12. 諦めない
初めて、
積年の雨風を耐え凌ぎ、黒ずんできている砦の外見に反して、内装は白い御影石を惜しげもなく使った象眼細工が目を惹いた。
柱廊の途中、男とも女とも区別のつかない神像を見かけた。炎を象った輪の中で、片足を上げて佇むその額には三日月の飾り、首には蛇を巻きつけている。腰布一枚という粗末な姿は他の神とは一線を画していた。青い肌を持ち、背には幾つもの腕が生えている。それが何やら不気味で、禍々しさすら感じた。
他にも聖獣であり、神の乗り物だという白象や白牛の絵が描かれ、宝石の象眼があしらわれている。豪奢な内装は、生家でも見慣れているつもりだったが、こことは勝手が違う。万色に取り囲まれた空間に、やや辟易する。
従者は宮殿の最奥にある部屋までリアムを導き、中に入るよう促した。
「お呼び立てして、申し訳ありません」
部屋の中央に設えた椅子から立ち上がり、ラクシュミーは頭を下げた。彼女の側には女性が二人――一方はふくよかで小柄な年配女性、もう一方はすらりと背の高い糸杉のような娘、加えて宰相ラクスマン・ラーオの姿があった。
先日のラクシュミーとリアムたちの会談内容は、宮殿の一部の重臣のみにしか話してはいない。
エリスは上に、ジャーンシーの接収が長引きそうであることを認めた手紙を送っているが、それがどれだけ総督府に影響するかは不明だ。
今日は王妃から嘆願文作成の協力者を寄越して欲しい、と要請されて、ここにいた。滅多にない機会だから、とエリスに任されたのだが、
ジャーンシー王妃がインド総督府への訴状作成を公館に協力するよう請願し、公館側が渋々応じた――はた目にはそう見えるように、
まさか、遠くインドの地で弁護士の物真似をすることになるとは、と巡り合わせの妙に少し笑った。
「王妃殿下のご希望に添えるよう、微力ながらご協力いたします」
応えて握手を求めたが、ラクシュミーはしばし戸惑った。握手の習慣はないらしい、と判断して手を引っ込める。
「……以前お会いしたこと、覚えていらっしゃるかしら」
「もちろん」
ラクシュミーの問いに、笑って答えた。忘れられるような出会い方ではなかった。
「まさか、このことを見越していたわけではありませんよね?」
「もちろんよ」
ラクシュミーはサリーで半分顔を隠していたが、目元が和み、微笑んだのだと知れた。
リアムとラクシュミーのやりとりに首を傾げる面々の横で、糸杉の娘が小さくため息を吐いた。
「早速ですが、草案の作成に入りましょう」
「ええ、資料は全てここに揃っているわ」
ラクシュミーは、ずらりと並ぶ本の群を指し示した。彼女の亡夫は書物蒐集が趣味というだけあって、公館の書斎よりも充実していた。
「英国政府はかつて、条約でネワルカー王家に恒久的なジャーンシー統治を委任したはずです。陛下が亡くなった時点も、行政権はこちらにありました。それを後から失権政策で取り上げるなど、道理に合いません。法の在り方としても疑問です」
席につくなり、ラクシュミーは淡々と述べた。リアムが来る前に、過去の条約の内容を洗い出していたらしく、口調に淀みがなかった。
「財産の相続にしてもそうです。ダーモーダルに財産を継がせることはできるのに、どうして継承権のみが別になるの? 納得いく説明をいただきたいわ」
ラクシュミーの言うことはいちいちもっともで、反論の余地がない。それにしても、と落ち着いた風情のラクシュミーを見やって、感心した。
もっと感情的に訴えてくるのかと思いきや、彼女は冷静に事実を列挙することでジャーンシー統治の正当性を裏付けようとしている。
これが十代の少女の発想とは思えない。隣に控えた宰相の入れ知恵だろうか、とちらと目を向けた。彼はただ見守るだけで、話の主導権をラクシュミーに握らせており、口を挟む気配はなかった。
「分かりました。一八〇六年の条約内容と、ご養子の血統の正当性を述べることを主体にしましょう。一度草案をまとめます」
「一八〇六年以外の条約や家系図も用意しています。何か足りないことがあれば仰ってください。宜しくお願いします」
そこで、ラクシュミーは深々と頭を下げ、席を外した。
残ったのは雑務をこなすための従僕が一人で、彼が図書室の隅に立っている以外、何の気配もなかった。奥まったところに位置するせいか、静けさが近い。ペンを走らせる音だけが、唯一この静寂を乱す旋律だった。
ジャーンシー勤務も二年目を数えた。実地研修も一通り終え、内部試験も何とかパスした。こちらの生活に順応してきたのが分かる。
数日前、妹のアリスから久々に手紙が届いた。その中で、彼女はこれこれの慈善事業が成功したと記し、将来は女子教育の為の学校を建てたい、という夢をはっきりとした手跡で綴っていた。
