08. 本当の義務(ダルマ)

 図書室に踏み込んだラクシュミーは、ほっと一息吐いた。王宮の端にあるこの部屋は、人の気配が遠い。

 本棚から歴史書を引っ張り出すと、長椅子に寝そべりながら頁を手繰る。

 本を読む習慣など、今までのラクシュミーにはなかったが、巡礼から戻った後、夫の勧めに従って図書室を訪い、ふと目についた『神の詩パガヴァット・ギーター』を手に取ったのが、最初だった。

 ギーターの呼び名で知られる有名な叙事詩で、御者に扮したヴィシュヌ神の化身・クリシュナが、兄弟同士の争いを厭い、武器を投げ捨てた戦士アルジュナに、己の義務ダルマを果たすように諭すくだりは、故郷の導師グル・タートヤも良く朗読してくれたものだ。

 何の気なくぱらぱらとギーターの頁をめくっていると、覚えのある言葉が飛び込んできた。

 ――あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果ではない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。

 とりわけ、ラクシュミーの心に深く響いたクリシュナの言葉が、タートヤの朗々たる声で聞こえくる気がした。

 ラクシュミーの目は文字を追いながら、同時に故郷の景色を見た。時に身振り手振りを加えながら、見事に語るタートヤの姿。彼は勇者ラーマと魔王ラーヴァナ、王女のシーターまで演じ分けていた。隣にはラクシュミーと目を輝かせて聞き入っているナーナー。三十を越えたタートヤの、献身的な王女シーターの演技がちぐはぐでおかしくて、こっそりナーナーと目を合わせて笑いを堪えていた。

 本を開けばいつだって、この懐かしく幸せな子供だったラクシュミーに出会える。そう知ってから、心寂しくなる度、図書室に出向くようになっていた。

 この日も、馬と剣の訓練に出ていたことをタラ・バイに非難され、くさくさする気持ちを宥めるつもりだった。図書室の鍵を借りるために夫を訪ねようとしたところ、公館のイギリス人と会見しているという。

 終わるまでお待ちを、という役人を振り切って、ラクシュミーは慌てて宮殿に引き返した。ノウラに命じてお気に入りのサリーを持ってこさせ、男物のサルワールを脱ぎ捨てた。

 ラクシュミーの明るめの肌に良く映える、瑠璃を薄く伸ばしたような淡い青のサリーの裾とパルーには、銀糸の月と星、鶏冠花が縫い取られている。柔らかく透ける絹は身体にぴたりと添い、風にふわりとなびく様も美しい。

 薄く化粧を施し、足の運び方もいつもより気をつけて、再度王の元へ向かったのだ。側に控えているはずのラクスマン・ラーオの姿がないのは意外だったが、夫が政治に意欲を持つことは歓迎すべきことだ。

「きゃーっ! ラクシュミー様! はしたないですよ!」

 ノウラの悲鳴を聞いて、ラクシュミーは目を丸くした。入り口のところで、茶器を乗せた盆を持ち、直立不動のままの侍女がいた。

 ノウラははっと口を噤むと、図書室を仕切る布を下ろし、卓上に盆を置いた。

「陛下にも本の扱いに気をつけるように、忠告されてたじゃないですか」

 ノウラが小声で咎めつつ茶器と菓子とドライフルーツを盛った皿を並べた。ラクシュミーは身を起こし、タマリンドの実の砂糖漬けを摘む。堅い果肉を噛むと甘酸っぱさが口に広がった。少し前まで苦手だったこの味が、ここ最近は食べないと落ち着かないくらいになっていた。

「ちゃんと気をつけてるわ、大丈夫」

 ノウラの疑わしげな目を、ラクシュミーは軽く受け流した。ノウラが唐花模様の磁器に紅茶を注ぐ間も、ラクシュミーの菓子を摘む手は止まらない。

「近頃、ラクシュミー様は熱心ですね。面白いですか?」

「ええ。陛下が歴史に興味があるのも分かる気がするわ」

 結婚して一年半が経ち、少しずつだが夫への尊敬の念が湧いてきた。形ばかりの蒐集家が多い中、ガンガーダル・ラーオは必ず目を通してこの部屋に置く本を厳選しているという。

 ヒンディやマラーティだけでなく、サンスクリットやペルシャ、本来なら目もくれないようなウルドゥーの書籍まで、全て読破している。歴史が詳しいと自負するだけあって、何を尋ねても答えが返ってくる。

