06. 巡礼の旅
ヴァラーナシーへは、幾つかの街を経由することになっていて、中でも故郷ビトゥール近くのカーンプルに立ち寄れると聞いて、ラクシュミーの顔に喜色が浮かんだ。
(お父様やナーナーにも会えるかもしれない)
二度と会うことはないと覚悟を決めてはいたが、期待せずにはいられなかった。
「ラクシュミー、これは里帰りの旅ではないんだよ」
ガンガーダル・ラーオは子供に言い聞かせる口調で告げる。穏やかに微笑んではいるが、わずかな呆れも感じ取り、ラクシュミーは慌てて詫びた。
「もちろん立ち寄りはするが、歓待などは要らないと断っている。ラクシュミーも精進潔斎して過ごすんだ」
「畏まりました、陛下」
表情に出さないよう気をつけたが、落胆したのは言うまでもない。懐かしい人とも会えず、ヴァラーナシーに着くまで、隠者のような生活をせねばならないのだから。
ラクシュミーはこれでも信心深いほうで、日々の祈りは欠かさず、マントラをきっちりと唱えている。だが、夫はそれ以上に深く帰依しているようだった。
輿入れの時は殊更ゆっくりとした旅路であったし、供の数も多かったから二ヶ月もかかったのだが、今回は供も少なく豪奢な装いもない。カーンプルには十日あまりでたどり着いた。
その途端、ラクシュミーは挨拶に向かう夫と別れて、寺院に込められた。薄暗い寺院には参拝者をもてなす間があり、旅の間世話をする侍女と二人で夜を明かすことになっていた。ほぼ豆だけの夕食を採ってから、
昼間は昼間で口にできるものは水と牛乳、果物だけ。ナヴラトリの祭ですら断食は九日間なのに、これが巡礼の間中続くのだ。
生気がありあまっているラクシュミーにとっては、閉じこめられることも食事を制限されることも苦痛以外の何物でもなかった。
おまけに、旅についてきた侍女は見知らぬ顔で、気心も知れない娘だった。せめて憂さを晴らすためにお喋りでもできたら、と色々話しかけてはみるのだが、娘の反応はいまいちで、打ち解けるつもりはないようだった。
(……早く旅が終われば良いのに)
旅立ちからさほど経っていないのに、なんと長く感じることか。二ヶ月も耐えられるのだろうか。
寺院に寝台などある訳もなく、床の上に敷いた薄い絨毯の上に横たわると、ラクシュミーは無理矢理目を閉じて眠りの精を呼び込んだ。
カーンプルでの滞在は三日間だった。三日目の晩にガンガーダル・ラーオがラクシュミーの元を訪れ、ここからは船でヴァラーナシーを目指すと聞き、少しだけ機嫌が上向きになった。ラクシュミーはこれまで船に乗ったことがないのだ。
夫はヒンドスタンの地図を広げ「ここがカーンプルだ」と指をさした。
「近くのガンジス川を下って、ファテープル、アラハバードでは寺院に立ち寄ることになっている。そして、最後は聖地ヴァラーナシーだ」
旅の行程をひとつひとつ確認しながら指を滑らせてゆくのを、ラクシュミーは注視する。地図だととても近くに見えるのに、実際に訪うのは新年を迎える直前なのだ。
「代々ネワルカー王家の長子は、こうして巡礼することが慣例になっておるのだ。ラクシュミーにとってはつまらぬことかもしれんが、耐えておくれ」
「つまらないだなんて、そんな」
図星を突かれたラクシュミーは、慌てて首を振った。
「この旅が陛下にとって大事なお役目だと心得ております」
「なら良いがね」
おっとりと笑うガンガーダル・ラーオに合わせて笑顔を浮かべながら、心はずしりと重かった。ラクシュミーが夫にさほど関心がないのと同様に、夫もまたラクシュミーのことを持てあましているのだろう。ただ、夫はもう四十で、長く生きている分本音を隠すのが上手なのだ。
「バージー・ラーオ二世殿も、ナーナー殿もご壮健だ。ラクシュミーによろしくと言っていたよ」
「……ありがとうございます」
夫の気遣いに謝意を示すべくその足下にひれ伏し、足の甲に手を触れ、その流れで自らの頭を撫でる。
プラーナムの礼を取ったラクシュミーの姿に、心動かされるものがあったらしい。ガンガーダル・ラーオにそっと抱き寄せられたが、この時は自分でも不思議なほど抵抗がなかった。
(慣れるのかしら。こういうことって)
旅の間、夫の気が向けば肌を重ねた。一ヶ月も経つと、日がな一日寺院で祈りを捧げることや、質素な食事に不平も不満も感じなくなった。それと同時に、夫の求めに応じることもすんなりと受け入れるようになっていた。
祭祀を行う者を絶やさぬことは家長の義務であると同時に、ラクシュミーの義務でもある。故郷で散々聞かされたことではあるが、実感が伴っていなかったのだ。
(でも、今なら分かる気がする)
ラクシュミーは己の身内に、かすかな神の息吹を感じ取っていた。毎日の精進が、寺院という聖所が、ラクシュミーの魂を研ぎ澄ませているのだろうか。
その不思議な感覚は、ヴァラーナシーに到着してもまだ続いていた。巡礼中のラクシュミーは、常のお転婆や好奇心もなりを潜め、導師の教えを良く聞き、神妙にしていた。
最初に足を運んだのは
(ノウラは、陛下が立派なブラフマンじゃない、と怒っていたけれど)
近くの寺院を礼拝のした後、沐浴のためにガートに向かいながら、ラクシュミーは幼なじみのふくれっ面を思い出す。
(この旅がなければ、わたしもそう誤解したままだったかもしれない)
