第17話 Share a quarter -貴方のための唄-.7

「御剣先輩」


 今日、何度目かになる、後輩の苛立ち交じりの声に私は顔を上げる。


「…なに」


「なに、って…」


 心配そうにしている霞が視界に映るも、厳しく眉を曲げた長瀬に引き戻される。


「御剣先輩。ちょっとは集中して下さい。さっきから同じところ何度もミスってますよ。いや、それどころか、できてた部分まで…」


 メロディが、音色が、そのどれのひとかけらもが指先に宿らない自覚のあった私は、何も反論しようとは思わなかった。気力がなかっただけ、と言われれば、そんな気もする。


「はぁ」


 失意の一滴のようにため息だけがこぼれる。もう何度も雨どいから垂れたものだ。それを耳にして、長瀬の顔がさらに苛立たし気に歪む。


「御剣先輩、もう一回やりましょう」


 私は力なく首を振る。


「…休憩」


 私がそう告げ、肩に下げていたギターを外して壁に立てかけた矢先、長瀬が目くじらを立てる。


「さっきも休憩取ったじゃないですか!」


「友希ちゃん、ちょっと…」


 霞がすぐに間に入るも、長瀬は鬱陶しそうにそれを遮る。


「文化祭、明日なんですよ!?」


 そうだ。文化祭は明日なのだ。


 曲自体は比較的、問題なかった。しかしそれは、私が和歌と音信不通になる前の話だった。


 あれから、和歌は私の連絡に一切反応を示さなくなった。着信拒否、ブロック状態のために電話やメッセージはもはや何の頼りにもならず、母伝いに連絡を取ろうと思っても、和歌とやり取りをしているらしい彼女が、『今はそっとしてあげたほうがいいわ』なんて言うから、どうにもならなかった。


 私の音楽は、私のためにある。自己表現のために。ただ、その例外があるとすれば、それは愛する者のために弾く場合だ。


「それなのに、こんなていたらくで…!」


 段々強くなっていく長瀬の言葉。それにも関わらず、私の魂は腐ってしまっていて、何も言い返そうという気になれなかった。


 そんな中、長瀬を宥めようとしていた霞や伊藤と違い、沈黙を保っていた奏がとうとう動き出す。


「友希」


 鶴の一声が響き、長瀬の動きが止まる。


「言い方、悪いよ」


「奏先輩、でも…!」


「はいはぁい、『でも』なんて言わない。誰しも調子が悪いときはあるでしょぉ」


「それは…」


 私は奏の言葉を聴きながら、自己嫌悪に陥っていた。いつも人の気持ちなんて考えていそうにない奏からもフォローされたことがショックだったのだ。そんなにも自分の状態は酷いのかと。


