第8話 Share a quarter -私と貴方-.4
相変わらずすれ違いばかりで、母とはあれからまともに会話していなかった私は、早めに学校に行くことを半ば習慣化させ始めていた。
人の生活リズムは二週間もあれば変わるというが、私の場合はその半分で安定期に入りそうだ。
暇なので、ギターに触ることも多かったのだが、意外にも早朝の時間に人が少なくないことに今更ながらに気が付いて、可能な限り自重するようにしていた。
どのみち、ギターは帰り際に誰もいない公園とかで弾くだけだ。気分が乗るときは、だが。
その日も、いつも通り適当に授業を受けて、時間になったら定時退社するように帰宅しようとしていたのだが、鞄に荷物を入れている途中で、また鬱陶しい顔と突き合わせる形になった。
「やっほぉ、この間の返事は決まった?」
体を斜めにした志藤が私の前に立った。癖なのか、ゆらゆらと揺れている。
私は、顔をしかめて迷惑さを隠さずに告げた。
「…その気はないって、言ったと思うけど」
その日の私は気が立っていた。
自分でゴミ箱に捨てて、ゴミ袋にまとめたはずの和歌との思い出の数々を、涙ながら、朝から掘り返すというあまりにも情けのない行為をしていたからだ。
さめざめと泣いた、なんて、哀れみを誘う気取ったことを言うつもりはない。だが、母に聞かれぬよう、声を押し殺してなかなければならなかったので、結果としてそのようになった。
自分の不断さに嫌気が差した。母から譲り受けられなかったそれは、自分の首を絞めるときにだけやってくる。
例えば、今回みたいに。
「えぇ、いいじゃん。あ、じゃあせめて、私たちの演奏を一曲だけ聞いてよ。そしたらさ、みんなで弾いてみたいって思うかもよ」
ぴくっ、と青筋を立てた私の横で、志藤のバンドメンバーらしき人物が、「もうやめなよ」と彼女を制した。
小柄で、同年代にして棒切れみたいに起伏の無い体つき。志藤とは対極の位置に属している女だ。後で思い出すが、小板という生徒だった。
それでも諦めきれないのか、それとも、私の拒絶を真剣に受け止めていないのか、志藤はいつまでもへらへらとしたままで、小板の制止を軽く受け流した。
その呑気な様が――孤独も怒りも、社会からの隔絶感も知らない様――が、とうとう私の苛立ちを臨界点まで押し上げる。
「アンタらの遊びに付き合うつもりはないから」
大声ではないが、酷く澄み渡った声がクラスメイトたちの間をすり抜けて行く。何人かは私の異変を察し、その場を離れるか、好奇心をくすぐられこちらを注視していた。
しっかりと声の届いた志藤と小板は、各々違った表情を見せた。
小板のほうは、侮辱されたことで顔を赤くし、私を睨みつけていたが、志藤は依然として愉快そうなままだ。
「御剣、アンタ何様のつもり?」
小柄なわりに度胸はあるらしい。目くじらを立てた小板の姿は、牙を剥いたリスに似ている。まあ、迫力がないということだ。
立ち上がり、相手を威圧するように近寄って、真上から見下ろす。すでに身長が170cmを越えている私からすれば、彼女はあまりにも小さい。
一瞬で気圧されたような瞳になった小板へ、ちゃんと聞こえるように、一音一音はっきりと口にする。
「怒るくらいなら、そいつの手綱をしっかり握ってなよ。目障りだし、耳障り」
「な、なにその言い方…」
「いいから」まだ何か言おうとしている小板の言葉を遮る。そこには、明確な敵意が宿っていた。「もう黙って」
じっ、と小板を上から睨みつける。彼女がたじろいだのを確認してから鼻を鳴らし、荷物を背負い直した。
本当に、この世界のことごとくが、私を不愉快にすることに関しては、力を合わせて向かってくるからたちが悪い。
ここが路上なら、思い切り唾を吐き捨てるところだ。意味がないのなんて、分かっていても。
「大丈夫ぅ?霞」
背中越しに、メンバーを案じる志藤の声が聞こえる。
そうだ、あの小さい生徒は
「どうせ、あいつの音楽なんて口だけなんでしょ…!」
肩を撫でられていた小板が呟くその一言が、私の中の炎に油を注いだ。それで、教室のほうから反射的に二人のほうを振り返ると、両者とも私を見ていた。
殺意にすら近いものを込めて、小板を睨みつける。
あまりにも直接的な敵意をぶつけられて、目を丸くした小板の前に、庇うようにして志藤が立ち塞がった。
相変わらずのにやけ面だが、瞳には以外なほどの知性がきらめいており、その一瞬だけ見え隠れしたしたたかさに、思わず舌を巻きかける。
誘導されている、と直感した。
牧羊犬が羊を追い立てるようなものではなく、もっと小賢しい感じだ。
「だって、御剣さん」
「…何が言いたいの」