 もちろん日々の祈りは欠かさず、ブラフマンの義務もきっちりと果たしている。ヴァラーナシー巡礼の間に見せた、夫の真摯な祈りの姿が脳裏に焼きついていた。

「機嫌が直られたみたいですね。さっきまでタラ・バイ様に怒られてむくれてらしたのに」

「別に、いつも通りでしょ」

 平然を装って抗議したが、ノウラに図星を指されて頬を染めた。実のところ、先ほどから妙に気分が弾み、タラへの不満もどこかに吹き飛んでいた。

「マヌ様って嘘が下手ですよね。公館の方にお会いできたから、でしょう?」

 こうして二人きりでいる時のノウラの口振りは、ビトゥールにいた頃のものに戻っている。人目を気にするノウラにとっても、図書室は落ち着く場所なのかもしれない。

「だって、どんな反応をするのか、見てみたかったんだもの」

 ラクシュミーは居直って、つんと顎を突き出す。茶器を取り上げて、紅茶を口に含んだ。

 最初ラクシュミーを見た青年は、一瞬不思議そうな顔をしていた。祝祭で会った時より少し伸びた金髪と、わずかに見開かれた榛の瞳。肌も過ごした月日だけ焼けているようだった。親近感の湧く笑みを浮かべるエリスに比べると、彼の笑顔は少々ぎこちない。出会った時のしかめ面の印象が強いせいだろうか。

 彼の目線が追ってくるのを意識しつつ、いつ気づくのか、ラクシュミーはどきどきしながら待っていた。果たして彼は、些か大袈裟なくらい驚いていたので、ラクシュミーの目標はひとまず達成された。

「気持ちは分からなくはないですけどね。綺麗な人たちでしたし」

 男性に対して妙な評価を下した侍女に、ラクシュミーは首を傾げた。

「姿勢が、です。ビトゥールに来ていたイギリス人もそうでしたよ」

 ああ、とラクシュミーは納得した。確かに、彼らの凛とした立ち姿には一分の隙もなかった。さっき通りかかった厩舎には、見慣れぬ馬が二頭並んでいた。彼らのものだろう。きっと上手く乗りこなすに違いない。

「お顔も陛下よりずっとお綺麗でいらしたのは、確かですけれど」

「……ノウラって、時々ものすごーく、怖いもの知らずよね」

 もし誰かに――特にタラに聞かれていたら、早急に湖に沈められてしまうところだ。

「マヌ様は、ちょっと鈍いと思います」

 ノウラはラクシュミーの側に膝を突いて、声を低めた。

「突然なあに?」

 ラクシュミーが促しても、ノウラは暫く言い淀んだ。やがて、決意したように深く息を吸い、口を開く。

「あたし、陛下が突然政務に目覚めたとは思えないんです」

「そうでしょうね」

「だって……って、えっ?」

「きっとお願いされたのでしょう。踊り子よ。とっても綺麗な人なの」

 ヴァラーナシー巡礼への出発前に呼んだ新しい楽団を気に入った夫は、戻ってきてからも事ある毎にこの楽団に芸を披露させていた。その中に、一際踊りの上手い女性がいたのだが、このところ彼女は宴のない日でも、頻繁に城で見かけるようになった。

 妖艶な美貌としなやかな肢体を誇る踊り子は、男装して馬場に向かうラクシュミーに、勝ち誇ったように蠱惑的な厚い唇を持ち上げた。その深長な微笑みで、直感した。夫の寵が彼女に移ったのだ。ラクシュミーが床に呼ばれる数が、片手で足りるほどに減ったのもそれを裏付けた。

