第16話 Share a quarter -貴方のための唄-.6
「え」
思わず、声が漏れた。私はとっさに口元を覆って何もなかったフリをしようと思ったが、土曜日の夕暮れ前、部活が終わって帰宅の準備に入ろうというちょっとした静けさの中では、その声はハッキリとみんなに聞かれてしまっていた。
「どうかしたぁ?」と奏が尋ねてくる。
さっき雨の降る中、表の自動販売機まで走っていったせいで髪に滴がついていた。それがどこか色っぽい。同じ様子の霞が子どもっぽく見えるのに不思議だった。
「…いや、別に」
慌てて誤魔化すが、奏には通じず、しつこく食い下がってくる。私はそれに耐えきれず、羽虫でも払うかのような手振りと共に答える。
「別に。色々あって、和歌さんが迎えに来てくれるようになったってだけ」
母は月に一度、祖父母の元に私を連れていく。曰く、親孝行らしい。
今では金銭的にも世話になっている部分があるが、昔は何もしてくれなかった祖父母に対し、そんなことが言えるから、母は懐が深いと思う。
それで、今日は学校帰りに仕事を早上がりした母が迎えに来る予定だったのだが…今日中に処理しなければならない仕事が出てきたから、土曜日は仕事のない和歌が代わりに来てくれるというのだ。
「へぇ、和歌さんが」
私はニヤニヤとこちらを見やる奏を適当に無視すると、期待感でドキドキする胸を抑えつつ、和歌へメッセージの返信を行う。
『ありがとう、和歌さん。ごめんね、お休みの日に』
『いいんだよー、気にしなくて。どこに迎えに行く?近くにコンビニでもある?』
『コンビニは少し遠いから、正門近くに停めてくれると嬉しい。同じように迎えに来た車が路肩に停まってるから、そんな感じでお願いしてもいい?』
『うん。分かった』
ぽん、と話の締めくくりに送られてくる、犬のスタンプ。ここで会話が切れるのがいつものことなのだが、私は和歌とのやり取りが久しぶりだったから、名残り惜しくてこんなことまで送った。
『久しぶりに和歌さんと会えるの、楽しみ』
数十秒待てば、スタンプが返ってきた。でも、いつのも照れたようなスタンプや、お礼を言うようなスタンプではなく、犬が、『了解』と敬礼しているだけのものだった。
やはり物足りなくて、さらに言葉を重ねる。
『和歌さん、早く会いたい』
しかし、返ってくるのはまた同じスタンプ。
忙しいのか、と思いつつ、ちょっと不満げに携帯から視線を離せば、すぐ横に奏が立っていて、あろうことか私の携帯を覗き込んでいた。
「ひゃっ!」
驚きのあまり、声を上げて飛び上がる。そんな私を見て、奏は高らかに笑い、霞は苦笑する。長瀬は不思議そうな顔をしていて、伊藤は物音に驚く小動物のようだった。
「あ、あ、あんた!急に人の隣に立つなよ!」
「ごめぇん、そんなに怒らないで、一葉」
奏は形ばかりの謝罪をすると、意味ありげな沈黙と微笑みの後、私が、「何」と睨むのを待ってからこんなふうにこちらをからかった。
「随分とご無沙汰だったみたいだからかなぁ?熱烈だわぁ」
「あ?」
一瞬、何のことか分からなかった私だったが、すぐに彼女が自分と和歌とのやり取りを盗み見ていたのだと気がつくと、たちまち声を荒げて激昂した。
「お前、まさか!人の携帯覗いたな!?」
「え?うふふ」
「ありえない!あー、くそっ!今日という今日は許さん!こっちに来い!無駄にデカい尻を蹴り飛ばしてやる!」
怒りのままに奏の背中を追うが、彼女は部室の端に置かれた長机の周囲を器用にくるくる回って逃れる。それでも怒号を発して奏を追い続ける私に対し霞が、「二人ともやめなよ…友希ちゃんも真那ちゃんも、びっくりしてるって…ってか、大人げない…」と呆れた声を出すから、私は歯ぎしりしながら動きを止める。
どうして私が子どもみたいに扱われるのか…。奏の相手をするのが悪いのか?しかし、彼女は放っておくと図に乗るし…。
私が抑えきれぬ苛立ちから肩で息をしていると、ぼそりと長瀬が霞に問いかけているのが聞こえた。
「霞先輩。なんで御剣先輩はあんなに怒ってるんですか?」
「え?あー…携帯覗かれたからじゃないかな?」
「その通りだよ!」と私が彼女らのほうも見ずに答えれば、長瀬がきょとんとした顔で、「見られて困るものでもあるんですか?」なんて尋ねるから、私はぐっと言葉を詰まらせる。
ここで『ない』と言えば、じゃあいいじゃん、ってなるし、逆に『ある』って答えれば、それはそれでからかわれるか、詮索されるなりする。