「いやぁ、別に?霞の言う通りなのかなって思って」
明らかな挑発だった。
勝手に言ってろ、と心の中だけでなじる。
これ以上、無駄な時間を割く必要も、目立つ必要もない。
そう思って踵を返そうとすると、唐突に志藤がタレ目を大きく開き、私のほう、正確にはギターを指差して言った。
「あぁー、そのギター、ファッションなんだぁ?」
堪忍袋の緒が、悲鳴を上げる音が頭の奥から聞こえた。憤怒に染まった瞳で、小板の次は彼女を睨みつけるも、相手は飄々とした態度を崩さない。
――乗るな、安い挑発だ。
志藤は私が弾いているところを目撃している。つまり、ファッションギターではないことだと知っている。分かったうえで挑発しているのだ。
目的は不明だが、私を煽っていることだけは確かだ。
相手の思惑に乗ってやる理由はない…が、何とも許しがたい侮蔑。
「そうじゃないならぁ、ここで弾いてみたら?幸いオーディエンスもたくさんいるし」
温厚さを演じた笑みで志藤が言う。
もしかすると…、自分のバンドメンバーである小板が威圧されたことで、怒っているのだろうか。
だが、だとすればそれは逆恨みだ。
「断る。そんな安い挑発、乗ると思ってんの?」
ぎりぎりのところで踏み留まりつつ、至極、冷静に見えるように努める。かなり上手くいっている自信があったが、それは勘違いだった。
「あっそぉ。じゃ、お家で一人で弾いてれば?」志藤は肩を竦めて、今度はしっかりと嘲笑を浮かべて言った。「口だけの音楽を」
気付いたときには、私は誰のとも知らない生徒の椅子を蹴飛ばしていた。
私は、沸き立つクラスの喧騒も聞こえないままギターを取り出すと、鼻息荒く音楽を志藤奏に叩きつける準備を整えた。
自分の力を誇示するつもりはないが、これ以上、こんな奴らに、私の音楽をコケにされるのは我慢ならない。
私が上だと証明する。そのためには、知名度があって、なおかつ私らしい激しいロック調のやつがいい。
素早く選曲し、志藤を睨む。
「吠え面かくなよ、くそ女」
「わぁ、悪役っぽい」
呆然と事態を傍観する小板を一瞥すると、意外なことに彼女は心配そうに私を見ていた。それにどんな意図があるかは不明だが、舐められていると勝手に判断する。
弦に指を這わせ、息を吸い込む瞬間…心はいつだって、凪いだ湖面のようになった。
頭はドクドクと血液を循環させているのに、ギターの感触は私の感情を透明にして、ひたすらに旋律へと誘ってくれる。
ギターを鳴らし始めたら、もう彼女は自分の世界に没入していた。
これだ、これだよ。
最高なんだ。
リズムを刻む一瞬一瞬の隙間に光って見える、音のきらめき、その美しさが…!
孤独を打ち鳴らす快感に、私がどっぷりと浸かり、酔いしれていたとき、驚くほど異質な感触が割り込んできた。
それの正体が最初は分からなかった。
自分の部屋に他人が入り込んでいるような…。
視線を上げる。視線が、志藤とぶつかる。
彼女は、ベースを握って私とセッションしていた。
くそ、こいつ、最初からこうするつもりだったのか。
Aメロが始まる。
逡巡する。
乗るか、反るか。
普段の、沈着な私であれば、こんな見え見えのやり方、従わずに跳ね除けるところだった。
だが、徐々に全身に湧き上がってくる、筆舌尽くしがたい昂揚感が私を麻痺させていた。
――こんな分かりやすい挑発、乗るしかないだろ。
歌が始まり、澄んだ響きが教室を巡り始める。どうやら志藤のほうは歌まで口にするつもりはないらしい。
恥ずかしいことに、サビが始まれば、もう私の頭の中は興奮と感動でいっぱいだった。
一音一音が、私の手足になって音楽を奏でる。
ざわつき出したオーディエンスにも、教室の外に分厚い壁を築き始めた連中のことも気付かず、私はひたすらに志藤とのセッションを駆け抜けた。
拍動する全神経が、一気に時間を加速させ、曲が閉幕のテープを切ったとき、私は自分の口元が大きく綻んでいることを察した。
笑っている。私が、笑っているのか。
拍手万雷の最中、自分でもわけの分からないぐらい興奮したまま志藤を見やる。
私と目が合った彼女は、『ほらね?』と意味深に口の形だけで私に伝えると、先ほどまでの怒りを私同様に忘れ、ぴょんぴょんはしゃいでいた小板の頭を撫でた。
騒ぎを聞きつけた生徒指導の教師が私たちを引きずり出すまで、昂揚感と、拍手は消えなかった。
とぼとぼと放心状態で教師の背中をついていく私は、この奇妙な感覚の正体に気付いて、あっと、声を上げそうになる。
――これが、グルーヴィー《音楽的昂揚感》というやつか。
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