第6話 Share a quarter -私と貴方-.2

 なんだって度が過ぎれば、自分に跳ね返ってくるものだ。

 

 自分の歪な感情を満たすために、和歌に冷たく当たる日々を続けていたところ、ついに彼女はもう私の家に来ないと告げてきた。

 

 思い切りの良さなんて欠片も持ち合わせていない彼女がそんなことを言っても、どうせ、また来週頃には戻ってくるんだろう。

 そう考えていた私の予感は外れ、和歌は本当に私の家を尋ねなくなった。

 

 別にいい。和歌さんの顔を見なくなったほうが、自分の精神衛生上は良いに決まっているのだから。

 

 だが、その予想も外れた。

 

 彼女と会わない時間が積み重なっていくにつれて、私の吐ききれないストレスも蓄積されていった。

 

 もう、彼女と離れて二年が経つ。

 私は晴れて高校生になっていた。

 

 あれぐらいで来なくなるなんて、ふざけないでよ。

 

 苛々が何重もの層を描いていく中で、ある日、母が食卓でふと出した話題が、私をいよいよどん底に叩き落とすこととなった。

 

  珍しく一日仕事が休みだった母は、私が高校から帰ってくると、すぐにご飯の用意を整えた。

 

 何でも器用にこなしているイメージのある母だったが、料理の腕だけは問題を抱えていると言わざるを得ない。

 

 砂糖と塩を間違える、なんて漫画みたいなこと以外にも、何を思ったのか、味付け無しで食材を並べることもある。

 食材そのままの味を活かすにも、限度はあると思う。

 

 そのため、出来合いのものを買ってきたり、冷凍ものを並べたりということも少なくなかった。

 

 実際今日も、食卓に並んだのはレトルトカレーと冷凍唐揚げだ。

 

 別に不満はないので、黙々とスプーンとお箸を動かしていた私の正面で、母が独り言のように呟いた。

 

 「和歌、就職決まったって」

 

 久しぶりに母の口から彼女の名前を耳にして、一瞬だけ体の動きが止まる。

 

 「…そう、なんだ」

 

 和歌さん。もう社会人になるんだ。

 いよいよ、彼女が遠く離れるのか。

 

 「あの子、男っ気もないまま学生時代を終えちゃうなんて…、私心配だわ」

 

 その発言に、ムッと、私は険しい顔をした。

 

 「別に、そんなの和歌さんの勝手じゃない?」

 

 「それはそうだけど、年の離れた姉からすると、心配になるの」

 

 「心配しても意味ないよ。出来ることなんて、ない」

 

 冷淡かつ赤の他人のように言い放つ私の口調に、今度は母のほうが怒りを露わにした。

 

 「そんなの分からないじゃない?発破かけることぐらいは出来るし、良い人がいれば紹介出来る」

 

 「…望んでもないのに、余計なお世話」

 

 ことん、と母が箸を置いた。明らかに怒っている。

 

 「まるで、和歌の気持ちが分かるみたいに言うのね」

 

 「分からないよ。和歌さんの気持ちなんて」

 

 「そうでしょうね。そうじゃなかったら、和歌をあれだけ怒らせたりしないもの」

 

 私と和歌の溝を決定的なものにした一件のことを言っているのだろう。

 忘れようとしていることを、再び、はっきりと思い出させられて、私はこめかみ辺りが熱く、ドクドクと脈動するのを感じた。

 

 チッ、と怒りのあまり舌打ちがこぼれる。鳴らしてしまってから、しまった、と思った。

 

 癖とは恐ろしいものだ。

 

 「なに、今の」

 

 「別に」今回は謝る気になんてなれない。

 

 「別に、じゃないでしょう。親に向かって、なんなのその態度は」

 

 その発言を受けたとき、私の中の堪忍袋の緒がとうとう切れてしまった。酸欠みたいになって、呼吸が荒くなる。

 

 私の気持ちなんて、これっぽっちも考えたことないんでしょうが。

 

 ドン、と音を立てて、白米の入ったお椀をテーブルに叩きつけた。幸い何も倒れたり、こぼれたりもしなかったが、母と娘の上っ面の平穏にはとうとう亀裂が入ることとなった。

 

 「こんなときだけ、母親ぶらないでよ」

 

 「なんですって?」

 

 「私のそばにずっといてくれたのは、母さんじゃない…!」

 

 母は、そんな鋭い言葉をぶつけられるとは、考えもしなかったのだろう。

 

 目を大きく見開き、言葉を詰まらせた彼女は、一瞬、驚愕と憤りに支配された目の色をしたのだが、すぐに悲壮を滲ませると、無言で俯いた。

 

 怒りも、悲しみも、同情も…。何も口にしなかった母の姿が、私の目には逃げているように見えた。

 

 言いたいことがあれば言えばいい。

 ずっと、アンタはそうしてきただろう。

 

 どうして、そんな態度を取る?

 

 まるで、私をこんなふうに育てたことについてだけは、己の人生の汚点で、見たくもない現実みたいな顔をして…!

