第7話 Share a quarter -私と貴方-.3
次の日は、普段よりも二時間近く早く起きて、母と顔を合わせないで済むように家を出た。
友達にも恵まれなかった私は、家こそ安住の地と思っていたのに、それも昨夜の出来事で変わってしまった。
ギターを背負い、電車に乗り、駅に着いたら徒歩で十分。私の通っている高校はトータルで家から三十分ほどの距離にあった。
普段なら、朝のホームルーム5分前ぐらいに到着するのに、今日は二時間ほど余裕があった。そんな朝早くから登校するような変わった生徒は、部活動の朝練がある連中以外、誰もいなかった。
教室の隅、窓際の席に腰を下ろす。ギターも肩から下ろして、壁に立てかけた。しかし、すぐに手持ち無沙汰になってしまい、私は余計なことを考えることとなる。
――…母さんは、自分が和歌さんに向けた想いを、どう受け取っただろうか。
変人だとか、病気だとか思ってくれればそれでいい。
一番辛いのは、母が、自分がちゃんと母親として満足に接することが出来なかったせいで、娘は、代わりに愛情を与えていた和歌に恋慕を募らせたのだと、そう思われることだった。
…いや、果たして、違うだろうか。
私が、血縁関係にある和歌を好きになったのは、ちゃんと育ててもらえなかったからではないのか?
心の底では、家族からの愛情を物足りなく思っていて、それを和歌に求めた?
歪んだ家庭環境が、私をこういう不完全な生き物へと成長させたのではないのか?
…私の想いは、とどのつまり、赤ん坊が母親にミルクをねだるようなものなのか?
私は軽く机の脚を蹴りつけた。
愚かだが、物に当たれば多少は落ち着く。
駄目だ。今は何も考えない方がいい。
これ以上考えては、自分が一等嫌いなものに成り下がってしまいそうだ。
そうなれば、私は、手放しで信じることの出来る唯一無二のものを失うことになるのだ。
心を落ち着けるために、私はギターに触れた。時計を見る。まだまだ、誰も来ない時間だろう。
ケースから母のお古のギターを取り出し、足を組み、それを支えにして構える。
アンプがないが、どうせ誰も来ない。滅茶苦茶にかき鳴らさなければ問題ないとしよう。
足先をコツ、コツ、コツと、テンポ良く鳴らし、弦を弾き出す。
ゆっくりと、静かな朝に似合う曲を。
そうだ、こんな死んだような心地で迎える朝には、ブルース調の、悲しい曲こそが相応しい。
即興で歌詞を旋律に乗せる。こういうのは得意だ。
気持ちを声に出して相手に伝えることは苦手だが、言葉そのものとしてアウトプットすることは得意だ。例えば、歌詞とか。
部活をしている生徒の声が遠くでしている。
不完全な静寂の中に響く、自分の情けない、哀愁と悲壮とを帯びた歌声。こういう時間だけは、やはり何もかもを忘れることが出来た。
血縁も、性別も、ひょっとすると、愛すらも煩わしい。
私の邪魔をする全てに引導を渡して、
ただ、この本音だけを伝えることが出来ないだろうか。
――…出来ないだろう。
私には、一切合切を投げ出す勇気や覚悟なんてないから。
薄氷の上で踊るように危険な真似をするぐらいなら、ずっとそこそこの関係でいいから、一緒にいられることのほうを選ぶ。
そんな女なのだ。私は。
臆病者、根性なし。
大いに結構。
笑いたければ笑え、
むしろ、自分では笑えないから、誰かに代わりに笑ってほしい。
もちろん、そんなことする奴はグーで殴る。
本当は、そういう自分をぶち壊したくてしょうがないけれど、
立ちはだかる大きな壁に戦意を喪失している。
諦めて生きることに慣れている。
孤独と慣れ親しみ、くだらない、同情すらも得られないブルースを口にしているほうが、私に似つかわしいのだ。
叩きつけるように、最後のメロディを刻んだ。
長く余韻を引いた響きが、窓の外へと飛び出す前に消える。
それは、彼女への届かない想いにも似ていた。
気づけば、汗をかいていた。
私の中に蓄積した、老廃物――和歌への想い――を全身から放出することに成功し、大きく、息を吐き出す。
だらりと両腕を下げて、教室の天井を見つめた。それから這うようにして視線を掛け時計に移し、時間を確認する。
どうやら、けっこうギターを触っていたらしい。
私はゆっくりと、目を閉じた。
満たされない欲望が、自然と抜け落ちていくのを心の目で観察していた私の耳に、乾いた音が聞こえた。
