第4話 Share a quarter -私と姪-.4

「ひ、ひとひらちゃん」子どもみたいに滑舌が甘くなる。


 再び、彼女と真っ直ぐ視線がぶつかる。


 あらゆる迷いを断ち切って、今この場に立っている、とでも言いたげな、毅然とした、決意に満ちた表情だ。


 迷ってばかりで、戦うこともできなかった私では、とてもではないが彼女の前でじっとしていられず、慌てて一葉の横をすり抜けて部屋の外に出ようと試みた。しかしながら、瞬時に飛び出てきた彼女の長い手足に阻まれ、行き場を失う。


「待って、逃げないで」


「う、うぅ…」


 嫌だ、逃げ出したい。


「私、和歌さんに色々と言いたいことがあるの」


「え、えぇ…?なに、聞かなきゃ駄目?」


「強制はしない。でも、聞いてほしい」


 凛とした声。


 声変わりなんてしていないはずなのに、別人みたいに声が透き通っている。


 寂しさと孤独に覆われ、陰鬱とした瞳をしていた彼女は、もうどこにもいないのだと確信する。


 何かが彼女を変えたのだ。


 忌々しくも、私以外の誰かが。


 それを知らない自分が、また悔しくなる。


 一葉の堂々たる佇まいに押され、私は再び蹲るようにして布団の上に腰を下ろした。


 彼女は、少し思案げな表情をした後、「ここで待ってて」と告げ、階段を駆け下りていった。


 今のうちに逃げようか、と思ったが、下の方から大声で、「逃げたりしないでよ!」と釘を差されたため、本当に動けなくなる。


 階下からは、両親が何事かと訝しんでいる様子が伝わってきていたが、和葉がそれをはぐらかしているようだった。


 もしや、和葉もこの謎の事件に一枚噛んでいるのか。


 一分もしないうちに戻ってきた一葉の手には、いつか見たギターと、アンプが握られていた。重そうな二つを持って、よく二階まで駆け上がってきたものだと、他人事みたいに感心する。


 よくよく観察すると、あのギターは和葉が使っていたものだ。だいぶ古くなっているが、二世代に渡って愛された品物独特の気品が感じられる。


 一葉はアンプを床に置き、ケーブル類を各所に繋ぐや否や、私のすぐ目の前に腰を下ろし、胡座をかいた。


 ギターの調整をしている姿から、今からここで弾いてみせるらしい。


 え、音とか大丈夫なのかな…。


 いや、っていうか何のために…。


「あのぉ、一葉ちゃん、何を…」


「ごめん、少し静かにして」


「うぅ、はい…」


 …悔しい、もうすぐ私社会人なのに、高校一年生に怒られている。


 「よし」と準備が整ったらしい一葉は、じっと私のほうを見やると、一音、一音丁寧に、言葉を発した。


「私、昔から口下手だから」


 酷く澄んでいる清流みたいな声。清らかさゆえに、拒絶的ではある。


「う、ん」返事をしたほうがいいのだろうか、と声を発する。


「歌で伝える、とか漫画の見すぎとか思われるかもしれないし、痛いって言われるかもだけど…」


 とりあえず、こくりと頷く。


 決意に満ちた彼女の顔が、照明も点いていないこの六畳一間では、あまりにも眩しく感じられる。


「多分、私の和歌さんに対する気持ちの全部が伝わる、一番の方法だと思うから」


 逸らしたくても逸らせない、謎の引力をまとった眼差しに射抜かれて、頷くことすらも忘れてしまっていた。


「――ちゃんと、聴いていてね?」


 上目遣いでそう告げた彼女は、一つ、仰々しい咳払いをこぼすと、まるで物語を紡ぐように優しく、旋律と詩を奏で始めた。


 そのメロディの中では、彼女は驚くほど饒舌だった。そして、あの頃の冷淡さが嘘みたいに情熱的でもあった。


 まず、愛しい人との思い出の品を、ゴミ箱に投げ込む彼女の姿が見えた。そして、冷静さを取り戻して、悲しみと共にそれを拾い上げる姿も。


 続けて、叶わぬ思いに嘆き、夜露のような涙で頬を濡らす彼女が見えた。その行き場のない怒りを、愛する人にぶつけてしまった彼女も。


 さらに、音楽が彼女の孤独を照らし出したのが分かった。どこにも行けないと思っていた、片方だけの翼で飛ぶ方法を彼女が学んだのだと分かった。


 最後に、これから彼女がどうしたいのかが綴られていた。


 あえて名付けるとすれば、『未来』という一節になるのだろうそれは、周囲の批判も、色眼鏡も、何もかも弾き飛ばして進む決意の表れとなって、拍動するリズムと共に詩の中を滑空していた。


 私は、曲を聞き始めてすぐから、これが熱烈な、ともすれば、狂愛的なラブソングだということを理解した。


 火が吹くのではと思うほど全身が火照り、額から汗が流れる。心臓はもはやブレーキをかなぐり捨てて、好き放題に暴れることを選んでいた。


 あまりにも赤裸々な思いが綴られた彼女の歌に、羞恥と、喜び、そして、その何倍もの戸惑いが押し寄せてくる。


 歌を奏で始める前の一葉の言葉を思い出す。


 ――多分、私の和歌さんに対する気持ちの全部が伝わる、一番の方法だと思うから。


 歌い続ける一葉の、きらきらした瞳と視線が交差する。それだけで、胸が張り裂ける想いだ。


 鵜呑みにするとすれば、これは、一葉から私に宛てた、青さと激情で埋め尽くされたラブソングということになる。


 透き通り、地の果てまでも響くのではと思わせるハスキーな歌声と淀みなく流れる旋律は、彼女が並々ならぬ努力を積み重ねてきたことを示している。


 それだけの熱量、万感の想い。


 これを受け止めるには、私の器はあまりにも狭量すぎた。


 歌が終わり、ギターを置いた一葉はシャツの袖で額の汗を拭うと、ぎらぎらした獣のように熱い瞳で、未だ整理の追いついていない私の顔を見つめた。


「どうだった、私の歌…?」


(え、もう答える時間なの?)


