第2章 本物より、私の方が綺麗①

2.1 さよなら、ナオヤ


2.1.1 教室という檻


ロングカーディガンの裾を指先で整えながら、私は講義棟の扉を押した。

その瞬間、かつて身体を満たしていたあの甘美な電流――

羞恥と陶酔の入り混じった光は、もうどこにもなかった。


代わりに、乾いた静けさが私の輪郭をなぞる。

心の奥に、微かに音を立てて崩れ落ちるものがある。

けれど、それを拾い上げようとする意志はなかった。


白いブラウスの襟元に手をやる。

首筋をすべる風が、柔らかな髪の毛先を揺らす。

何もかもが“整って”いるはずなのに――

私は、妙に軽く、空っぽだった。


席に着き、教科書を開く。

黒々と並ぶ活字が、私の目にはただの模様にしか映らなかった。

意味も重みもない。


視線は、いつのまにか自分の手の甲に落ちていた。

細く伸びた指。

丁寧に整えたネイル。

その上に、教室の蛍光灯が青白く反射する。


けれど、そこには“美しさ”がなかった。


指の間をすり抜けるように、誰かの視線が触れる。

かつては快楽だったその熱も、今は冷たい霧のように感じられた。

男でも女でもない存在。

輪郭の曖昧な、“なにか”。


私はノートを開いたが、ペンは一文字も踊らなかった。

空白だけがページを埋める。

その無音の広がりが、まるで自分の中の空洞を映しているようだった。


“私”はここにいない。

いや――

“直哉”ですら、もはやここにいない。


この教室は、私を輪郭ごと削っていく。

生きているふりをするための檻。

偽物の自分を保たせるためだけの、無意味な舞台。


私は、そのことに気づいてしまった。

そして、それは決して見なかったふりのできる種類の気づきではなかった。


「ここはもう、私のいる場所じゃない」


そう思った瞬間、何かが、音を立てずに壊れた。










2.1.2 退学届に滲む名


教務課のカウンター越しに差し出された紙は、思っていたよりも軽かった。

紙という物質は、こうも脆く、そして決定的なのかと、私は内心で苦笑する。


「退学届です。ここに記入して、提出してください」

窓口の女性職員は、マニュアルに沿った表情でそう言った。


何の感情もない。

私にとっても、ちょうどよかった。


カウンター脇の記入台に立つ。

ボールペンを右手で握る。

インクの重さが、手首に伝わる。

指の腹が紙の上に密着し、微かな湿度と摩擦を感じる。


――私は、“山岡直哉”という名を、ゆっくりと書いた。


直線と曲線が交差するその字形は、見慣れたはずのものであるはずなのに、なぜか他人の名のように見えた。

これは誰だ。

私は、誰の過去を抹消しようとしている?


手が、わずかに震えた。

それは緊張でも未練でもない。

“儀式”としての重みだった。


一文字ずつ、きちんと、美しく書く。

この字が最後の“山岡直哉”であるならば、せめて完璧でなければならない。

名を記すことは、命を記すことと同じ。

私は、その名を冷たく、そして慈しむように封じた。


提出された紙を見て、職員は目だけで確認し、何も言わなかった。

「お疲れさまでした」

形式的な一言だけが、私と“制度”を断ち切った。


校舎を出ると、風が頬を撫でた。

桜の葉が色褪せて、乾いた音を立てて歩道を転がっている。

空は高く、よく晴れていた。

まるで何も起こっていないかのように。


講義室の窓越しに、学生たちの姿が見えた。

それはかつての私――

教科書を開き、ノートを取り、未来という幻想に身を委ねていた“人々”だ。


だが私はもう、そこには属していない。

キャンパス全体が、無音の墓場のように感じられた。

誰にも気づかれず、誰にも引き留められず、私はただ静かに“終わった”。


アパートに戻り、荷造りを始める。

段ボールに本を詰め、服を畳み、必要なものとそうでないものを選り分ける。

それは喪の作業に似ていた。

ただし、死んだのは誰かではなく、“直哉”という名だった。


家族には、何も伝えていない。

戸籍の記載上、まだ“息子”である私は、彼らにとっての一時的な不在にすぎない。


でも、私はもう戻らない。

もう“始める”と決めたのだから。


段ボールの隙間に、ブラウスを一枚そっと差し込む。

私の未来は、たしかにその柔らかさの中にある。


冷たく、静かで、正確な切断だった。

けれどそこには、微かな喜びがあった。


ようやく私は、始められる――

その確信だけが、胸の奥で、凛と光っていた。









2.1.3 薬という未来の鍵


小さな銀のシートを、そっと掌に乗せた。


蛍光灯の下ではただの錠剤包装にしか見えないそれも、斜めからの月光を受けると、途端に“聖遺物”のような輝きを帯びた。

アルミ箔の反射に淡くにじむ青白さが、私の指先に冷たい光を返す。

それは未来そのものの、微細な鼓動のようだった。


私は、指の腹でゆっくりと一錠の輪郭をなぞる。

プラスチックの膨らみを押すと、裏から小さな丸がわずかに軋んだ。

この中に、私の行く先が詰まっている。

この半透明の殻が割れることで、“私のかたち”はゆっくりと塗り替えられていく。


――毒か、祝福か。


そんな問いは、もう何度も繰り返してきた。

だが今、私はそれを「美しい」と思う。

毒であれ、呪いであれ、私にとっては“選ばれし変容”だ。


錠剤をそっと唇に触れさせる。

その硬さと冷たさが、妙に官能的だった。

口内に滑り込ませた瞬間、舌の上で苦味が弾ける。

私は一度だけ息を呑み、冷たい水を流し込む。


喉の奥を、それが通過してゆく。

異物が身体へと沈みこむ感覚。

だが不快ではない。

むしろ、奇妙な快感すらあった。


――私の身体が、いま、未来に向かって形を変えはじめた。


そう確かに感じた。

喉の奥から、胸へ。

胸から、腹部、そして指先へ。

目に見えない“変化”の波が、静かに、しかし確かに私を満たしてゆく。


私はそっと、胸元に手を添えた。

服越しに感じる何もない平面。

けれどその下には、柔らかさの“萌芽”がある。

まだ誰にも見えない、でも確かに存在する未来の乳房。


「ここに、もうすぐ柔らかさが生まれる」


呟いた声は、自分でも驚くほど静かで、揺らがなかった。


その夜、部屋の灯りを落とし、私はカーテンを開けた。

窓から差し込む月の光が、部屋を仄白く染める。

その中で私は、ゆっくりと上着を脱ぎ、鏡の前に立つ。


白く照らされた裸の上半身。

平らな胸、細い首、肩のライン。

そして、未だ男性として構成された骨格。


けれど私は、そこに“女”の片鱗を見ていた。

不完全なままの美。

変化の途中にあるという、その未完成性こそが、私には何より愛しかった。


床には、脱ぎ捨てられたブラジャーがあった。

その存在が、まるで今の私の“魂の形”を示すように思えた。


私は、鏡の中の自分を見つめながら、心の中で一つの名をそっと否定する。


――直哉。


もう、その名前は私のものではない。

あれはただの“過去の署名”だった。

私は今、“私”になることを選んだ。

毒のように甘い変化を、その身に受け入れることを決めた。


静かな決意が、胸の奥で透明な炎のように灯る。


私は、今日から“私”を生きる。


名前も、身体も、記憶も――

すべてを美しく塗り替えていく。


始まりは、ひとつの錠剤だった。

その重さを、私はずっと忘れない。

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