パチパチ、とリズミカルに鳴る音に目蓋を持ち上げ、そちらを首だけで振り向く。
「上手だねぇ、御剣さん」見知った顔がそこにはあった。「…どうも」
余韻に浸っていたというのに、余計なことを…。
確か、同じクラスの
私と同じで、ギターケースをいつも背負っている、長身の女。バストがやたらと大きいことだけを覚えている。ただ、和歌のように身長が伴っていないわけではないので、いわゆるグラマラスというやつだ。
彼女の人を小馬鹿にしたような微笑とタレ目が鬱陶しくて、私はすぐさま顔を逸らし、イヤホンを着けた。
しかし、彼女は真っ直ぐに私のほうへやって来ると、こちらを向いた状態で前の座席に腰を下ろした。
足を大きく開いて、椅子の背もたれを抱き枕のようにしている姿勢だった。
ただでさえ短くしているスカートの裾から白い肌が無防備に露出しているのに、さらに大胆に太腿が覗いている。
そういうのに、自然と視線が吸い寄せられる自分が、汚くて、イライラして、大嫌いだった。
音量を上げて、志藤の声を聴かないようにするが、勝手にイヤホンを外される。私はムッとした表情で相手を咎めた。
「ちょっと、返してよ」
「まあまあ、少しだけお話しようよ」人畜無害そうな、のんびりとした口調だったが、それがかえって嘘くさい。
「生憎と、志藤さんと話すことなんて、私にはない」
「あ、私の名前覚えてたんだぁ」
無視して窓のほうへと顔を向ける。段々青く、明るくなってきた空は、私の気持ちなんて気にも留めないらしい。
「御剣さんってギター上手なんだね」ムッチリとした体つきを見ないよう、顔を上げて答える。「普通」
「そんなことないよ。それに、歌も上手」
「普通」
「御剣さんの声って、見た目に対して結構かわいい系なんだね」
どういう意味だ、それは。私の見た目に文句があるのか。少なくとも、平均以上の自信はあるぞ。
「もうちょっと、ハスキー系なのかと思ってた」
「同じクラスなんだから、それくらい分かるでしょ」
「お、やっとまともに喋った」
チッ、と舌を打つ。まるで口車に乗せられたみたいで気に入らなかった。
志藤は上機嫌で続ける。
「そうは言うけどさ、御剣さん誰とも喋んないじゃん?声なんて分からないよ」
「あっそ」
いつまでもしつこい奴だ。私は、お前なんぞに興味はない。
志藤奏、いつもキャッキャッとうるさい連中の中心にいる人間だ。つまり、私とは対角線上に位置する存在。
静と騒、相容れないことは初めから分かっている。
「ねえ、御剣さん」
目線だけで、彼女の言葉を抑えようと睨みつける。しかし、それは鈍感な、あるいはそう装っている志藤には伝わらず、何の問題もなさそうに言葉は続けられる。
「一緒にバンドしようよ」
「あぁ?」すさまじく威圧的な声が出てしまう。まあ、相手が気にしていないから、別にいいが。
「先輩たちが受験シーズンに入るからって全く来なくなってさぁ。二年のおまぬけさんは退部したし。ギター、私たち足りないんだよねぇ」
「そんなの、私には関係ない。お断り」
たまたま作業があって下校が遅くなったとき、彼女ら軽音楽部の演奏を聞いたことがあるが、全くもって論外だった。
こいつらは、音楽を青春の一ページとでも思っている。アルバムに飾る一枚の写真と同じだ。ただ自分たちにとって綺麗であればそれでいい、という類の身勝手さをうちに秘めている。
冗談じゃない、音楽は、私にとって魂の拠り所なんだ。
誰からも理解されず、生まれついた孤独を癒やす術を持たない…私にとっての、光。
こいつらみたいなお遊びで、汚すことなんて許せなかった。
「お願い、考えておいてよ」
「嫌」淡白にそう告げる。
「今度、また返事を聞きに来るからさぁ?」
「おい志藤、いい加減に――」
しろ、と相手を切り裂かんばかりの冷たさで、言葉を放とうとしていたところ、教室に数名のクラスメイトが入ってきたので、思い留まる。
彼女らは、珍しい組み合わせの二人に目を白黒させながら、その間に流れていた物々しい雰囲気を察知して、心配そうに声をかけてきた。
邪魔が入ったことで、私の断固とした拒絶の意思を上手く示せなかったが、まあ、彼女ももう二度と誘わないだろう。私はそう、たかをくくっていた。
それが、甘かったことを知るのは、今回の件から一週間経った放課後のある日だった。
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