 もうちょっと、心の準備をしてからじゃないと…。


「え、えっとぉ」


「言っておくけど、私の気持ちが、伝わらなかったなんて言わせないから」


「うぅ」


 逃げ場を失い、答えに窮す。


「お願い、本心を言って、和歌さん。無理なら無理で良い。悔いはないから」


 やるだけやったアスリートみたいな、ある種の恍惚と共にある一葉は、もう何の恥じらいも躊躇いもないらしい。


 自分の本心?


 そんなもの、どこにあるか分からない。


 どこを探せばいいんだ。


 どうすれば、そんな形のないものを疑いも持たずに誰かに示せるのだろう。


 とりあえず、今の自分の確かな気持ちだけを必死に並べてみる。


「きゅ、急にそんなことを言われても困るよ…」


「それは、そうかもしれないけど…」


「だいたい、私たち女同士だし、というか、叔母と姪だよ?法律的にもダブルでアウトだよぉ…?」


 瞬間、一葉の顔が険しくなる。


「法律なんてどうだっていい!」


 ぴしゃり、と一葉に叱りつけられ、肩を竦める。


 彼女は即座に、「ごめん」と謝ると、「それはもう、私の中では結論を出した。死ぬほど考えた。でも、ごめん。重要なのはそこじゃなかった」と私のほうに身を乗り出しながら続けた。


 顔が、近い。


(そっちは考えたかもしれないけど、私はまだ考えていないんだって…)


 逸らしかけた私の顔を、右手で無理やり一葉のほうに向き直らされて、精神的にも肉体的にも、晴れて逃げ場なくなった。


「私たちが、一緒にいたいかどうか、この一点に尽きるんだって、分かった」


「話が勝手に進んでく…」ぼそりと呟くも、彼女に聞いている様子はない。


「私は、和歌さんと一緒にいたい」


「じゃ、じゃあ、とりあえず一緒にいよ?ね?前みたいに、毎日、遊びに行っちゃうからぁ」


「駄目、それじゃ足りない」


「うぅ、取り付く島もない…」


 何が、と聞くまでもない。


 彼女の若さと情熱にたぎる瞳を見れば、一目瞭然だ。


 答えを催促するように、ぐっとさらに体を寄せてくる一葉に、たまらず私は声を上げた。


「また今度会うときまでに考えとくからぁ!」


「駄目、それこそ絶対駄目、許さない。逃げるでしょ」


(ば、ばれている…)


「返事をちょうだい、今、ここで」


「む、無理、無理無理!」


「無理じゃないでしょ!いい大人なんだから、ちゃんと決めてよ!」


 私の両手を、彼女の右手がぎゅっと力強く握った。逃さない、という意思の表れにも思えたし、愛を求める強い激情の奔流にも見えた。


「うううぅ…」


 いよいよ私の両目に涙が滲み出したところで、唐突に救世主が現れる。


「アンタたちねぇ…」


 入り口のほうからため息と共に姿を覗かせたのは、私の姉であり、一葉の実の母である和葉だった。


 私は、今度は全身から、すうっと血の気が引いていくのが分かった。


 和葉から見れば、実の妹と娘が睦言を交わす恋人のように絡み合っているという、なんともカオスな光景なのだ。


 どうにかして弁解を、とすぐに保身に移った私に対し、一葉はムッとした表情ですぐに和葉に噛み付いた。


「ちょっと、お母さん!和歌さんが返事をくれるまで来ないでって言ったじゃん!」


「私はそれに承諾していません」


「はぁ!?」


 …はぁ、は私の台詞だ。


 どうやら、和葉は、何でも知っているようだ。多分だが、一葉の気持ちも、断りきれない私の気持ちも。


 ともかく、ぼうっと見ていないで、今すぐ娘の暴走を止めてほしい。


 「あのね、一葉。和歌がそんな急に決められるわけないでしょ?」


「まぁ、それはそうだろうけど…」


 ちらり、と二人して私のほうを呆れたような目で見てくる。


(えぇ…?この場合、私が悪いの?)


「ちゃんと、待ってあげなくちゃ」


 急に優しく、穏やかな母らしい表情になった和葉の言葉を聞いて、一先ずは一葉も撤退することを決めたらしく、体を離した。


 しかし、その手は絡め取られたままだ。


「分かった、待つよ」


「それでよろしい」


 私は、『よろしくない』と言ってやりたかったが、やはりというか、何というか、その勇気は出ない。


 ぐっと、不意を打つようにして一葉の顔が近付いてきた。


 キスをされると思ったが、彼女は私と額をくっつけるとそこで止まり、真剣そのものの顔つきで宣言する。


「でも、私以上に和歌さんのこと考えている人間なんて、絶対にいないから」


 入り口の扉になだれかかって、若いね、全く、と呟く和葉が憎たらしかった。


 これから私は、一葉の熱烈なアプローチに答えを出さなきゃいけない日々が始まるというのに…。


 ――まぁ、私が首を縦に振るのも、時間の問題のような気がするけど…。

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