07. 高貴なる者の義務
「あの子たちが、生きる術はあるのでしょうか」
冬の、いっそう凍える日だった。馬車の窓から、通りの端で襤褸をまとった子供を見たアリスがくしゃりと顔を歪め、リアムにそう問うたことがある。リアムが十六で、アリスが十二の時だ。
外出を拒むアリスを屋敷から連れ出そうとする母に、アリスが突きつけた条件がリアムを伴うこと、だった。母の友人宅の茶会につき添うだけのことに、どうしてそこまで拘ったのか、リアムが訳を聞いても妹は黙りこくるばかりだった。
どこの誰が結婚した、子供が産まれたなどという取るに足らない会話に相槌を打ち、機嫌を損ねないように追従を言うくらいなら、屋敷でドイツ語でも勉強しているほうがましだった――と、そんなことを考えていた矢先だった。
「救貧院があるだろう」
何の気なく答えると、アリスはますます泣きそうな顔をした。
「怠惰かそうでないかで、こんなに酷くなるのですか? 主は慈悲深く賢明でいらっしゃるのに、あの子たちには慈悲をくださらないのですか」
そう訴えた後で、傲慢な口振りだと後悔したらしい。アリスが慌てて十字を切った。
「お兄様は、常に勤勉ですか?」
「それは、もちろん」
珍しく身を乗り出すアリスに戸惑いながら、リアムは頷く。
勤勉であることは、主の教えであると同時に、リアムに課せられた使命だった。
何故ならあの屋敷の中で唯一、リアムだけが妾の子だからだ。その妾が華々しく活躍するオペラ歌手や、
母の実家も商家だが、ドイツ王族に連なる古い血筋であるという強い自負を抱いている。インドの掃いて捨てるほどいる娼婦の子など、畜生と同じだと公言して憚らなかった。
ならば、と決意した。畜生でも人間に、それも上流の人間になれることを証明してみせる。与えられた機会は無駄にしない。勉学だろうがスポーツだろうが、何でも励んだ。
そのことが、かえって二人の兄との差を浮き彫りにした面がある。兄たちはお世辞にも出来が良いとは言えなかった。上の兄は娼妓に入れ込み放蕩三昧、下の兄は俳優になると言って、単身フランスへ渡ってしまった。
――あの子たちができ損ないなのは、アイルランドの血のせいよ!
ヒステリックな母親の叫び声は、未だにリアムの耳の奥に残っている。
――私には誇り高い血が流れているのに。あの子たちに受け継がれなかったなんて!
母の嘆きを聞いた上の兄は、卑屈そうに唇を歪めた。
「ドイツ王族の血なんざ、とっくに紅茶に薄められたさ。俺も、あの女もな」
それきり兄は屋敷に戻らず、顔を合わせていない。
「本当に、常にですか? 私はピアノの練習が嫌で、逃げたことがあります」
妹の告白は意外だった。幼い頃からピアノを嗜み、腕も良い。演奏会でピアノを奏でる姿は、心から楽しんでいるように見えた。内気なアリスの唯一の特技であり、母の自慢の種だ。
行き場を失った母の愛情は、唯一残された娘のアリスに注がれた。十二の娘には荷の重すぎる相手だろうに、健気に良い娘たろうと努めている。
「でも、私の食事がなくなることはありません。ドレスがなくなることも、屋根がなくなることも。……叱られはしますけど」
その時の事を思い出したのか、アリスは揃えた手を握る。モスグリーンのドレスに皺が寄った。
「私の怠惰が、私の贅沢を損なうことはないのです。……本当に、怠惰だけが理由なのですか?」
常になく饒舌なアリスの訴えに、リアムは答えられなかった。アリスの言を肯定すれば主の教えを否定することになり、救貧院のあり方そのものが疑問視されてしまう。
我に返ったアリスが恥じ入ったように俯き、ぴたりと口を閉ざした。
以降、彼女は慈善事業に興味を持つようになった。社交界に出て、より積極的に関わり始めたが、それもすぐさま陰口の材料になった。
