11. ドクトリン・オブ・ラプス
藩王の死から五日後。
リアムがエリスにつき添って、宮殿の奥深くに引っ込んでいたラクシュミー王妃と相見えたとき、ガンガーダル・ラーオの葬儀の最中だった。
彼女は先月の聖紐式の時と違って、パルダーを取り払い、イギリス人二名の前に姿を露わにしていた。未亡人の証である白いサリーを身につけた簡素な装いだった。面窶れし、元々ほっそりとした身体も、どことなしに影が薄い。溌剌とした空気も削げ落ちて、憔悴しきった様子が見て取れた。
宮殿は以前訪れた時と同じく、煌びやかに飾り立てられているのに、闇に閉ざされているようだった。
「お飲物はいかがです?」
神妙な面持ちのイギリス人二名に、ラクシュミーは淡く微笑み、体裁を取り繕ってみせた。
息子も夫も失った王妃の元にやってきた東インド会社の
エリスとリアムの二人は彼女の勧めに応じて、繊細な硝子の杯を手に取った。
「ラクシュミー王妃、大変申し上げにくいのですが、後継の件でお話が」
他愛のない話の切れ間に、すっとエリスが本題を滑り込ませると、ラクシュミーの微笑みがわずかに強ばった。
「まあ、何でしょうか。エリス殿には、既に我が夫ガンガーダル・ラーオの遺言状をお渡ししております」
ええ、とエリスが頷くのを見て、ラクシュミーは続ける。
「養子を取ったこともご存じですわね。立ち会って頂きましたもの。ダーモーダルと申しまして、今は五つです。利発な子ですわ」
目元を和ませるラクシュミーに嘘は感じられなかった。先日、エリスと共に臨席した儀式の主役となった子供の姿は、リアムも目にしている。
異教の儀式ながら、厳粛な空気に満たされた空間には、身の締まる思いがした。ガンガーダル・ラーオ自身が息も絶え絶えに、遺言状を読み上げた声が耳に残っている。英国政府の感情を逆撫でせぬよう、配慮された文面も。
「成年になるまで、わたしがしっかりと育てていくつもりです」
ラクシュミーは言い切り、ご心配ありませんわ、とつけ加えた。
「それは心強いことです――と、これまでなら言えたのですが」
エリスが肩をすぼめ、リアムに視線を寄越す。それに応えて頷くと、異常を察したラクシュミーの微笑みが、崩れるのが視界に入った。
「インド総督府からの通達です」
リアムが大理石のテーブルに、一枚の書状を置くと、たっぷりと間を取ってから、娘は――そう、彼女はまだ十九のうら若い娘なのだ――わずかに震える指で書類を手に取った。
「ジャーンシー城を我が公館の監視下に置かせて頂きたいのです。いえ、王妃殿下を追い出そうという話ではありません。宮殿は王妃殿下の所有物であることは変わりませんし、これまで通りの生活をお約束致します」
エリスが努めて穏やかに声をかけるのに対し、書類に目を落としたままのラクシュミーは、細い肩を上下させた。
「お約束が違いますわ。これは……これでは、ジャーンシーは国ではなくなります」
書類は、ラクシュミー王妃に城を明け渡すよう要請するものだった。王妃に年金として月五千ルピーを支払うのを条件に、ジャーンシーの内政をイギリス公館に委譲すること、つまり、ジャーンシー藩王国を接収し、インド総督府の領地とする旨の通達だった。
「ダーモーダル・ラーオ殿を養子にされたのは、藩王陛下がお亡くなりになる前日ですね」
「……ええ」
「こう言っては難ですが、少々遅すぎるご判断でしょう。失権政策を回避したいがための苦肉の策と、上は判断した次第です」
「仰りたいことは分かります。でも、まるで藩王陛下が回復しないと、そう断じるみたいではないですか。わたしは夫の快癒を願っておりました。心からです!」
初めて、ラクシュミーが声を荒らげ、腰を浮かせた。大きな黒スグリの両目が潤み、この少女の藩王への思慕が垣間見えた。
「それに、ダーモーダルは見ず知らずの子供というわけではありません。夫の祖父の血を引く、正当なネワルカー王家の子です。失権政策の条件に値しませんわ。なのに……」