 しかし、長瀬はそれだけでは私を叩き直すことを諦めなかった。


「でもやっぱり、おかしいですよ。御剣先輩。調子が悪いってレベルじゃなくて…なんか、演奏そのものがどうでもよくなったみたいに…!」


 私はそれを聞いて、ふっと笑ってしまった。それが長瀬の怒りの炎を加速させることを重々理解していながら。


「何を笑っているんですか!?」


 そんなもの決まっている。長瀬の言う通りだと思ったのだ。


 魂を震わせる唯一の手段だと思っていた、音楽。それが今、私の魂に何のエネルギーも与えていなかった。


 これしかないと思っていた。そう信じられていたときは、感じたことのない虚無感。


 どうでもいいんだ。きっと。


 和歌さんが悲しんでいること、和歌と話せないこと、和歌の気持ちが理解できないことに比べれば…。


「カッコ悪いですよ、御剣先輩!」


 だからなんだ。


「先輩らしくない、新歓ライブのときとはまるで別人です!」


 私らしいって、なんだ。


「友希、もうやめなよ…」


「真那まで!」


 伊藤が幼馴染を止めに入ったその隙に、奏と霞が覇気のない私の元へ来て声をかける。


「一葉。和歌さんのことで落ち込んでるのは分かるけど、今は切り替えられない?」


 霞の優しい声にも、私は依然として首を横に振る。


「一葉はぁ、和歌さん至上主義だから」


 奏がからかい交じりで言った言葉。それは今の私の核心を突くものであると同時に、長瀬の怒りを再燃させるものであった。


「和歌さんって…この間の、叔母さん、ですよね。なんで今、親戚の名前が出るんですか」


 親戚、という表現に私はモヤッとしたものを覚える。その言葉は、私が見たくない現実の象徴だった。


「長瀬に関係ない」


「関係ない?」生真面目そうな面立ちが歪む。「関係なくないでしょ、だって、その人のせいで今、みんなが上手くいってないんでしょ!?」


 その一言は、油を差していないブリキのような私の心にさえ大きな波を立たせた。


 逆鱗を不用意に刺激された私は先ほどの無気力な装いとは打って変わって、その激情を一歩、一歩に込めた足音を立てて長瀬に近寄ると、胸倉を掴み上げる。


「何も知らないくせに、分かったような口、利くなっ!」


 長瀬も掴みかかりこそしないが、言い返してくる。


「分かりませんよ!何も教えてくれないじゃないですか!?」


 慌てて霞と伊藤が私たちを引き剝がそうとするが、至近距離で睨み合ったまま私たちは続ける。


「あんたに教える義理はない!」


「いつもカッコつけてる御剣先輩があんなカッコ悪い演奏をしておいて、よくそんなことが言えますね!?口だけですか、結局!」


「な…!?」


 一瞬、くらりとくる。さっきも似たようなことを言われていたはずなのに、何かが違ったし、いつか、誰かに同じことを言われて猛火の如く怒り散らした記憶があった。


 怯んだその隙に、長瀬は叩きつける。メロディに乗っていない魂の言葉を。


「好きじゃないんですか!?音楽!」


 好きか好きじゃないか…そんな馬鹿みたいな問いの答え、決まり切っているはずなのに、私の喉は、いつもみたいに音楽の在り方を叫ぶことはなく、ただ、詰まった古いトイレみたいに澱みを生むだけだった。


 私は苦し紛れに強く長瀬を突き放すと、たっぷり一分近く睨み合った後、自分の荷物を引っ掴んで部室を出た。


 ギターも、仲間も、もしかすると誇りさえも置き去りにして…。




 文化祭当日。私の心は暗雲立ち込めたまま、体と同様動けずにいた。


 校庭の端に座り込んで、駐車場と化しているグラウンドに出入りする車を観察し始めてから、もうどれくらいの時が経っただろう?東で光り輝いていた太陽は、すでに西へと傾き、光の色も段々赤色が強まっていた。


 そばに空っぽになった水筒と寂しそうなギターを置いて、私は体育館のほうを見やる。


 聞こえてくるのは、吹奏楽部の演奏。軽音楽部とは楽器の量も違うから、大きな建物全体が震えているような気がした。


(――もう、軽音楽部の演奏は終わっている頃だろうな…)


 よぎるのは、奏と霞、そして、苛立った長瀬の顔…ついでに、伊藤。


 私は、彼女らの求めに応じず、時間になっても体育館に向かわなかった。聞き慣れたメロディ――私たちが弾く予定だった曲は聞こえてきていたから、演奏自体は長瀬をメインギターにして行ったようだ。だが、勝手な妄想かもしれないが、どれだけ楽譜通りの演奏であっても、音からは力を感じなかった気がする。


 演奏の前に一度だけ、奏が私のところへやって来た。


 てっきり、時間がきたから役目を果たすよう伝えに来たのだと思っていたが、彼女は手短に私に質問すると、黙って時間ギリギリまで一緒にグラウンドの入口を見つめ、やがて、ふらっと体育館に戻った。


