Share a quarter 下
第5話 Share a quarter -私と貴方-.1
私用に割り当てられた部屋の壁に、ところせましと貼り付けられているポスターを睨みつける。
お気に入りのロックバンドの女性ヴォーカルと目が合う。
濃いアイシャドウの引かれた瞳が、情けのない想いを引きずり続けている私を、軽蔑するように見下ろしている。
そう感じてしまうのが、気に食わなくて、私――
くそ、そんな目で私を見るな。
だって、私にはどうしようもないんだよ。
しょうがないだろ、簡単に忘れられるものでもないんだし。
記憶も、恋情も、波の打ち寄せる砂浜に描いた絵みたいに、ぱっと消えてくれるものではないんだ。
分かってる…。
どうにもならないことが、世の中にはたくさんあって、
これもまた、その一つだ。
法律が、周囲が、常識が、
私の想いを否定する。
もう、なんでもいいから黙ってくれ。
私が叔母に――
分を弁えるよ。
私みたいに、親からの愛情を半分貰いそこねた女は、まともに幸せなんてなれないんだよな。
ガタガタと、扉の外で忙しない足音がする。
机の上の、楽譜の形をした置き時計を見ると、時間はもう5時過ぎ。シングルマザーである母が工場の夜勤に出かける時間だった。
母にはちゃんと感謝しているつもりだ。
女手一人で私を育ててくれていること。
大事にしていた愛用のギターを譲ってくれたこと。
歌詞の書き方、音楽の奏で方を教えてくれたこと。
忙しいのに、出来る限りのことをしようとしてくれていること、全部知っている。
感謝している、母さん。
ただ、二つだけ…母さんを恨んでいることがある。
――どうして、私を女に産んだんだ。
――どうして、和歌さんと血が繋がってるんだ。
あぁ、人生はままならない。
大好きな人に、会いたくないと思わなければならないこの人生は、とてもではないが、幸せとは縁遠い。
少なくとも、幸せというものは、私と和歌の血縁関係よりは自分からは遠いのだ。
部屋の外から、母の声が聞こえる。
「一葉、もう少しで和歌が来るから、鍵開けとくよ!」
「はい」
玄関の扉が閉まる音を聞いてから、チェアの部品を軋ませ、ゆっくりと立ち上がる。
黒の遮光カーテンの隙間から、夕暮れの光が入り込んでくる。鮮やかなオレンジを視界の隅に入れながら、ふぅ、とため息をこぼす。
和歌が来る前に色々と準備をして、彼女が帰るまで自室に閉じこもれるようにしておこう。
会えば、言葉を交わさずにはいられなくなり、言葉を交わせば、酷い自己嫌悪をもたらす八つ当たりをしてしまうと分かっている。
学校の制服は一時間ほど前に脱ぎ捨てており、今の私は部屋着である黒のショートパンツと、無地のTシャツ一枚という出で立ちだった。
こんな洒落っ気のない格好を見られたくない、というのも本音だ。
叔母である和歌とは、私がかつて期待していたような夢物語など起こり得ないと、すでに知っている。それなのに、ちゃんと割り切れない情けなさを、忌々しく思う。
念のため、外の気配に注意しながら扉を開ける。うん、まだ和歌は来ていないようだ。
ドリップ式のインスタント珈琲の準備をしながら、お風呂を洗いに移動する。腕をまくり、ささっと浴槽をスポンジと洗剤でこすっていると、ケトルがお湯を沸かした音が聞こえてきた。
付着した泡をシャワーで流す。立ち上がり浴槽から離れた私の目に、長身で、目つきが悪い女の顔が映った。
黒々とした肩までの髪を、内側にカールさせた女は、眉間に皺を寄せると、ゆっくり私に近寄ってきた。
鏡面の女の頬に触れる。
―――…似ていない。私と和歌さんの顔は、こんなにも似ていないのに。
中学生に上がり、叔母とは結婚できないということを知って以降、血の繋がりが嘘だった、という奇跡を、ずっと待っていた。
だが、福音を待ち続けていた少女は、もうここにはいない。
彼女は、現実や常識という巨悪に打ちのめされて、孤独を飼い慣らすことを選んだ。
同性婚が認められたとしても、血が濃くなることを是としない法律が私たちの邪魔をする。
くだらない、女同士で、血を濃くする術は今のところ現実的ではないというのに。
はぁ、と一つ深いため息を漏らす。
陰気な私は、この苦悩を語らい、和らげることの出来る友人も持ち得ず、生まれたときから持ち続けている孤独と友好を深めているのだった。
バスマットで足を拭きながら、浴室を出る。そうして台所に戻り、ポットのお湯を用意していたカップに注いでいると、不運なことに、玄関の扉が開く音がした。
しまった。もう来たのか。
入り口のほうからか細い声で、「お邪魔します…」と呟く声を無視して、ボタンを押し続ける。
もっと、もっと速く出ろ、お湯。
焦ってお湯を注いでいたせいで、フィルターからお湯が溢れる。粒の大きい粉が珈琲の中に流れ出て、思わず顔をしかめる。
「あ、こんばんは、一葉ちゃん」
のんびりとした、邪気を一切感じない女性の声が背後から聞こえる。
彼女の声を聞いていると、真面目に苦しんでいるのが自分だけなのだと思い知らされるようで、いつも釈然としない苛立ちが込み上げてきていた。
完全に無視するか、一瞬迷う。だが、前回そうしたときに、悲しそうに自分の名前を呼ぶ彼女の声に、凄まじい罪悪感を覚え、結局無視を突き通せなかったのを思い出し、ため息まじりに振り返る。
「…こんばんは」
「珈琲かぁ、いい匂いだね」
彼女――御剣和歌は、いつも通り大学の帰りなのだろう。膝が見えるか見えないかといった丈のライムグリーンのスカートを履き、上は薄黄色のブラウスを着ていた。
晩夏の時期とはいえ、まだ暑いためか、ボタンは上から二番目まで開いていて、日に焼けない白い肌と鎖骨を惜しみなく晒している。
私がじっと佇み、珈琲を片手に彼女の愛らしい容姿を観察する。和歌は照れたようにはにかみ、小首を傾げ、とことこと近寄ってきた。
くそ、何だ、そのトロい歩き方は。
いちいち可愛いんだよ。
そばに並び立つと、すっかり身長差が開いてきたことを改めて実感する。
台所の古い木目のテーブルは、私の腰より下ぐらいまでの高さしかないのに、和歌の腰より上の位置にある。
…足が短いのか?