さすがの私も、私と和歌の関係性が、決して世間におおっぴらにできないことは理解している。別に私は恥ずかしく思わないけど…私がよくても、和歌が困るのだ。
和歌は当然、私との関係について誰にも言っていないそうだ。だから、それを知っているのは、本人同士と、奏と霞、そして、母――いや、母に知られているのが一番カオスな気がするが…。前にも言ったが、母は懐が深いのである。
…だがとにかく、この場での沈黙は得策ではなかったことは間違いない。これでは、探られては痛い腹があると言外に示しているようなものだ。
結局、私は大声を出してはぐらかすしかできない。
「――いいから、さっさと帰り支度しなよ!私、先に帰るからね!」
長瀬は納得いっていない顔のままだったが、伊藤に片づけを促されるとゆっくり私から視線を外した。
昇降口から出て校門に向かえば、路肩に和歌の車が見えた。
和歌さん、と心の中で唱えると、それをなぞるように霞が口を開く。
「あ、和歌さんもう来てるね」
霞も奏も、何度か和歌の車に乗ったことがある。一緒に遊びに行ったこともあるぐらいなのだから、一見して分かったのだろう。
「じゃ」
久しぶりに和歌に会える嬉しさから、私はほとんど振り返らずに駆け出す。
色とりどりの傘の塊から離れて、舞い落ちる一枚の葉のように和歌へ吸い寄せられていく私。
車の窓が開く。中から、愛しの和歌さんの顔が現れる。
「和歌さん!」
濡れるのも構わず少し遠めの距離から傘を閉じる。和歌は驚いた様子で、「あ、濡れちゃうよ」と口を開いたが、私はどこ吹く風、素早く助手席に滑り込んで彼女に話しかける。
「迎えに来てくれてありがとう。私、すごく嬉しい」
「え、あ、うん…どういたしまして、一葉ちゃん」
「待ってない?」
「うん。ちょっとしか」
「そっか、よかった」
久しぶりに和歌と話せる嬉しさに、何を話したって笑みがこぼれる。愛しい人と過ごす時間はやり取り以上の価値があるものなのだ。
不意に、運転席の窓の向こうに部員たちの姿が映った。
奏はニヤニヤ笑い、霞は半ば呆れたふうな、でも優しい笑みを浮かべている。その一方で、長瀬と伊藤は驚きに目を丸くしていた。
そうだ、一応人前だ。
私はまた月曜日にからかわれることを恐れ、和歌に発進してほしいことを伝えた。しかし、それを和歌が受け入れる前に、思わぬことに長瀬が走り寄って来ていた。
「え、な、なに!?」
ぎょっとして、私は強めの口調で言ってしまう。
「あ、いえ」青い傘を開いたままの彼女は、和歌にぺこりと頭を下げると、「御剣先輩、これ…落としましたよ」と赤色のピックをおずおずと差し出した。
「あ…」
別にピックが必須というわけじゃない。ただ、あれは…あれは、母さんがくれたおさがりのピックだった。
物心ついた頃には、すでに母から貰い受けていた大事な代物。
私はすぐにお礼を言って受け取ろうとした。だが、私より先に和歌が動いた。
「ありがとうございます」
柔和な笑みと共にピックを受け取る和歌。確かに、運転席側の窓から話しかけられているのだから、そうするのが自然だった。
「いえ…どういたしまして、です」
長瀬はそのままぼうっとした顔で和歌を見つめていた。それを目の当たりにした私は、『さっさと帰れよ』という言葉が喉まで出かかったのだが、和歌がお礼を言うよう優しく促してきたので、大人しく、でも淡白にお礼を告げた。
「ありがと、長瀬」
「あ、はい。どういたしまして…」
長瀬はさっきと同じような返答をしながらも、依然として和歌のことをじっと見つめていたのだが、ややあって、和歌が小首を傾げたことで口を開いた。
「御剣先輩の、お姉さん、ですか?」
「ちょっと、長瀬――」
和歌に話しかける許可なんて出してないぞ、とムッとして咎めようとした私を和歌自身が片手で諫める。
「いえ、叔母です。一葉がお世話になっています」
「…!」
一葉。
和歌は、私のことを呼び捨てにしない。いつまで経っても子ども扱いするみたいに『ちゃん』を名前の後につける。
それが今、この瞬間、初めて名前だけで呼んだ。
和歌にとってそれはたいしたことではないのだろう。いわゆる、いつの間にか先に大人になった和歌の、年相応の対応だ。しかしながら、雨音に混じって聞こえたその言葉は、私の鼓膜を特別な響きをもって揺らしたのである。
「そ、そうなんですか。失礼しました。あまりにお若くて…」