 質問というのも、「和歌さん来ない?」と「来ないなら、弾かない?」の二つだけだ。私はそのどちらにも頷きでしか反応しなかった。


 長瀬は激昂しただろう。彼女は責任感が強い。いや、普通のことを普通に守ろうとする人間というだけか。伊藤は無関心な気がするが…霞は……心配してくれている気がする。


 ぼうっと、空を眺める。東雲と共に少しずつグラデーションを描いていく天空世界は、私が思考の海に没頭することを助けた。


(和歌さん…泣いてた)


 恋人なんて、簡単に言うな。そう言って、和歌は泣いた。


(…私、やっぱり自己中なんだろうな…)


 許可なく和歌の気持ちを決めて、触ろうとしたり、問題を考えることを避けたり…今回みたいに、責任を放り出したり…。


 私は、私がしたいことだけができる世界で生きていけると思っていた。いや、まだ思っている、かも。


 でも、和歌さんはそうじゃないって言うんだ。


 自分の人生なのに、“みんな”が気になってしょうがない。“みんな”の言うことが正しくて、自分たちがダメだって?


 自分を貫くこと。それがロックであり、音楽だ。


 だけど……今、私はそれを見失っている。


 和歌のそばでは彗星みたいに過ぎていく時間が、音楽も大事な人もいない今日は酷く鈍足だった。


(…どうすればいい、私…)


 決して誰も答えてはくれない問いだ。こういうときに頼りにできるものは自分と音楽だったのに、それは今、何の頼りにもならない。


(和歌さんも、こんなふうに悩んでいたのかな…だったら、きっと、きつかったろうな…)


 項垂れ、酸素を求めてあえぐ。だけど、そうしたところで何の落ち着きも得られない。あるのは空虚な雑草の臭いだけ。


 肺の中の酸素を吐ききるべく、もう一度深く呼吸をしようとした。そのとき、私は自分の制服のポケットで携帯が小刻みに振動していることに遅れて気がついた。


 どうせ霞あたりが気を利かせて電話をかけてきているのだろう、と鈍った感情で携帯の画面を見やったとき、私はそこに表示されている人物の名前に息を止める。


『和歌さん』


 私は数秒硬直した後、慌てて通話ボタンを押して携帯を耳に押し当てた。


「も、もしもし!?」


 わずかな無音が広がってから、聞き慣れた、今一番聞きたい声が返ってくる。


『……もしもし、一葉ちゃん?』


「はい、一葉です。一葉だよ」


『…今、ちょっとだけ大丈夫?』


「もちろん、もちろん。大丈夫」


 和歌を逃がさないよう、矢継ぎ早に紡ぐ言葉。自分の心の余裕の無さをひしひしと感じたが、そんな格好悪さがどうした、と私は心の底から考えていた。


『この間は、ごめんね』


「いや、そんな別に」


『急にあんなことを言われてびっくりしたよね。一葉ちゃんに偉そうな顔してお説教してたくせに…』


「あ、謝んないで。私のほうこそ、ちゃんと考えてなくて…ごめん」


『…うん…ありがとう』


 直後、嫌な間があった。何か大事な話を、言いづらいが、言わなければならない話をしようとしている、そんな気配を私は感じ取った。


『でも、やっぱり私自身、間違ったことを言ってないと思った。私たちの関係って、おかしいよ。一葉ちゃん』


 やっぱり、そうだ。


 彼女は終わりの唄を歌おうとしている。


「待って、和歌さ――」


『女性同士は別にいいと思う。それは、私たちの気持ち次第で、どれだけでも越えられる。でも、血がつながった者同士っていうのは、越えられない。越えられないよ。誰も認めてもくれない』