「今日の会見だって、ラクスマン・ラーオが居ない頃合いを見計らってたのよ。よほど知られたくなかったのね。陛下がお話なさっていた土地って、彼女の生まれ故郷なのよ」

「な、なんでそんなにお詳しいんです……?」

「軽く城を一巡りすれば、すぐに分かるわよ」

「! またジェルカリーに身代わりをさせたんですか!?」

「ちょっとだけよ。タラにばれてないわ」

 ノウラが青くなったり頭を抱えたりする横で、ラクシュミーは続けた。

「城の中じゃそのことで持ちきりよ。でもわたしが姿を見せるとすーっと静かになるの。いっそ直接言ってくれるほうが親切ね」

「マヌ様は、その……悔しくないんですか?」

 ノウラの問いに、ラクシュミーは苦笑した。夫への関心が薄かった己に、今更悔しい、寂しいと夫を詰る資格があるはずがない。

「王に愛人がいるなんてよくあることよ。結婚する前からいたらしいし。でも、王子は王妃にしか産めないのよ。わたしが死ねば別かもしれないけれど……」

「縁起でもない!」

 悲鳴を上げるノウラを「例えばの話よ」と宥めてから、ラクシュミーはふと神妙な顔つきをした。

「例え、愛人のお願いでも、王が政務に励んでくださるのは、民にとっても良いことよ。……わたしには、できなかったことだわ」

 それどころか、考えつきもしなかった。王の統治はラクシュミーの領域ではないと、どこかで突き放していたのだ。

 もちろん、ただの踊り子が甘言で王を動かすことが、政道として正しいとは言わない。だが、少なくとも宰相を通さず、王自身が判断するきっかけを与えた。

「わたしは世間知らずで、愚かな子供だったの。王妃として国を治めることについて、真剣に考えてなかったわ」

 図書室は最初、寂しさを紛らわすだけの逃げ場だった。だが、タートヤの声を思い出す内、クリシュナ神自身が、ラクシュミーに語りかけているのだ、と気ついた。王妃として成すべきことを成せ、と。

(ここにわたしを導いたのも、クリシュナ神の御意志だったのかもしれない)

 ラクシュミーは目を伏せ、開いた本の頁をそっと撫でた。

「今更だけど、ちゃんと知りたいの……ジャーンシーのこと。それこそがわたしの、本当の義務ダルマだったんだわ」

 女としてのダルマは子供を産めば終わりかもしれない。だが、ラクシュミーはブラフマンで、ジャーンシーの王妃なのだ。ブンテルカンドの、複雑に織られた歴史を把握するだけでもやっとのラクシュミーに、王を支えられるのか、分からないけれど。

「マヌ様……何だか、別人みたいです」

「わたしはわたしよ。これからもずっとね」

 明るく断じるラクシュミーに、ノウラは喉を詰まらせた。ややあって、そうですね、と応じたノウラの声には、かすかな憂いが滲んでいた。

「王妃としてご立派な意識を持たれたのは結構ですけど……振る舞いも見合ったものになさいませんと、説得力がございませんよ」

 ノウラの指摘に、ラクシュミーはうっと一瞬詰まった。

「分かってるわよ。でも今日は何だか怠くて……」

 言葉にしてみて、ようやくそうだった、と自覚した。朝起きた時か妙に身体が重く、軽い目眩も感じていた。宮殿生活に慣れてきたところだ。気が緩んで、少々疲れが出たのだろう。

「まあ、風邪ですか? それならそうと早くおっしゃってください!」

 途端にわたわたし始めるノウラを見て、大袈裟にされるのが嫌で黙っていた、とは言えずラクシュミーは渋々身を起こす。と、

「――マヌ様!」

 気がつけばノウラの腕の中にいて、あら、とラクシュミーは目を瞬かせた。思ったよりも、重症みたい。

 大丈夫よ、と言おうとしたらノウラの手が額に触れた。侍女の冷たい手が殊の外心地良く、しばし身を預けていると、ノウラが渋面を――彼女のそれは泣き顔に見える――作った。

「少しお熱があるようです……王妃の宮殿ラーニー・マハルに戻りましょう」

 ラクシュミーはえっと声を上げる。もう少しだけ読みたかったのに。確かに足下がふわふわしているような感覚はあるが、それだけなのだ。

 だが、ノウラは断固としてラクシュミーの長居を許さず、宮殿に戻るよう急かすので諦めた。ノウラに余計な心労をかけまいと、立ち上がった瞬間、ぐらりと視界がぶれて世界が早回しになった。

「大丈夫ですか!?」

 気がついた時には真上にノウラの顔があって、彼女の肩越し、図書室の天井が見える。寺院の如き立派なテラコッタ装飾はエナメルの釉薬で彩られている。題材は恐らく『ラーマーヤナ』の一節だろう。

 慌てて身を起こそうとしたが、猛烈な吐き気が襲ってきて口元を押さえた。

「嫌ぁ……嫌です、マヌ様、死なないでください……!」

 ノウラの絶望的な声を耳に入れながら、口の中に沸いた酸を必死に飲み下した。嘔吐感の波が引くのを待って、ラクシュミーは声を絞り出す。

「ノウラ、安心して……宮殿に、タラ・バイに使いをやって……」

「わ、分かりましたっ」

 ノウラの足音がぱたぱたと遠ざかっていくのを聞いてから、どれくらい経っただろう。突然抱き上げられて、その衝撃でまた酸がせり上がってきた。

「吐きそう……」

「我慢なさいますな。吐いたほうが楽になるでしょう」

 薄目を開けて確認するとタラ・バイだ。彼女の逞しい腕がラクシュミーを軽々と抱え上げていたのだ。タラ・バイの歩みに合わせ、周囲にはパルダーを持った宮女たちが着いてくる。