あの気弱な態度からは想像もつかない、凛とした意志を隠し持っていた妹に、初めて尊敬の念を抱いた。
リアムは真珠のカフスを取り出す。まるで敬虔な信者がそうであるように、十字架代わりに持ち歩く癖がついていた。これを渡しながら、いつか分かります、と断言したアリスの、泣き顔とも笑顔ともつかぬ顔を思い出し、久々に会いたいと思った。今、アリスはどんな表情で日々を過ごしているのだろう。
リアムは、ロンドンの屋敷で孤立していた妹に、救いの手を差し伸べなかった。差し伸べればかえってアリスを追い詰めるのではないかと恐れていたが、本当にそれだけだろうか。
それ以外にも、思い当たることがある。インドへやってきたのは父の命だから、イギリスに帰らないのは忙しいから、遠いから。様々なことに理由をいくつも作って、逃げている。
もしあの時、こうしていれば、という後悔と償いを、同じく宮殿で孤独を感じているであろうラクシュミーに成すことで、帳消しにしようとしている――利用している。
(身勝手な話だな)
インドの近代化を推し進めることがインドにとっても、本国にとっても利になるという大義を持っていることは、嘘ではない。
だが、あの王妃だからこそ、リアムは協力しようという気になったのかも知れない。もし、他の場所であっても、同じように振る舞えただろうか。
取り留めもないことを考えても、らちがあかない。リアムは軽く首を振って、余計なことを頭の隅に追いやった。
文面の草案作成も骨の折れる作業だ。気を取り直して向き合う。
「お仕事は順調ですか、ミスター・ハーヴェイ?」
そう声をかけながらラクシュミーが姿を見せたのは、夕刻を過ぎた頃だ。部屋の薄暗さが気になって、窓に目を向けた瞬間のことだった。
「ラクシュミー王妃殿下」
立ち上がりかけたリアムを制して、彼女は茶器を用意し始めた。ラクシュミーひとりでやってきたらしい。
宮殿の中とは言え、供も連れずにやってきたのは些か不用心ではないかと忠告したら、ラクシュミーは笑うだけで取り合わなかった。
「あなたにばかり負担をおかけして、申し訳ありません」
熱いチャイを振る舞った彼女は、適当な椅子に腰かけて切り出した。先日の会談の時と同様、白いサリー姿だ。白は未亡人の色である。額の
「気になさらないでください。これも任務の内です」
結果は不透明だ。エリスの取りなしで、総督府の決定が簡単に覆るとも思えない。エリスは期待しろと言ったが、ラクシュミーの成果があってようやく勝算は五分、といったところだろう。
「あなたへの同情だけで動いてるわけではありません」
「知ってるわ」
ラクシュミーの返答は簡潔だった。首を傾げてから、つけ加える。
「あなた方が、総督府に逆らえないこともね」
「薄情な、と責めても結構ですよ」
「どうなっても……恨んだりはしないわ」
躊躇いがちに開かれた口からこぼれた声は掠れていて、彼女の葛藤を雄弁に物語っていた。
「猶予をくれたんだもの。感謝することはあっても責めはしない……ただ、不思議なの。協力してくれていることが」
「ヒンドスタンは“イギリス国王の王冠に嵌め込まれた宝石”」
リアムが呟くと、ラクシュミーは瞬く。年齢にそぐわぬと思っていた、涙袋のある目元の艶がすっかり馴染んでいた。たった数年でこんなに変わるものなのか、とややたじろいだ。
「それだけ、インド統治は我々にとって重要なんですよ」
「建前を聞きたいんじゃないわ。……あなたの本音はどこ?」
柔らかな口調ながら、誤魔化しを許さない問いかけだった。答えるかどうかをかなり逡巡したが、ラクシュミーは答を得るまで粘るつもりなのか、微動だにしなかった。
「……私の生みの親は、インド人娼婦です」
そう告げると、ラクシュミーは目を丸くした。
「ちっとも見えないわ」
「ええ。言わなければ分からないでしょう」
自分の口でこの話をするのは初めてだった。話さずとも、父に現地の愛人がおり、その子供を引き取ったという噂は、あっという間に社交界の醜聞になった。成金家系の、娼婦の血を引く息子――それだけで陰口には事欠かない。何より、リアムの存在を恥じ、疎み、怒り狂ったのが母だ。
表向き父の命には逆らわず、献身的な妻そのものだったが、その実、社交界の貴婦人よりも、母に投げつけられた悪態のほうが多い。
「生みの母は、パンジャーブの屋敷に乗り込んで、私を預けていったようです」
インド娼婦の息子という蔑みは、何時だってリアムの背後について回り、邪魔をした。なまじ、自らの容姿が限りなく白人に近いだけに、半分流れるインドの血が疎ましかった。
「だから殊更、私は英国人としての矜持が欲しかった」
インドへ赴き、イギリス流のやり方で貢献できれば、それが得られると頑なに信じた。けれど、今になってそれが正しかったのか、と揺らいでいる。
イギリス人としての誇りが欲しければ、本国で得るべきだったのかもしれない。母や兄や妹に向き合い、認められるべきだったのかもしれない。父の命が拒めない現状を変えようとするどころか、甘んじてはいなかったか。
「今回、手を貸すのは総督府に道理がないと、エリス少佐も私自身も感じているからに過ぎません」
「そう、だったの……」
ラクシュミーは呟き、黙り込んだ。しばらく口をもごもごさせてから、意を決したように切り出した。
「でも、あなたの……実のお母様の判断は、間違っていないと思うわ」
リアムは少女に目を向けた。
「きっと、あなたが幸せになれないと思ったのでしょう。自分で育てるより、東インド会社の社員のほうが、ずっと沢山の可能性を残してあげられるもの」
娼婦は
「現に、こうしてあなたは立派な職業についている。健康そうだし、顔だって悪くないわ」
ラクシュミーがからかうようにつけ加えたが、どんな表情をすべきか、リアムには分からなかった。
「ここでは寡婦は不吉なの」
その呟きは無味乾燥としていて、感情がなかった。
「夫を亡くした女は、夫の遺体と一緒に焼かれるのよ……生きながらね」
リアムは眉根を寄せた。寡婦の殉死は、イギリスによって法で禁じられている。だが、にわかにでき上がった法よりも、千年以上伝わる
リアムの感覚では信じがたいほど非道で、原始的な慣習だが、それが正しいと信じる者が後を絶たない。禁止法発布後など抗議の意を込めたのか、かえって殉死する女が増えたほどだ。
「結婚すればその夫に、家に尽くす。それができなければ、
できなかった、と、聞き逃してしまいそうなほど、小さな声だった。悔しそうに、彼女は唇を噛んだ。
「イギリスでは、寡婦でも身を投げることがない、財産がないからといって殺されることもない……どうしてこの国では、女だけが責められるのかしら」
寡婦は不吉。そう言い切ったラクシュミー自身、寡婦になってしまった。一言も口にしないが、なおも宮殿に居座り、摂政を務めようとする彼女を貶める人間がいるのだろうか。
「わたしはこの国が好き。それはきっと、ずっとそうでしょう。でも、少しだけ、イギリスが羨ましい」
ちょっとだけね、と念を押し、ラクシュミーはつと窓の外へと目線を送った。
「……
噛んで含めるように、一語一語をゆっくりと紡いだ。決然とした眼差しは王族の誇りに満ちていて、美しいと思った。
――諦めない。
そう告げた彼女の根底にあるものは何なのだろう、とふと思った。孤独と呼ぶには瞳に宿る光は強すぎる。
悲しみや寂しさなどはとっくに捨て去り、激しさを押し込めているよう。その姿は昼間に見た禍々しい神像を想起させた。
火に炙られる貞女より、炎を背負って踊る男神――停滞と鬱屈を吹き飛ばす嵐の神のほうが似つかわしい。広大なヒンドスタンに比べて、小さすぎるこの国で、
「貴女の望みを叶えるべく尽力します」
気がつけば、そう口走っていた。
「できる範囲で、ですが」
今の発言は、一誓約社員の職分を超えている。慌ててつけ加えると、ラクシュミーはゆったりと微笑んだ。六つ年下――アリスよりもなお若いというのに、彼女の時間だけが十数年進んでいるようだった。
「なら、その証を示して」
あなたのやり方で。王妃の命を受けて、リアムは進み出ると彼女の足下に跪く。恭しく魔除けの模様がびっしりと施された手を取る。この広い大地を変えるには、あまりにも小さな手だが、揺るがなかった。
「あなたに忠誠を誓います、王妃殿下」
手の甲に口づけて、その行為に自嘲を浮かべた。
「爵位なし《スクワイア》がやってもただの真似事――」
言い差したリアムの視界に影ができ、不審に思って顔を上げると、真側に少女の顔があったので吃驚した。硬直した青年の頬に唇を寄せて、触れる。
「イギリスでは、謝意を示すときにはこうすると聞いたのだけど……違うみたいね」
ラクシュミーが困惑する程度には、動揺が出ていたらしい。
「大筋では間違っていませんが……誤解を招きかねない行為は、慎まれたほうがよろしいかと」
「……分かったわ」
彼女は妙に重々しく頷いた。
「何もかも、これからね」
決意を込めた台詞に、リアムははい、と応える。小さく笑みを交わして、ラクシュミーは部屋を辞した。
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