第3話 Share a quarter -私と姪-.3

 自分の妹同然に大事にしてきた一葉との関わりを断つのは、身を引き裂かれるような痛みを伴ったが、それもしょうがないと納得していた。


 彼女が私を必要としないなら、もう、この関係は成り立たない。


 和葉は急に私が家に来なくなったことについて、色々と一葉に詮索したらしく、その波は当然ながらこちらにも及んだ。


 適当な嘘を吐いて誤魔化そうかとも考えていたのだが、家族の誰よりも分かりあえている和葉と言葉を交わせば、虚構は暴かれると判断し、口を閉ざすこととした。


 そして、それは正しかったように思える。


 結局、私がはっきりとした理由を口にしないうちに、和葉は諦めたようで、途中から何も聞いてこなくなった。


 人生最後のモラトリアムも終わりが近くなり、就職先も、幸運なことにある程度希望通りのところに内定を貰い、何をするでもなく時間を費やす日々が続いた。


 その当時、指先の上を流れる物語は、やたらとラブロマンスが増えていた。だが、どんな名作を読み終えても、ぱっとしない読了感しか残らなかったことを覚えている。


 これは、本を嗜む者にとって、何よりもの災難だったと言えるだろう。


 文字と文字の隙間に逃げ込むことが出来なくなった私の心は、憂鬱を友にし、自分の部屋に住み着いた。


 そういう、書くに足らない無為な時間を過ごしていると、久しぶりに和葉から連絡があった。


 就活で忙しくなるから、と彼女からの連絡をやんわり避けていたのだが、どこからか内定が決まったことを耳にしたようで、お祝いの言葉が贈られてきていた。


 だが、それに付随して、無視できない文章が添えられていた。


『たまには、一葉に会いに来てあげて。あの子、あれから、ずっと和歌のこと気にしてるのよ』


 え、とその文面を見た一瞬、声を上げてしまった。でも、すぐに落ち着きを取り戻し、こんなものは和葉の欺瞞に満ちた余計な気遣いだと思った。


 二年ぶりに和葉に会いたい、という気持ちは確かにある。もちろん、一葉にも。


 何度も携帯を手に取り、彼女らに会いに行くスケジュールを立てた。だが、それらが決行されることは、結局一度もなかった。


 そもそも、実行するつもりの微塵もない予定だ。計画を立てることで自分を慰めたにすぎない。行きもしないのに、海外旅行のパンフレットを眺めることに似ている。


 一葉のことを思い出すと同時に、彼女に吐き捨てられた一言が胸に去来する。


 ――アンタに関係ないでしょ。


 …あんな拒絶を受けるくらいなら、会わないほうがマシだ。


 そうして、海の底で口を閉ざす貝のようにうじうじしていると、父が、どこか嬉しさを隠したようなにやけた顔で、私の部屋を訪れ、残酷な予定を告げた。


「おい、来週、和葉がうちに泊まりに来るそうだ」


「え?」


 和葉は勘当同然で追い出されたので、家の敷居は跨がせない、と意地を張っていたはずの父がそんなことを言ったので、私は目を丸くした。


 その態度からこちらの言いたいことを察したのか、父は言い訳がましい感じで言葉をつらつらと並べた。


「まあ、何だ。孫に罪はないしな」


 おそらく、用意してあった言い訳だ。それも、母に入れ知恵されたに違いない。


 ぴくり、と『孫』というワードに私は反応する。


「一葉ちゃんも、来るの?」


「ああ、折角だから、子どものうちに合わせておきたいとさ。今さら勝手だよな」


(勝手なのは、お父さんたちのほうじゃない…)


 自分には罪などない、と言わんばかりの態度に思わず、拳を握る。とはいえ、誰にも気づかれないような場所でだ。面と向かって立ち向かうような真似、卑屈で臆病な私にはできない。


 だが、事実、一葉の幼少期が貧困と孤独の渦中にあったのも、両親――とりわけ、父のつまらない意地のために他ならない。


(それなのに今更、祖父母ぶるのか…)


 …いや、意地を張りつつも最低限の援助はしていたのだ。両親を罪人のように扱うのは、大げさだったか。


 後日、母のほうからも弁解があった。ただ、父よりも正直に意地を張っていたことを認め、反省するような言葉を呟いていた。


 そして、私に向けて、「和歌のおかげね」と朗らかに言った。


「私の?」


「ええ、そうよ。和歌がずっと繋ぎ留めていたんだと思うわ、和葉と、御剣家と、一葉ちゃんを」


「ちょっと、大げさだよ」謙遜ではなく、本気でそう思った。


 私がしたことは、そんな大それたものじゃない。


 ただ、勝手な使命感に燃えて…。


 …それだけだっただろうか。


 あの子との時間は、バイトのタスクみたいに、やらなければならないことの一つだっただろうか。


 その問いに、まともな答えが出ないまま、約束の日がやってきた。


 次女も三女も、すでに就職して実家にはいなかったので、出迎えは父と母、それから気乗りはしなかったものの、私とで行った。


 二年ぶりに見る――高校一年生の御剣一葉は、ますます姉に似ていた。


 いや、それよりもずっと綺麗に、身長もすらりと、モデルみたいになっていた。おそらく、170cmの大台に乗っているのではないだろうか。


 さすがにこれには両親とも驚いており、彼女の容姿を褒め称えた。


 姉の影響で派手になるかと予想していた髪色や服装も、そうならなかったことが両親に好印象を与えたのだろう。


 高校生としては背伸びしたみたいな、シックな印象を受ける、白と黒のモノクロームで統一されたズボンとシャツ、それからジレベスト。首の周りに巻いたチョーカーだけが、若者じみては見える。


 髪も黒のまま、相変わらずくるりと内側に弧を描いていた。


 ぱっと、両親に頭を下げた彼女と目が合った。


 一葉の猫みたいに大きい瞳の中で、バチバチと弾ける閃光を目の当たりにした瞬間、形容し難い感情が胸の底から湧き上がって、私はとっさに頭を下げるふりをして俯いた。


 無愛想で、孤独に満ちていたはずの彼女が、今では何か、大きな活力に動かされているようだった。


 私の知らない、御剣一葉が確かにそこに立っていた。


 私が一番、彼女を近くで見ていたはずなのに。


 実の母である和葉よりも、彼女の友達よりもずっと、自分の時間を割いて、一葉との時間を作ってきたのは、私だったはずなのに…。


 途端に、胸がムカムカし始めた。


 吐き気ではない。


 苛立ちだ。


 いや、もっといえば嫉妬。


 だが、それが何に対しての嫉妬なのかも分からず、苛々は、もがいても、もがいても、決して解けぬ蜘蛛の糸のように私に絡みつくばかりだった。


 泊まる部屋の用意をしてくる、とだけ告げて、逃げるように足早にその場を去る。


 かつて長女が使っていた部屋には、申しわけ程度の家具が置かれていた。そこに布団を引いて、その上に力なく膝を付く。


 何がしたいんだ、私は。


 頭の中が滅茶苦茶で、自分のことなのに、自分がどうしたいのか分からない。


 イライラして、胸をかきむしりたくなる。


 ぎぃっと、扉が鳴った。


 じっとしていられない母が様子を見に来たのかもしれない、と振り返ろうとした刹那、聞き慣れない、酷く澄んだ声が聞こえた。


 「和歌さん」


 心臓がきゅっと収縮し、それに引っ張られるようにして息を大きく吸い込む。


 首だけで振り返ると、今一番会いたくなくて、でも、会いたいと願い続けていた人が立っていた。

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