 王宮を出たらしく、街中の喧噪が耳を通り過ぎていった。意味を成さない雑音は姦しく、揺れの不安定さもあって気分は最悪だ。歩いて十数分とかからない道のりが、今この瞬間だけは酷く遠く感じる。きつい日差しのはずなのに身体の震えが止まらない。額に脂汗が浮くのが分かり、それがなおも怖気を誘った。

 王妃の宮殿ラーニー・マハルに到着した頃には、ただただ気分が悪く、代わる代わる誰かに抱えられていた気がするが、誰なのかを判別するのも面倒だった。タラに「ご安心ください、大丈夫ですよ」と背を撫でられて、安堵の息を吐くと同時に、吐き気に耐えられなくなった。

 あてがわれた水差しを拒否して、適当に掴んだ深い盆に顔を寄せ、気が収まるまで胃の中身を吐き出すと、少し楽になった。

「ご気分はいかがです?」

 呼吸も荒く、せき込んだ小さな王妃に、タラは冷たい果実のジュースの注がれた硝子の杯を差し出して勧めた。躊躇いなく受け取って一気に干すと、ようやく人心地がついた。

 すぐさま典医が飛んできて、ラクシュミーを診察し始める。単なる風邪だろうに大袈裟な、と内心呆れたが、診察を終えた典医はにこりと微笑んだ。

「おめでとうございます、ラクシュミー王妃殿下。ご懐妊であらせらせます」

 ラクシュミーが、典医の台詞を噛み砕いて理解するよりも早く、側のタラが歓声を上げた。ノウラや宮女たちも同じように喜色を浮かべ、先ほどまでの緊迫感はどこへやら、一気に和やかな空気に変じた。

 お腹を見ても、正直何も変わらないが、周囲から祝辞を授けられて、じわじわと実感が湧いてきた。

(わたしの中に、新しい命がある……藩王様の子が)

 そう理解した途端、全てが豹変した。今まで見ていた景色は、被っていた薄紗の覆いを取り払い、曇りのない姿をラクシュミーの前に顕した。その場に流れる空気すら、光を含んでいるかのように眩しい。

 ああ、という意味の成さない嘆息がこぼれ、感謝の祈りを自然と口ずさんでいた。 

 ラクシュミー王妃懐妊の報は、宮殿中を駆け巡り、後継問題に悩まされていた重臣たちは安堵の息をついた。民への公布は安定期に入るまでしばし控えることとなった。

 結婚から一年と二ヶ月。待望の吉報に、ガンガーダル・ラーオも相好を崩して喜んでいたのが――ラクシュミーにとっても意外なことに――何よりも嬉しい。

 口うるさいだけだったタラの存在も、子供ができてからはその甲斐甲斐しい献身ぶりを見るにつけ、つい口元が緩んだ。

(願わくば、生まれてくる子が男の子でありますように。そして、立派な王となって、ジャーンシーを導いてくれますように)

 日々膨らみゆく腹に手をあて、ラクシュミーは心から祈った。


 一八五三年は、ジャーンシーにとって転機とも言える年だ――とリアムは自身の日記にそう記している。

 後年になって読み返した際に蘇ったのは、苦々しさと後悔の念だったが、この時のリアムは純粋に王妃出産の報を目出度いことだと思っていた。

 マヌ、と呼ばれていた少女が、それなりの身分であることは最初の時点で気づいていたが、まさかジャーンシー王妃ラクシュミーその人だとは思わなかった。あんなにも大胆な王妃は、この先もきっと現れないだろうな、と苦笑した。

 何はともあれ、公館内でも王妃の懐妊は喜ばしいことだ。これで無事に男子が生まれれば、後継問題は速やかに解決する。現総督ダルフージの発布した失権政策ドクトリン・オブ・ラプスは併合を強硬に押し進めるためのもので、後継がなければ遂行せざるを得ないが、却って怨恨の種を蒔くことになる。

 ジャーンシーは藩王の健康が不安定なことから、王の甥や叔父が後継に名乗り出る可能性が以前から懸念されていた。ガンガーダル・ラーオ亡き後、王位を巡るいざこざが起こるのは必至だった。

 王妃の子が男子であれば良い――その望みは宮殿においても、公館においても同様だった。未だ十七の若さを誇る美貌の王妃は十何時間という難産の末、皆の希望に応える形で王子を出産した。

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