 和歌の声は震えていた。遠くから聞こえてくるバイクの音に容易くかき消されてしまいそうなほどに。


「わ、私は、いいよ。私たちがいいなら、それで」


『よくない…!誰も認めてくれない恋のせいで、貴方の未来も、現在も、奪っちゃう。それが一番……よくないっ…』


 あの優しく慈愛に満ちた両目から、涙の筋が伝っているのがありありと想像できた私は、また最愛の人を悲しませてしまっている自分に酷く絶望した。


「…だから、今日も来てくれなかったの?」


『…うん…行けないよ。私たち、おかしな関係だもん』


 和歌の言うことは正しいのかもしれない、と初めて考えた。彼女を幸せにできない姪(わたし)には、共に過ごす権利はないのかもしれないと。


「……もう…そばにいられないの?」


 気づけば、私の声も震えていた。


 でも、ぎゅっと歯を食いしばって涙はこらえる。


 泣くものか。絶対に。


 打ちのめされて、立ち上がれなくったって。絶対に白旗を揚げたくはなかった。


 私と和歌さんを傷つける、この世界の常識に負けることだけは、したくなかった。


「…――」


 和歌が大事な返事をしてくれただろうその瞬間、私のすぐそばの道を大型バイクが走り去った。マフラーを改造しているらしく、酷くけたたましい音を立てており、彼女の言葉が聞き取れなかった。


(くそがっ…!)


 バイクの騒音を忌々しく思いながら、念のため、和歌の言葉を聞き返そうと携帯をしっかり耳に当てた、その刹那のことだった。


 不意に、さっきと同じバイクの音が聞こえた。最初はまだ近くにバイクがいるのかと思ったが、すでに先ほどのバイクは真っすぐ伸びた道を進み、グラウンドの角近くの道を曲がって直角になぞるように青い空を切り裂いていた。


 ――音は、携帯から聞こえていた。


 私はすぐに彼女を探した。正確には、彼女の乗った車を。


 それは十秒も経たずに見つかった。路肩のほうで小さく肩をすぼめて停止している。


 どうして嘘を吐いたんだ。和歌は、私に会いに来てくれている。電話なら家からでもよかったはずなのに、こうして視界の届く範囲に来ている。


 私は思った。


 嘘を吐いたのは私を諦めさせるためだ。


 自分が自分に嘘を吐くことで…私を…。


 私はそれに気づいた直後、立ち上がっていた。


「和歌さん」


「…なぁに?」


「私のこと、もう好きじゃない?」


「……」


 やっぱり、そうだ。


 和歌の心と体は同じ方向を向いているのに、常識がそれを捻じ曲げている。


「会いたくない?」


「…会えない、よ」


「だから、今日も来なかった?」


「うん……」


「会いに来ようとも思わなかった?」


「…うん」


 私は無意識のうちに固く拳を握りしめていた。


 拍動する心臓。怒涛の勢いで流れる血液。


 怒りだ。


 何への?これは何への怒りだろう?


 和歌へのものではなかった。世間の常識――に対するものでもあったが、一番ではない。…そうだ、これは自分への怒りだ。情けのない、自分への怒り。こんなことで迷ってしまう自分の弱さを苛立つ怒り。


 それらは、私の魂を生き返らせる。


「和歌さん。ごめんね。独りで考えさせて。私が子どもで、向こう見ずだったから和歌さんを困らせたよね」


「…一葉ちゃん?」


 言葉とは裏腹に気力のみなぎった声音を聞かされた和歌が、怪訝そうに私の名前を呼ぶ。だがその頃にはもう、私はギターを担いで歩き出していた。


「これからは、ちゃんと一緒に考えるから。独りで終わりにしないで、和歌さん」


 音を広く届けるためのアンプはここにない。


 それでも、構わなかった。


 たった一人に届けばいい。


 私の音楽は、今はそのためにあった。


 朝礼台に上がり、ギターを構える。そんな私に気づいた何人かの生徒が不思議そうにしていることも、もはや一ミリも気にならない。


「口だけじゃないって、届けるから。そこから聴いていて、和歌さん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る