…私が長いのか。
ほとんど毎回晩ごはんを作ってくれる和歌が、冷蔵庫の一番下の段にある、野菜室を開けて覗き込む。
しゃがんで調べればいいのに、半端に立ったまま腰を折り曲げているせいで、私の目線の高さからは、すっかり彼女の白の下着と、白い双丘が見通せていた。
何度も頭の中で夢想した、柔らかそうな感触を味わいたい。
そのために、手を伸ばしたい。
伸ばせば、届く。
例え、心の距離は開いても。
私は、ごくりと唾液を飲んで、赤く頬を染めつつ、バッと目を背けた。
加速する劣情が自分のものだとは思いたくなくて、奥歯を噛みしめる。
それから、呑気に今日の献立の希望を尋ねてくる彼女の声に振り向く。
また同じ光景を目の当たりにして、拳をギュッと握りしめて誤魔化すというのを何度か繰り返した。
そうしているうちに、嫌なタイミングで彼女と目が合ってしまう。私が覗き込んでいるタイミングだ。
和歌は、こういうときだけ敏感に、素早く私の視線の先を追うと、かぁっと紅葉を散らしたように赤面し、胸元のボタンを閉めた。
「あ、ご、ごめん。だらしないよね、本当」
「…別に」
「はは、一葉ちゃんは駄目だよ?こんな大人になったら」
「大人ぶらないでよ、私より小さいくせに」
子ども扱いされているように感じ、つい反射的に揶揄すると、和歌は可愛らしく頬を膨らませて反論する。
「ち、小さくないよ。一葉ちゃんが大きくなりすぎたんでしょ」
確かに、和歌さんのバストは小さくない。平均よりかなり上だろう。
いや、そういう話じゃない。
あぁ、さっきの光景が網膜に焼き付いて消えてくれない…!
「まあ、大人ぶるなら、もうちょっと人目を気にすれば」
「うぅ…」
痛いところをつかれると、すぐに口をつぐむのが彼女の癖だった。
無意識なのか、それとも可愛いと分かってやっているのか、言葉を詰まらせるときの和歌は、必ずといっていいほど、両手の指をいじってみせる。
その仕草が小動物じみていて愛らしいが、それが私の手の中には落ちてこないことを知った今、むしろ苛立ちさえ募る。
チッ、と舌を鳴らして彼女に背を向ける。
「どうせ大学でも、でかい胸を男にアピールしてるんでしょ」
「…っ!」
言ってしまってから、ハッとする。
ヤバい、これは言いすぎだ。
謝らなくちゃ。
首だけを動かして、無言になった和歌を確認する。
キッ、とまなじりを吊り上げて私を見る和歌は、今度は怒り混じりの羞恥で顔を赤くし、両手を握りしめ震わせていた。
こんなふうに怒りを発露してみせる和歌を、私は初めて見た。
そのときだった。
私の胸に空いた穴が、ほんのわずかに満たされるような心地になったのは。
今、彼女の頭は私のことでいっぱいになっている。
その事実が、私の全身を粟立たせ、ぞくぞくした昂揚感を与える。
口元がにやけそうになって、慌ててその場を離れた。
テーブルにぶつかりながら移動したため、手に持っていたカップの中で珈琲が跳ね、手首に飛び散る。
肌を赤く染める熱さに気付いたのは、自室に戻り、カップをテーブルに置いてからのことだった。
まだ、心臓がドキドキしている。
こんなの、無意味で、歪だ。
だが、私たちの年頃では、歪なものこそ美しく、価値あるものに見えるということは決して珍しい話ではない。拗らせている、と言ってもらっても構わない。
私はすぐにギターを抱えた。
普段は壊れ物を扱うようにするのに、今ばかりは違った。興奮のため、アンプもヘッドフォンも、振り回すようにセッティングした。
即興で、メロディをかき鳴らす。
――叩きつけるように、断ち切るように。
詩は、頭の中のノートに書きなぐる。
――祈るように、呪うように。
大きな声で喚き散らしたかったが、さすがにそれは抑え、ひたすら指先と耳と、頭の中にだけ存在する紙面に集中する。
この時間だけは、私は私を取り巻くつまらない運命を忘れられた。
純度の高い時間が流れるのだ。
叩きつけるような愛を、音楽という形で遮二無二なって具現する。
もっと、傷つけばいい。
その程度の痛み、私の味わっている不幸感の、何分の一にも満たないんだ。
頼んでもないのに私の前に現れて、いつまでも続かない希望と幸せの味を教えたアンタは。
傷ついちゃえよ。
それぐらい願っても、許されるだろう。
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