「ジャーンシーはマラーター戦争で一度廃絶し、復活した王国です。この場合、養子の継承は認められないのです」
エリスの台詞を聞いたラクシュミーの表情から、先ほどまでの余裕が消え去っていた。あり得ぬことに動揺して、今にも泣きそうな顔で目線を泳がせる。一度短く息を吸って、震える唇で続きを紡いだ。
「……我がジャーンシーはこれまで、公館、ひいては総督府と友好的な関係にあったと認識しております。その謝礼としては、いささか不躾ではありませんこと? 突然、内政の委譲などと……わたしへの、いえ、宰相以下、国に尽くしてきた人間全てに対する侮辱ではありませんか」
「とんでもありません。王妃殿下はご聡明であらせられる」
エリスの取りなしに「では、お任せ頂けますわね?」と念押ししたラクシュミーだったが、エリスは首を振った。
「どうして……」
すとん、と力なく腰を下ろした王妃を見つめ、
「……上の方針が変わった、と申し上げる他ございません」
心なしか、そう告げるエリスの声にも苦い物が混じっていた。今の総督ダルフージーは、藩王国への権限を総督府に集約するため、
末端のリアムには方針転換の理由を知らされていない。だが、本国のインド統治への関心が高まっているのだろう、と予測はできた。インドの社会を変革し、啓蒙する導き手たらんとしているのだ。
「納得できません。どうしてそうなるのよ。おかしいわ、こんなの。間違ってる」
興奮したのか、ラクシュミーの口調からは堅苦しさが消えて、素の言葉遣いが飛び出た。手にした書類をやや乱暴に卓上に戻し、リアムたちのほうへ滑らせる。
「到底承諾できません。宰相たちに聞くまでもありませんわ。そちらの都合だけでジャーンシーを併合するなんて、信じられない!」
「お気を鎮めください、王妃殿下」
エリスがラクシュミーを宥め、やれやれと息をついた。
「簡単にご承諾いただけるとは、考えておりませんでしたが……」
「お分かりなのでしたら、お引き取り願います。こちらは陛下の魂の門出すら見送っておりません。そちらの勝手につき合う暇などないのです」
憤然と返す王妃に、エリスとリアムは顔を見合わせた。
「ここだけの話、総督府の要求はあまりに性急だと、我々も懸念しています。もしこれで王妃殿下が折れるのであればそれまで、と思っておりましたが……ハーヴェイ」
目線で先を促され、リアムが後を引き取った。
「王妃殿下には一つ、証明して頂きたいのです。貴殿がジャーンシー統治に就いても何ら問題のないことを」
「……証明?」
リアムの台詞に、ラクシュミーはぽかんと口を開けて鸚鵡返しに問う。
「ジャーンシーを継げる人物は他にもおられるでしょう」
それだけで、ラクシュミーは察したらしい。直前までの弱々しさが嘘のように溶け、瞳がきらりと光った。
ガンガーダル・ラーオの従弟のナラヤン・ラーオはラクシュミーとは違って、反英意識が強い。主亡き今、彼らは玉座を手に入れるために奔走していることだろう。ジャーンシーに隣接する有力領主であるオルチャやダチアの動向も決して看過できない。
「彼を手懐け、味方にしろと仰るの?」
「ラクシュミー妃殿下におかれましては、その程度堅いのではありませんか? 手緩い条件だ、とお叱りを受けるのではないかと冷や冷やしております」
最後に、リアムがにこりと笑ってみせると、ラクシュミーはきょとんとして数度瞬いた。やがて、我慢しきれなくなったように吹き出して、声を立てて笑った。
「お話は良く分かりました。インド総督府を説得させるだけの材料を用意せよとの難題ですもの。相応の見返りはございますわよね?」
ラクシュミーの爛々とした瞳、上気した頬は凛々しくすらあった。こちらのほうがよほど彼女らしい表情だ。
「その点は大いに期待して頂いて結構ですよ、
エリスは胸を張って請け負った。
会談の最初の重い空気とは打って変わって、まるで三名は悪巧みを働く共犯者のように、不穏な笑みを交わした。
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