即ち、成金娘が
『ミス・ハーヴェイの献身的な姿には、わたくしたちも感銘を受けておりますのよ』
『ええ、実に。レディの見本ですわ。奥様のお心映えもよろしいのね』
『***は、もっと過酷な有様だとか』
『奥様やミス・ハーヴェイに、ご助力頂ければ助かりますわ』
彼女たちは上品な微笑みを浮かべ、口々に甘い言葉で持ち上げてみせた。貝や象牙、羽にレースにシルク――優美な扇子の裏に隠された悪意に気づかず、母は額面通りに受け取って鼻高々だった。
『リアム、お父様がインド行きを命じたのは、お前に期待しているからですよ』
インドに向かう船に乗る前日。慈悲深い母親を演じてそう言い放った女の顔と、アリスを誉める貴婦人たちの顔が重なって見えた。
――いつか、お兄様にも分かります。
アリスは、何が分かると言いたかったのだろう。何を、分かって欲しかったのだろう。
(私はあの屋敷から、逃げたかっただけなんだろうか……)
母をアリスに押しつけて屋敷に閉じ込めて、なかったことにしたかったのか。
リアムが薄目を開けると、とっくに明るくなっていた。慌てて身を起こして時計を確認すると、針は八時を指していた。業務が始まるにはまだ早い時刻であることに安堵して、深く息を吐いた。
書き物机でそのまま突っ伏して寝ていたらしい。書きかけのデーヴァナーガリー文字が途中で崩れ、インクの染みができていた。リアムは髪をかき回して、椅子の背にもたれる。
その時、こんこんとドアをノックする音が聞こえた。返事をする前に部屋に入って来たのは、公館が雇っているインド人メイドだった。
「ハルベイさん。食事ができましたよ」
メイドは用件だけを告げるとさっと踵を返した。呼びにくいのか、覚える気がないのか、いまだに名前を間違えられたままだが、訂正する熱意はこの一年半でとうに失われていた。
公館は地主の邸宅だった物を借り受けている。使用人は料理人、メイド、庭師、厩番、洗濯人に掃除人、と最低限しか雇っていないが、静かな空間はリアムの望む所だ。
食堂にぽつんと置かれた食器を見ると、幼い頃に住んでいたパンジャーブの屋敷を思い出す。身についた習慣で祈りを捧げ、食事に手をつける。
一皿にまとめられている形式はインド風だが、チャパーティに添えられるのはバターとジャム。バラモンの料理人は肉を嫌うため、ベーコンの代わりにレンズ豆のスープとジャガイモ、ヨーグルトで和えたサラダ。食後の紅茶は何も言わずともカップとソーサーが置かれ、ポットで出てくるのに、中身はスパイス入りの紅茶。どっちつかずで中途半端な食事内容にも流石に慣れてきた。
複数の人間がいるとは思えないほど、この時間の公館は静かだ。日差しも柔く、夜の冷えた風の名残を首もとに感じる。
暑さを避けてか、こちらの活動時刻は昼下がりからに集中している。勢い、起床も商店の開店も遅くなる。
妙な体勢で寝たせいか、明瞭でない頭のまま食事を詰め込み、身支度を終えた。
部屋に戻って広げっぱなしのノートや辞書類を片づけ、ついでに後回しにしていた荷の整理をしていたら、あっと言う間に時計の針は十時を指した。
公館にエリスの姿が見え、挨拶を交わすとジャーンシー城に向かう旨を告げられた。
「我々に訪ねろとは珍しいことだね」
馬を並べたエリスがぼやきながら、小高い丘に建つ要塞を見上げた。
その昔、ムガル帝国の支配も受けていたこの城は、ナル・シャンカーという代官によって強化され、今の姿になったらしい。城の周囲を取り巻く壁は凡そ六から十フィート、外防塁の真下には濠があり、そう易々と敵の侵入を許さないだろう。
城内に入ると、兵が訓練しているのか勇ましいかけ声が響いていた。厩に馬を預ける際、練兵場を通ると隊列を組む兵の中に、一際小さな兵がいるのが見えた。子供も兵として訓練しているのだろうか、それらしき人物はその少年だけだったが。小柄でもその太刀筋は鋭く、馬を操るのにも長けていた。
