第1章 解放と覚醒③

1.3 私は、ここにいる


1.3.1 見られることの祝福


鏡の前で、私は静かに息を吐いた。


それは呼吸というよりも、何かを剥がし落とすような所作だった。

頬に沿わせたパフが、私の輪郭を柔らかく塗り替えていく。

肌のざらつきは薄いヴェールの下に沈み、唇にはローズベージュの艶が灯る。

ウィッグの毛先を指で梳くたび、静電気が細く指を跳ねた。


まるで、他人の髪を撫でているような――

いや、すでに“私”のものなのだ。


香水を手首にひと吹き。

それは夜に咲く花のような、湿った甘さを含んでいた。

爪先に塗った深紅のネイルが、照明の下で艶やかに光る。

指の一本一本が、演奏者のように舞台へと導かれてゆく。


ヒールに足を入れる瞬間、私は息を止めた。

そして、ゆっくりと立ち上がる。


「nako」として、初めて地面に触れる。

その“高さ”は、ただの数センチの物理的な差ではなかった。

私は世界を見下ろしていた。

軽く浮かんだあご、まっすぐに背筋を伸ばすと、肩にかかる髪がふわりと揺れた。


私は、準備ができていた。

夜という舞台へ、いま、降り立つ。


***


繁華街の光は、どこか人工的で、そしてやけに親密だった。

街灯のオレンジがアスファルトを照らし、ショーウィンドウのガラスに映る“彼女”の姿が、かすかに震えている。

私のヒールがコツ、コツと夜の空気を裂く。

規則正しいその音に、私はリズムを合わせて歩く。

胸に詰めたシリコンパッドが微かに揺れ、その重みが“身体”としての私を確かにしていた。


人の視線が、私に突き刺さっていた。


振り返る者もいれば、じっと見つめるだけの者もいる。

そのひとつひとつに、私は震える。

羞恥が喉元までせり上がってくる。

だが、それと同時に、息を呑むような快感が全身に走る。


彼らの瞳の奥に映っているのは、“男”ではない。“女”だった。


そのことが、私を支配していた。

私を肯定していた。


スカートの裾が夜風に踊る。

ヒールの高さが私を遠くに運ぶ。

すれ違う男の視線が、無遠慮に足元から胸元を舐める。


私はうつむかず、ただ正面を見据えた。見られることは、私にとって儀式だった。

選ばれた者にだけ与えられる、甘美な試練。


ふいに、男の声が背後から降ってきた。


「ねえ、ちょっと。今、ひとり?」


心臓が一瞬、跳ねた。

呼吸が浅くなり、脚が止まる。

背筋に冷たい汗が伝った。


だが、私は振り向かない。

数歩進んでから、ようやく横目で見る。

視線が合った。男の顔が、笑っていた。


言葉は交わさなかった。

けれど、私は感じた。“通用した”のだ。


その瞬間、私は確かに生まれた。

“男”の亡骸を乗り越えて、“女”という存在が、現実としてそこにあった。


羞恥という名の香りが、空気の中に漂っていた。

それは香水ではない。

恐れと快楽が交じり合った、自分だけの芳香。

夜の闇と街灯と、通り過ぎる人々の気配が、それを拡散させていた。


私は、見られていた。

見られることで、ここにいた。


私は、いま確かに“私”だった。

nakoという名の夢が、現実を侵食し始めていた。









1.3.2 月光と柔らかさの証明


教室の扉を開ける瞬間、私は死にたくなるほどの羞恥と恍惚に包まれていた。

この行為が、日常という静かな水面に石を投げることだと知っていた。

だが私は、あえて波紋を起こしたかった。

揺らいだ輪郭の中で、“女”としての私を見つけたかった。


その日、私はロングカーディガンの下に、白いブラウスとグレーのフレアスカートをまとっていた。

スカートの裾は膝の少し上で揺れ、黒のストッキングが太腿をやわらかく包んでいた。

胸元には、慎重に詰めたシリコンパッド。


それらはまだ私の身体に馴染みきらず、どこか借り物めいていたが、同時に確かな“質量”としてそこに在った。


その重さこそが、私の“存在”だった。


講義室の中に、一瞬の沈黙が流れる。

私は、ただ俯いて席に向かって歩く。

誰の目も見ない。

声も出さない。


視界の隅で、数人の視線が私に突き刺さっていた。

言葉にはならないざわめきが、空気を濁らせる。

私はそのざわめきを、音ではなく“温度”として感じていた。

肌を撫でる湿度のように、纏わりついて離れない。


初めての講義は、それだけで精一杯だった。

手元のノートに書いた文字は、震えていた。ペンを持つ指が冷たく、汗ばみ、滑りそうになった。


でも、帰り道。

私は確かに笑っていた。

口元ではなく、内側で。

胸の奥で小さく芽吹いた何かが、そっと微笑んでいた。


***


それから、私は何度も同じ扉を開いた。

日に日に服装は洗練され、足取りは滑らかになった。


けれど、誰とも話さなかった。

視線はいつも伏せたまま、まるで透明人間のように振る舞った。


けれど、それでよかった。

私にとって大学は、他者との関係性を築く場所ではない。

“私自身”の輪郭を磨き上げる、静かな彫刻室だった。


スカスカのブラジャーに詰めたシリコンパッドは、肌に吸い付くように私を包み、歩くたびにわずかに揺れた。

その柔らかさは、男であった“山岡直哉”にはなかった感覚だった。


“私”は、もうここにはいない――

そう思いたかった。


夕暮れが濃くなる頃、私は決まってひとりの部屋に戻る。

厚手のカーテンを半分だけ開けて、月の光を呼び込む。

それは人工の照明とは違う、どこか冷たく、そして慈悲深い光だった。


ブラジャーを外すと、パッドの形がほんの少し肌に残る。

私はそれを指で撫でる。

一日の終わり、誰にも見られないその瞬間こそが、最も濃密な“私”との邂逅だった。


鏡の中、月光を浴びた私の顔はどこか透明で、輪郭がゆらいで見えた。

男でも、女でもない。

けれど、確かに“美しいもの”としてそこに在る。


完成されることのない美。

永遠に、未完成であり続けるということ。


それは呪いではなかった。

祝福だった。


私という存在が、“直哉”という名を脱ぎ捨ててゆくための、静かな儀式だった。


私はその夜、月に照らされながら、もう一度だけブラジャーを身に着けた。

誰にも見せないために。

私だけのために。

そして、柔らかさの重みを胸に感じながら、私は静かに瞼を閉じた。


その柔らかさが、何よりも確かな“私の証明”だった。

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