 

 「そうね、貴方の言う通り」

 

 落ち着いた声で、冷静なふりをして、私を馬鹿にしているんだ。

 

 「貴方のそばにいたのは、和歌だもんね」

 

 「…そうだよ。和歌さんだけが――」

 

 「…ねえ、一葉」

 

 言葉を途中で遮られた私は、深く鼻息を漏らしてから、ゆっくりと、「なに」と返事をした。そうしなければ、話が進まないと思ったからだ。

 

 不服でなかったといえば嘘になる。ただ、彼女のほうも真剣そのものという表情をしていたので、黙らざるを得ない。

 

 「和歌と、ちゃんと話さなくていいの?」

 

 今、その話はしてほしくない。

 私は肩を竦めた。

 

 「ちゃんとって、なに」

 

 「話し合う時間を作って、誤解がないようにするってこと」

 

 「別に…、いらない」

 

 「あのねぇ、さっきの話はどうなるのよ」

 

 「あれは、母さんが…」私は俯く。「人のせいにしない」

 

 ぴしゃりと言い放たれた言葉は、先ほどまでとは違って反論を許さない鋭さがあった。

 自分は間違っていない、という、正しいことをしているという思い込みによる語調の強さだろう。

 

 まあ、確かにそうかもしれないが…。

 

 「話が逸れたわね。そうね、今回の件は私が悪かったわ。確かに、どうしたいのかは和歌が決めることだもの」

 

 でも、と母は前置きしてから続ける。

 

 「和歌に提案することは問題ないでしょう?押し付けたりはしないから」

 

 「…好きにすれば」

 

 母の言うことは、道理は通っている。こちらに、それを否定することの出来る筋の通った理屈はない。筋の通らない理由ならたくさんあるのだが。

 

 ――例えば、和歌さんは私のものだ、とか。和歌さんのことを一番に考えられるのは私しかいない、とか。

 

 根拠のない、また、実行したこともない理由ならこんなにも簡単に浮かぶ。

 

 明らかに不服そうな私を見て、母は苦笑いした。

 

 「あのねぇ、別に和歌に彼氏が出来ても、貴方と縁が切れるわけじゃないのよ?」

 

 母は、和歌に誰かを紹介することについて、私が子どもっぽい独占欲で異を唱えていると考えているのだろうが、それは違う。

 

 これは、そんな綺麗なものではない。

 

 子どもながらの純な気持ちなら、こんなにも苦心することはなく、相手に伝えることが出来ていただろう。

 

 ドロドロとした、粘り気の強い嫉妬、不安、苛立ち…。

 

 どうにもすることの出来ない感情なんだ。

 

 「分かってるよ、そんなこと」

 

 ぼそり、と小さな呟きがこぼれる。ほとんど自分に言い聞かせるような口調だった。

 

 ふぅ、と母は息を漏らした。呆れていることがありありと伝わった。

 

 「一葉は本当に、和歌のことが好きなのね。そのうち貴方が恋人に立候補しちゃいそう」

 

 何気ない冗談だったのだろうが、私の心臓はドクンと、跳ねた。

 

 鼻で笑って流して、まあね、と一言言えば問題なかったのに、跳ねた心臓は、私の口と心に差し込まれていたつっかえ棒をへし折り、私自身に勝手を許してしまった。

 

 「ち、違う!」

 

 こんな大声が出るのだと、自分でも驚いたが、それ以上に、母は驚愕していた。

 

 その丸々と見開かれた瞳と口を見て、私は致命的な誤解をした。母が、私の歪な気持ちに気付いてしまったと思ったのだ。

 

 「ど、どうし――」

 

 その焦りから、まだ母が何か言葉を紡ごうとしているのに、無理やり遮ってまで声を発した。

 

 「和歌さんのことなんて、好きじゃないから!」

 

 血反吐を吐くような思いでリビングを揺らした言葉は、母の表情も、時の流れも凍らせた。静かに湯気を昇らせるカレーの熱だけが、異教徒じみていた。

 

 直後、母の表情がゆらめき、動揺したように眼球が小刻みに左右へ振れた。それから何かを口にしようと、息を吸った後、やはり決断出来ず、口を閉ざした。

 

 それを見て、私は血の気の引くような思いをまざまざと感じた。母の考えていることが、その顔に如実に表れていたからだ。

 

 ――知られた。

 

 私の、醜く歪んだ恋情が。

 

 悔しくて、恥ずかしくてたまらなかった。

 

 正しいかどうかはさておいて、何に対しても決断力を遺憾なく発揮する母が、明確に迷い、躊躇し、気付かないフリをするかどうかを考えている。

 

 それほどの恥だと、今さらながらに思い知らされた。

 

 母が内心で、自分の娘が、そんな、と不安がるような、慄いているような気さえして、私は息を詰まらせながら席を立つ。

 

 普段なら、電話がかかって来ようが、用事があろうが、一緒に食卓を囲んでいるときは離席を許さない母が、何も言ってこなかった。

 

 いつもは鬱陶しく感じられる叱責が、自分の背中に追いついてこなかったことを、私は生まれて初めて怖いと思った。

 

  自分の部屋に戻った私は、和歌と自分を結びつける、あらゆる物をゴミ箱に叩きつけた。

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