「ハーヴェイ、行くぞ。あの方はあまり気が長くないからな」
エリスに促されて城の奥、大理石でできた
「ご機嫌うるわしゅうございます、
エリスが頭を下げるのに、リアムも合わせる。うむ、と言葉少なに頷くガンガーダル・ラーオは、見慣れぬリアムの顔に首を傾げた。
「エリス殿の後任かな?」
「彼は任官したばかりですが、いずれそうなりましょう」
「ハーヴェイと申します。以後お見知り置きくださいますよう」
リアムは愛想良く微笑んで、マラーティー語で挨拶をすると、王はおや、と一瞬目を丸くした。
「そちはヒンディー以外も喋れるのか」
「この辺りの言葉でしたら概ね理解できます。まだ研修中ですので、完璧にとは参りませんが」
謙遜しつつ、ジャーンシー王ガンガーダル・ラーオを不躾にならぬ程度に観察する。近くで見るガンガーダル・ラーオは、一際大きく見えた。
自重に耐えかねているかのように動きが緩慢で、飲み物の器を手にするだけで大仰な息を吐く。贅沢のもたらした弊害か、あるいはどこか煩っているのか、血色はあまり良くなかった。
エリスが後継のことを心配するのも分かる気がした。もしこの王に子が産まれなければ、総督府は藩王国の併合を命じるだろう。
現総督のダルフージーの定めた
「貴君らを呼び立てたのは他でもない。灌漑施設を作ろうと思うてな」
事前に聞いていたガンガーダル・ラーオの評と、目の前にいる王の発言の食い違いに、リアムは内心首を傾げた。
「河より離れておるせいで、荒れた農地があるのだが、地形が少々複雑でな……」
王はその土地について、どれだけ荒れ放題で住民が困っているかを、くどくどと説明し始めたが、要は施設を作るのに公館の手を貸せという要請だった。
「お安いご用です。近々役人を派遣して測量させましょう」
エリスが力強く王に応えると、ガンガーダル・ラーオは鷹揚に頷いた。
「まこと、エリス殿は頼りになる方だ。ハーヴェイと申したか、貴君は実に良い手本に恵まれている」
「陛下の仰る通りです」
リアムは素直に首肯する。エリスが有能な弁務官であることは事実だ。
「――皆様、お話には一段落つきまして?」
軽やかな声が謁見室に響いたのはその時だ。ガンガーダル・ラーオが真っ先に気づき、一瞬眉を跳ね上げた。
「ラクシュミー」と呼びかける声音は優しげだが、まるで取り繕うような響きがあった。
「お客様がいらっしゃるのに、邪魔をしてごめんなさい」
リアムとエリスが声の主を確かめると、淡いブルーのサリーに身を包んだ娘がいた。後ろに侍女を伴った娘は夫のそばまで来ると、リアムらに手を合わせて会釈した。
「妻のラクシュミーだ」
王の紹介に、ラクシュミーが目元を和ませる。サリーで半分覆い隠しているが、リアムは彼女の大きな黒い瞳に、見覚えがあるような気がした。どこで見たのか、記憶を手繰っている間に、侍女が恐る恐るといった風情で銀の茶器を並べてゆく。侍女の危なげな手つきを見かねてか、ラクシュミー自身も手を貸した。
「表には出るなと言っていただろう」
穏やかな表情で窘めるガンガーダル・ラーオだが、心なしか視線に棘があった。
「陛下に、どうしても頼みたいことがあって……図書室の鍵を貸していただけませんか?」
ラクシュミーの声はあくまで明るい。銀のポットを取り上げて紅茶を注ぎながら夫に問いかけた。
「何も、今でなくても」
「午後にはラクシュミー大寺院に参る予定なのです。陽のある内でないと読めませんもの」
ラクシュミーはイギリス人二人に茶を勧めてから、王に向かって愛らしく首を傾げた。