「え?あぁ…まあ確かに、歳もそんなに離れていないんです。この間まで大学生だったくらいですし…あ、それよりも、一葉は融通の利かない人だから、大変じゃないですか?」
私は、暗にこの間のことを責められているような気がして顔をしかめた。
「いえいえ!御剣先輩、かっこよくて、私、大好きです!」
雨天を切り裂く、太陽みたいな笑顔で長瀬が言う。さすがに恥ずかしくて、私は唇を尖らせる。
「おい、長瀬。変な冗談やめろ」
「嘘じゃないですって!ギターも、歌も、滅茶苦茶上手で、私、尊敬してます。考え方がブレないところも…あれ?これ、何の話でしたっけ?」
「はぁ、言わんこっちゃない」
長瀬は時折、こういうところがあった。生真面目なのでやり取りではいつも丁寧さを心掛けていることは分かるのだが、話が飛んでいったり、多弁になったりして、会話の着地点が見えなくなるのである。
「和歌さん、長瀬の言うことは適当に…」
私は額に手を当てて軽く首を左右に振りながら、和歌に迷惑がかかっていないか、変な後輩のせいで私まで呆れられていないかを知るべく、その横顔を盗み見たのだが…。
「…」
和歌は無言だった。
降り注ぐ弱々しい雨に、声がかき消されているわけでないのであれば。
しかも、表情が酷く暗澹としているような感じがした。今日はいつもより青白い。唇も半開きで話を聞いていないふうだし、目線もどこか遠い。間違いなく、彼女は今、『ココ』にはいなかった。
「和歌さん?」
心配になって名を呼ぶが、反応がない。
だから、私はその肩に手を伸ばし、触れた。
「ちょっと、和歌さんってば――」
そのときだった。
バッ、と和歌が私の手から逃れるみたいに体を動かした。
目を丸くした彼女と視線が交差する。和歌自身、自分が取った行動に驚きを隠せない様子だった。
埃っぽい沈黙が私たちの間に流れた。息苦しささえ覚える時間の中、ようやく動き出した和歌が長瀬に対し、「ありがとうね」と明らかな作り笑いを浮かべた後、車は重い空気の中、発進する。
車窓を隔てて流れ行く、すっかり散ってしまった桜並木。遠く見える青い山も同様に、彩りが失われて見える。この色褪せた空気の前では。
あえてハッキリと言おう。
私はこのとき、問題と対峙することを恐れた。
だから、うやむやにする笑みを浮かべてこんなことを話題にしたのである。
「わ、和歌さん。この間、言ってた文化祭の話、覚えてる?」
「…うん。覚えてるよ」
「その、来られそう?仕事、忙しい?」
「…仕事は…有給でも取れば大丈夫だけど…」
「だけど?」
歯切れの悪さに食いついてしまう。和歌の懊悩など微塵も気づけずに。
和歌は寸秒、遠くを見るような目をフロントガラスの先に向けた。しかし、そのうち顔をしかめると、苦しそうに言った。
「来ない、かも」
「え…?」
私は唖然とした。赤信号で止まっている、そんなときだった。
「な、なんで?来られるなら、来てよ。こ、恋人、でしょ?」
和歌はぐっ、と何かをこらえるようにハンドルを握ったまま俯いた。信号が変わったってそうしていたせいで、後続車にクラクションを鳴らされたので、私はムッとして後ろを睨みつけようとしたのだが、弾かれたように顔を上げた和歌が勢いよくアクセルを踏み込んだことでギョッとしてそれができなかった。
「そんな簡単に言わないでよ!」
和歌が、前を睨みつけたまま、そう叫んだ。その瞳から二筋伸びている涙の轍に、私は言葉を失うしかなかった。
「私たち…!私、たち…血が、つながってるんだよ…!?姪と叔母だよ?」
「わ、和歌さん」
「駄目だよ、こんなの…っ!」
苦しそうな和歌の眼差しが私を貫く。かなりの速度が出ているのに前を向いていない。
「ま、前、前見て、和歌さん。落ち着いて、前を――」
「見てるよっ!」
叩きつけるような一言。実際、足元でも蹴ったのか、鈍い音がしていた。
「……一葉ちゃんより、ちゃんと見てる…!ずっと…ずっと前から…」
私の青臭さが隠していた未来。それを独りで見つめていた和歌の懊悩。
何がきっかけにしてそれが爆発したのかは分からなかった。
ただ、私は…和歌と同じ方向を向いている気になっていたくせに、その実、全く違うところを…幸福だけでは成り立たないこの世界を知りながら、それだけが保証された未来を都合よく信じていたという事実に打ちひしがれ、何も…言えなくなるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます