10. 聖紐式

 藩王ガンガーダル・ラーオと王妃ラクシュミーとの間に生まれた第一子は、日の光すら浴びることなく、三ヶ月でその生涯を閉じた。

 失望に覆われた宮殿の中、王子を失った心労からか藩王自身もまた病を悪化させ、寝台を動けなくなった。

「陛下は、長く持ちませんでしょう」

 宰相ラクスマン・ラーオは、人の良さそうな丸い顔立ちに痛ましい色を浮かべ、別室に控えたラクシュミーに告げた。

「そんな……」

 子供を失った衝撃からも、まだ立ち直れていない。それなのに、夫もいなくなってしまうなんて。

「これから、ネワルカー王家はどうなってしまうのでしょう」

 タラ・バイの言葉に、部屋の空気はさらに沈んだ。

「……まだ、亡くなっておられないのに、不謹慎だわ」

 ラクシュミーの指摘に、タラ・バイはゆっくりと首を振る。

「一婦人であれば宜しいでしょう。ですが、御身は王妃殿下にあらせられます。王がご崩御なされた後のことをお考えになるのも義務にございましょう」

 タラ・バイの発言は正論だ。だが、酷く冷たいのではないか、とラクシュミーはこの女官長を詰りたくなった。家族を悼む暇すらも与えないつもりなのか。

「陛下はご遺言状をお作りになると仰せです。養子を迎え、その子に王位をお譲りになる心づもりのご様子」

 既に、どの子をネワルカー家の養子とするのかを決めているという。ダーモーダルという、ガンガーダル・ラーオの従弟にあたる五歳の少年だ。夫の祖父に連なる正当な血統を持ち、素直で利口な少年だという。

 年齢だけならば、もうひとりの従弟であるナラヤン・ラーオのほうが相応しいが、彼の人となりで良い噂は聞かなかった。

 お気に入りの臣下を集めて宴会を開いては、酒の肴にガンガーダル・ラーオの死を謳い、あれがいなくなれば王位は自分のものになる、と吹聴して回っている。何より、彼はジャーンシーよりも、隣国のオルチャに肩入れしている節が見られた。とてもではないが玉座を与えるに値しない。次に王位を継ぐのが五歳の少年と知れば、ナラヤン・ラーオが言いがかりをつけてくるのは目に見えていた。

「いっそのこと、エリス殿に聖紐式ウパナヤナの立ち会いを依頼してはどうか、と」

 聖紐式とは、ヒンドゥーとしての入り口に立つことを認める儀式であり、これを機に導師グルについて『ヴェーダ』を教わり始める。成人の儀とも呼べる重要な儀式だ。

 五歳という年齢はやや早いが、前例もある。一緒に王太子として迎え入れる誓言も行うべきだ、とガンガーダル・ラーオが珍しく譲らない。

「名案であると存じます。イギリスの公館が認めたのであれば、ナラヤン・ラーオ様も無体を申したりはしませんでしょう」

 タラ・バイが心の底から安堵を浮かべ、感極まったのか目元を拭った。「流石は陛下。この国のことをよくお考えでいらっしゃる」

 タラ・バイのその姿を見て、ラクシュミーは情がないのではないか、という非難を飲み込んだ。タラもまた王を敬愛しているのだ。正確には、彼女はネワルカー王家や、ジャーンシーそのものを愛しているのだろう。

「早速、エリス殿に手紙を書きましょう。陛下が、最期にお望みなのですもの。是非叶えて、心安からにして差し上げたいわ」

 ラクシュミーが告げると、早速宮殿はダーモーダルの聖紐式を執り行うべく奔走し始めた。何せ、ガンガーダル・ラーオの容態は日々悪化の一途を辿っている。今日明日、魂を召されてもおかしくない。そうなる前に、正式な養子として迎え入れ、夫の心残りを払拭してあげたい。

 導師の意見を訊きながら、ラクシュミーが采配を振るった。公館から立ち会いを快諾する手紙も届き、緊張感も加わった。イギリス公館との関係によっては、ジャーンシーの命運を分けかねない事態になる。失敗は許されなかった。

 わずか一週間で全ての手配を終え、ダーモーダルの聖紐式と養子縁組の儀式を行うこととなった。

 この時初めて城に姿を見せたダーモーダルは、内装の豪華さにか、式の立派さにか、くりくりと丸い目をさまよわせていた。

「これからわたしがあなたのお母様になります」

 挨拶に出向いたラクシュミーが告げると、少年は緊張した面持ちでこくん、と頷いた。笑顔が見えないのは、まだ慣れていないからだろう。

 夫の評価通り、利発そうな目をした少年だ。ブラフマンの精神を学ばせ、立派な王になるよう教育するのもラクシュミーの義務だった。

 城の広間には儀式を見守る面々が揃っていた。パルダーで仕切った内側にラクシュミーが座り、側にはノウラとタラの二人が控えていた。ラクスマン・ラーオ筆頭に複数の廷臣たち、公館から訪れた弁務官エリスとその書記であるリアムの姿も見えた。

 中央に座った主役のダーモーダルは当初、そわそわと落ち着きのない様子だったが、導師に白い綿の聖紐を授かる時には、年相応に神妙な顔をしており、微笑ましかった。

地よブフー空よブヴァハ天よスワハ

 我らはサヴィトリ神のタット サヴィトゥル ヴァレーニャン

 いとも尊き光輝を念ずるバルゴー デーヴァシャ ディーマヒ

 我らの思念を励ましてくださらんことをディヨー ヨー ナハ プラチョーダヤート

『リグ・ヴェーダ』にあるサヴィトリ讃歌を誦する導師の荘厳な声が、広間に満ちる。日々の祈りに欠かせぬこのマントラを、ラクシュミーも小声で唱和する。

 聖紐の授与を終えてから、わずかな重臣のみでガンガーダル・ラーオの元に向かった。本来、三日はかかる聖紐式を半日に縮めたが、それにも列席できぬほど、王の体調は悪化していた。

 豪奢な銀の寝台に巨体を横たえたガンガーダル・ラーオは荒い息の下、ダーモーダルの人生の出立を祝い、養子に迎え入れる宣誓を行った。

「ダーモーダル・ラーオを我がネワルカー家の世嗣とし、ジャーンシー王国の継承権を譲る。ダーモーダル・ラーオ即位に至るまでは、王妃ラクシュミー・バーイーを摂政とし、統治権を委譲するものとする。我が国の英国政府への信義は曇りなきものであり、変わらぬ友好の継続を願う」

 切れ切れではあったが、王は遺言状を最後まで読み上げると、宰相に手渡す。遺言状の文面と読み上げた内容が相違ないことをエリスに確認させてから、写しを預けた。

(……何とか、乗り切れた……)

 パルダーの奥で、ラクシュミーは大きく息を吐いた。急ぎ足で整えた儀式だったが、滞ることなく済んだ。

 その安堵は夫も同様だったのだろう。ダーモーダルの聖紐式を終えた翌日にガーダル・ラーオは息を引き取った。ラクシュミーらがそうであって欲しいと願った通り、穏やかな死に顔であったのが、唯一の慰めだった。

 聖紐式に続き、葬式の手配に宮殿は大わらわだった。夫の遺体を布にくるみ、ベートワ河の岸にある火葬場に向かう。王妃を先頭に葬列は長く続き、ジャーンシー中が王の死を悼んで涙を流した。信心深い王は喜捨もまた多く、穏やかな人柄を民もまた慕っていたのである。

 王にベートワ河の水で死に水を取り、積み上げた薪の上に乗せられた。周りにはラクシュミーの用意したものの他、民の投げ込んだ沢山の花々に飾られ、そこだけが天上の楽園の如き様相を呈していた。

 ラクシュミーの手で放った火は、ゆっくりと遺体を這い、飲み込んでゆく。献身的な妻であるほど、この炎に焼かれて死後も夫に従うという。

 もし摂政の役目がなければ、ラクシュミーも飛び込んだのだろうか。自問してみても、確たる答えが出てこなかった。

 荼毘に付した数日後、再度火葬場を訪れて遺骨を納めた。十三日間は火葬場に安置し、引き取った後は城で葬送のマントラを捧げ、遺灰の一部を近くのベートワ河に流す。残りは近い内にヴァラーナシーを訪れ、ガンジス河ガンガーに撒くことになっている。

(陛下はもう、おられないけれど……わたしの義務は終わっていない)

 息子と夫と、立て続けに亡くしたラクシュミーは、それまでの色鮮やかなサリーと宝飾品を取り払い、未亡人の証である真っ白なサリーに改めていた。

 ジャーンシーを一望できる城の露台でひとり佇み、深く息を吸った。寡婦は引きこもって寺院で祈りを捧げて余生を過ごすものだが、ラクシュミーにはやらねばならないことがある。

 早速、ナラヤン・ラーオが養子縁組は正式なものではない、と不平を鳴らしてきたのだ。宮殿に乗り込んできそうな勢いだったので、ラクシュミーはダーモーダルが成人するまでは摂政として宮殿に残ることを決めた。

 ラクスマン・ラーオは賛成したが、タラ・バイは法典に記された婦道に悖ると渋い顔をしていた。王の懇願を無碍にはできないと窘めたが、ラクシュミーは心のどこかで、祈りだけの生活に耐えられはしないだろうと分かっていたので、城に残れることに安堵していた。

(……陛下は、わたしの気持ちを見通してらっしゃったのかしら)

 夫は、ラクシュミーが女の戒律を知らぬことを良く思っていなかったのに、ラクシュミーに政を任せることを選んだ。

(もし、もっと年月を重ねていたら……)

 神話のヴィシュヌとラクシュミーのように、理想的な夫婦になれたのかもしれない。

 ラクシュミーの両目からは、知らず涙がこぼれていた。

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