは照れ隠しのために顔を伏せた。半分は演技だが、面と向かって褒められるのはやはりくすぐったい。
砦を案内されたラクシュミーたちは、兵の元へと寄る度に労いの言葉をかけた。初めて見る王妃の姿に唖然とする者もあれば、あからさまな好色の目線を向けてくる者もいる。
衆目を浴びながら、臆することなく歩むラクシュミーの姿は気高くすらあった。コックスの案内で八インチ砲を目にしたラクシュミーは感嘆の声を上げた。
「立派ですわ」
「そうでしょう。我が国最先端の兵器です」
武器の説明を始めたコックスに相槌を打ちながら、ラクシュミーは妙に距離を詰めようとする彼を避けるのに必死だった。
己の容姿が、イギリス人にも通じるらしいと気づいてからは、より良く見えるよう振る舞っているのは確かだが、こうも簡単に引っかかるものなのか。
(今思うと、リアムって相当な堅物だったのね……)
かの青年の忙しい、という言い訳は嘘でないにしろ、本国に妻を持ちながら、こちらに愛人を何人も囲んでいる社員は珍しくない。リアムには――ラクシュミーの見る限り――女の気配はなかった。
(流石に、もう結婚してるわね)
確か、と指を折って数える。彼は今二十九歳だ。ジャーンシーに五年、ベンガル管区に移って三年経つ。既に良縁を結んでいる可能性は高い。そう思うと嬉しいような、寂しいような複雑な気分がした。
(……って、何故わたしが複雑にならなきゃいけないのよ)
それに、と内心でつけ加える。リアムとってラクシュミーは妹の代わりなのだ。
故郷に残してきたという妹のことは、度々リアムの口から聞いていた。その他の家族のことは知らない。
彼の生い立ちを思えば、わだかまりは当然だとして訊かなかったが、彼がラクシュミーに妹の面影を重ねていたことは明らかだ。
リアムを思い出す時、決まって脳裏には気難しそうな横顔が浮かぶ。
彼は考え込むと、無意識に撫でつけた髪をくしゃりと握ってしまうから、いつも髪が乱れ気味だった。驚くほど真摯で献身的な彼の姿は、ラクシュミーが幼い頃に憧れを抱いていた、イギリス役人の見本のようだった。
(そう、わたしは彼らに憧れていた……)
もしラクシュミーがイギリスの若者として生まれていれば、きっとインドを目指して海を渡っただろう。遠い未知の国への期待を膨らませ、どんな世界が待っているのかと胸をときめかせながら。
「……左様でしょう、ラクシュミー王妃殿下?」
不意に名を呼ばれた。生まれてこの方見たことない海の、潮風すら鼻先に感じていたのは、ただの幻想だ。現実に広がるのは、何処までも続くブンデルカンドの平原と乾いた風だった。
「ええ、大変素晴らしいお話ですわ」
現実に引き戻されたラクシュミーが微笑むと、コックスは更に気を良くしたように説明を続けた。
(しっかりするのよ。わたしの成すべき事はここにあるのだから)
今のラクシュミーにとって、どんな情報も貴重な糧だ。砦の兵の数、陣容、装備、武器の使い方や特性――どれを取ってもラクシュミーの損にはならない。聞き逃すまいとして、こっそりと汗の浮かんだ掌を握った。
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