ガンガーダル・ラーオの神への帰依は本物だ。バラモンとして不足ない礼拝と信心を持っている。子がいないから、未だに現世を生きているけれど、年齢はそろそろ隠棲を考える頃だ。もし許されるなら、今すぐにでもジャーンシーの王宮からヴァラーナシーの
ガートの階段は幅が狭く、段数も多い。難儀そうな夫を支え、励ましつつガンガーの流れに身を浸す。
ラクシュミーは水をすくい、太陽に向かって掲げてサヴィトリ讃歌を唱えた。深く息を吸って頭まで河に潜る。十月も終わりに近づいたガンガーの水は冷たく、肌が粟立つほど。だが、かえって身の締まる思いがする。こうして聖水に晒すことで、罪や汚れが浚われていくのだ。
アッシー・ガートから北のダシャシュワメーダ、アディー・ケシュワ、そこから下ってパンチャ・ガンガー、そして火葬場として名高いマナカルニカ・ガートへ至った。
「……ここが、ヴァラーナシーなのね」
五つの川辺で沐浴を終えたラクシュミーは、ガートに座り込んだまま感慨深く呟き、目の前に横たわる聖河を眺める。
川面には
時はいつの間にか過ぎ去り、空を覆っていた真っ青の緞帳は遙か天上に巻き上げられ、居並ぶガートの群は西に傾いた日輪によって、こっくりとした琥珀色に染まっていた。
霞がかった山の稜線からは、夕焼けの切れ端がちらりと覗き、雲の縁が紫に燃え上がる。それまるで、
「そうだよ、ラクシュミー」
ガンガーダル・ラーオの口調にも、しみじみとした響きがあった。河からラクシュミーに視線を移した夫の顔は、清らかさに溢れていた。
「巡礼に来て良かっただろう?」
はい、と心の底から同意を示すと、ガンガーダル・ラーオは満足そうに頷く。
二人は一度ヴァラーナシーにある別邸に戻った。ラクシュミーは与えられた部屋で水気を拭い、新しいサリーに着替えると、市街地にある寺院へ出向いた。
黄金の円蓋を戴くヴィシュヴァナート寺院に続いて、全てが赤く塗られたドゥルガー寺院を訪った二人は、伽藍の奥に在す女神の像の前に膝をついた。
導師と共にマントラを唱えながら、古式に則った作法で床に額づく。歴代のネワルカー王家の長子とその妻たちも、同じように祭儀を行ってきた、その歳月の重みと祖霊との繋がりを得た気がした。
ドゥルガー寺院を出る頃にはすっかり日が落ちており、
ダシャシュワメーダ・ガートでは毎日礼拝が行われており、多くの人々で賑わっている。寺院から別邸に戻ってきたラクシュミーは、厳粛な気持ちの余韻を味わう暇もなく、侍女の手によって絹のサリーに着替えることになった。
巡礼中は慎ましく綿のサリーで過ごしていたが、もう終わったので新年に向けて装いを改めるという。気兼ねしなくても良い綿のサリーは着心地も良かったから、少し惜しい。
侍女は常と同じく愛想も浮かべず、黙々とラクシュミーを飾り立てていく。孔雀色のサリーはヴァラーナシー産の高級品だ。色の鮮やかさ、光沢の美しさは他と一線を画していることは、生地の善し悪しに疎いラクシュミーでも分かる。金の装飾品は相変わらず重くてうんざりするが、祝い事の前の、そわそわする空気は嫌いではない。
衣装が整うと髪を結い直し、結婚式と同様に魔除けの
巡礼の旅が終わってしまう。ヴァラーナシーに滞在するのは、
「……でも、やっぱりノウラに会いたいわね。ノウラもヴァラーナシーに連れていければ良かったのに」
彼女がいれば心強いだけでなく、聖地の素晴らしさを一緒に感じることができたのに。旅から帰ったら、話したいことが沢山ある。一体何から話そうかしら、と空想していたら食事が整ったという声がかかった。
別邸は、
別邸の中央の広間には既に食器が並び、ガンガーダル・ラーオの姿もあった。久方ぶりに着飾った妻を見るなり相好を崩した。
「ラクシュミーは明るい色がよく似合う」
「ありがとうございます」
こうして、食事を共にすることは珍しい。巡礼明けのお祝いといったところだろうか。
夫の隣に座ったラクシュミーは、並んだ料理を見て両目を瞬かせる。香ばしいチャパーティーに、ミントやマンゴー、タマリンドのチャツネ。銀の大皿に盛られたビリヤニは、クローブやシナモン、サフランで風味づけした米にカレーを重ねて炊き込む一品だ。ナッツやドライフルーツ、花で飾られたそれは大変手間がかかるので、特別な時にしか饗されない。
他にも、トマトとタマネギにヨーグルトをあえたサラダ《ライタ》、ほうれん草や葉辛子、ジャガイモを煮込んだサーグ・アルー……今までの食事がいかに粗末であったかを、知らしめるかのような品数だった。
「ディーワーリーの前日にはまた断食せねばならん。ラクシュミーには無理を強いたからね、ほんの労いだよ」
「まあ……」
言葉に詰まって、それだけしか言えなかった。気を使わせている、という罪悪感よりも、心遣いへの感謝が勝った。
その夜は、あたかも神とひとつになったかのようだった。あらゆる雑念がそぎ落とされ、ただ信愛だけが胸にある。
(この身体はわたしのものであって、わたしのものではない。この意識はわたしのものであって、わたしのものではない……)
まるで広大な闇の海を、たゆたっているかのようだった。聖河に身を委ねた時と同じ安堵と心地の良さに、ラクシュミーは深く沈んでいった。
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