若干十五の王妃の唇は弾むような美しいマラーティーを紡ぎ、こぼれる台詞も詩歌の一節のよう。優美というより颯爽としたサリーの裾捌きには、娘の若さが溢れていた。淀む熱に倦んでいた謁見室の空気が、ラクシュミーの存在を歓迎するように動き始め、彼女のサリーを揺らした。
以前、象の輿に乗っていた時には、ただ窮屈そうな印象しかなかったラクシュミーだが、今の彼女の一挙一動には華があった。
「ラクシュミーに本の面白さを分かってもらえて嬉しいがね、時と場所をわきまえなさい」
流石の王も、新妻の願いを無碍にできないのか相好を崩した。懐を探って鍵を取り出すと、ラクシュミーの小さな手に乗せる。
「くれぐれも気をつけるのだよ。貴重な本ばかりだからね」
「心得ておりますわ、陛下」
ラクシュミーは気取って跪くと、王の足に触れた手を自らの額に寄せる。よく寺院で、立派な身なりの聖職者に頭を垂れる信者の光景を見る。恐らくは敬意を示す礼なのだろう。
仲睦まじい夫婦のやりとりを、見るともなく見る羽目になった二人は目のやり場に困りつつやり過ごす。
「あら」
ラクシュミーがイギリス人二人を振り返る。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
「とんでもない。遅れましたが、ご結婚おめでとうございます」
エリスの祝辞にラクシュミーはありがとうございます、と手を合わせた。ふと、リアムのほうを向くと、娘の目がきらりと光った。まるで、悪戯を思いついた子供のように。
「貴殿はまだこちらへ来られて日が浅いご様子。こちらの物はお口に合いませんか?」
「!」
同じ台詞を、覚えている。ただ、聞いた場所はかしこまった王宮の中ではなく、婚礼の祝祭で浮き立つ空気の中だった。さぞかし裕福な家の娘で、藩王に近しいのだろうと推測はしていた。
だが、まさか王妃が、あんな街中で堂々と歩いていたなど、誰が想像するだろう!
声を発しかけたリアムは慌てて咳払いで誤魔化した。
「お気遣い、ありがとうございます。大丈夫です」
そう返すのがやっとだった。浮かべた愛想笑いもひきつるのが分かる。
「左様ですか? 無理はなさいませんように。では陛下、わたしはこれで失礼致します」
ラクシュミーは再度王の足下に跪くと、侍女を伴って謁見室を去った。
「なかなか、大胆なご婦人ですね」
王妃を見送ったエリスの声には好ましげな色があったが、ガンガーダル・ラーオは渋面を浮かべて唸った。
「立派なブラフマンの娘ではあるが、お転婆が過ぎる。馬に乗ったり剣を振ったり……女のすることではない。女は宮殿で慎ましく過ごすべきだと思わないかね?」
殊更に、王は言葉を強めてリアムたちの同意を求めたが、本国で女が乗馬の嗜みを持つことは禁忌ではない。健康のために外へ出ることはむしろ推奨されている。
「王妃殿下はまだお若くていらっしゃる。内に籠もっているのは性に合わないのでしょう」
エリスが擁護したが、ガンガーダル・ラーオの眉間の皺は深くなるばかりだった。
「あれは女の戒律を知らん。
最初は照れ隠しかと思ったが、雲行きが怪しくなってきた。ちらりとエリスの様子を伺うと目が合った。
「……まあ、ラクシュミーのことは良い。こちらの話だ」
ガンガーダル・ラーオも余計なことを喋った自覚があるらしく、些か唐突に話題を打ち切った。
最後にもう一度灌漑施設の件は宜しく頼む、と念押しし、ガンガーダル・ラーオはそそくさと謁見室を去った。王の側にいるはずの宰相ラクスマン・ラーオが、最後まで姿を見せなかったことが引っかかったが、その理由を尋ねる間もなく話を切り上げられてしまった。退出を促され、仕方なく二人は城を後にした。
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