第2章 本物より、私の方が綺麗②
2.2 新しい部屋、新しい名前
2.2.1 棄却の手つき
段ボールの山が、静かに部屋を侵食してゆく。
蛍光灯の下、茶色の紙肌が無数の影を落とし、部屋の輪郭を曖昧にしていた。
壁際に積み上がった箱の隙間から、私は膝をついて、一つひとつの“過去”を取り上げては、選別していく。
作業の途中で指先に触れたのは、薄く埃をかぶった黒いフォトフレームだった。
中に収まるのは、三人で写った家族写真。
誰もが笑っている。
けれどその笑みは、すべて“直哉”に向けられていた。
私ではない“誰か”に。
父の手が、肩に置かれている。
母は少し首を傾けて、私に寄り添っている。
写真の中の“私”は短髪で、制服を着て、居心地の悪そうな笑みを浮かべていた。
今思えば、あの時すでに、私はもうこの身体を抜け出したがっていたのかもしれない。
フレームのガラス越しに見えるその視線が、ふと鋭く胸に刺さった。
ああ、これはもう私を祝福するものではない。
過去のまなざしは、今の私を裂く刃だ。
名を呼ぶ声すら、過ちのように響く。
私はそっとフレームを外し、中の写真だけを取り出す。
そして、折る。
真ん中から静かに、ひとつ、ふたつ。
断絶のように、儀式のように。
音を立てないように、それでいて確かに“別れ”がわかるように。
折り畳まれた紙片は、ごく普通のゴミ袋へと収まった。
けれどその内側で、私は一枚の皮膚を剥いだような感覚に包まれていた。
痛みはない。
ただ、冷たい空気が、素肌に触れる。
続いて、卒業証書。
表面の金文字が僅かに剥げている。
けれどそれを広げることはしなかった。
その紙の上に刻まれた名前は、もう“使用期限”を終えている。
封印ではない。
これは脱皮だ。
脱ぎ捨てるのは、死ではない。変化のための身軽さ。
他にもあった。
少年時代のアルバム、伯母から届いた誕生日カード、誰のものかわからない寄せ書き。
どれも皆、“彼”に与えられた記憶であり、名であり、役割だった。
私はそれらを、一つひとつ確かめるようにして袋へ入れた。
乱雑にではない。
まるで供養するように、手を添えて。
その夜、部屋は不思議なほど静かだった。
家具も書類もほとんどが段ボールの中に収まり、残されたのは小さな机と、一枚の名札だけだった。
プラスチックの小片に刻まれた黒い文字。
「山岡直哉」
私はそれを手に取ると、窓辺へ歩いた。
外には誰もいない。
人通りのない夜道と、電柱の影だけが伸びていた。
私は名札を掌の中央に置き、もう一度その名を見つめた。
“直哉”
もう何の温度もなかった。
ただの記号。
過去の残り香。
私を私でないものに縛るための、薄い仮面。
私はそれを、そっと両手で割った。
ぱきり、と小さな音がして、名札は二つに裂けた。
破片を指先でしばらく弄んでから、私は窓を開けて、夜の風の中へ投げた。
音もなく、黒い夜に吸い込まれていった。
そして私は窓を閉じ、背中を壁に預けたまま、ゆっくりと息を吐いた。
“私”という形が、またひとつ、静かに輪郭を得た。
2.2.2 契約と名の誕生
午前9時の列車は、ほとんど空に近かった。
端の席に腰を下ろし、私は鞄を膝に抱えたまま、窓の外へ視線を滑らせていた。
新幹線でもなく、特急でもない、ごく普通の快速列車。
白い蛍光灯に照らされた車内には、乗客の足音と車輪の振動音だけが微かに響いていた。
スピーカーから流れる駅名のアナウンスすら、私には遠く、他人の国の言葉のようだった。
ガラス越しの景色は、めまぐるしく移ろっていた。
住宅街、河川、工場地帯。
コンビニの看板や信号機、人々の背中。
それらすべてが私に何の関係もないという、その冷たい無関心が心地よかった。
まるで私が透明になったような――
いや、“まだ誰でもない私”になっているような、そんな感覚。
車窓に映る私の顔は、少しだけ髪を巻いていた。
昨日の夜、最後にひとりで泊まったビジネスホテルの洗面台で、ドライヤーを握りながら形づくった輪郭。
黒いボブが頬を撫でて、マスクの下から覗く唇にうっすら色を足してある。
明らかに“男”ではないけれど、まだ“女”とも言い切れない、ゆらぎの只中。
だが私はその不確かささえ、愛おしいと思っていた。
やがて列車が目的の駅に着き、私は人混みに紛れてホームを歩き出す。
初めて訪れる町だった。
地図で何度も確認し、不動産屋とのやり取りも済ませた場所。
でも、初めてはやはり、風の匂いも、光の質も異なる。
どこか緊張を孕んだ空気の中に、私はわざとゆっくりと歩いた。
まるでこの町が私を受け入れる速度を測るように。
不動産屋の看板は商店街の一角にひっそりと埋もれていた。
自動ドアが開き、事務的な笑顔の女性が「お待たせしました」と声をかけてくる。
私は軽く頭を下げ、予約していた内見と契約の旨を告げた。
通された応接スペースは味気ないほどに清潔だった。
白いテーブル、合皮の椅子、スチール棚。用意された書類の束が、机の上でわずかに膨らんでいる。
私はその最上面に置かれた“入居申込書”に視線を落とす。
そこにある――「氏名」欄。
ペンを手に取る。
ごく普通の黒ボールペン。
だがこの瞬間、それは私にとって“刀”だった。
制度という厚い壁に風穴を開ける唯一の道具。
私は深く息を吸い、手首の力を調節しながら、ゆっくりと記した。
岡村菜々子
曲線のなかに自分の骨格が埋もれていく。
ペン先のぬめりが紙の上を滑るたびに、私は“現れる”。
これはサインではない。
これは誕生だ。
名という仮面ではなく、名という肉体を、私はここに生やしてゆく。
職員が淡々と書類を確認していく。
「こちらでお間違いないですね、岡村さん」と言われたその瞬間、私は内側で軽く震えた。
この人は、私を“岡村菜々子”として扱っている。
それだけのことが、胸の奥でひどく温かかった。
血が正しい管を流れたような、そんな安心。私は唇の端をほんの少しだけ持ち上げ、「はい」と答えた。
契約は驚くほど事務的だった。
金銭の確認、鍵の受け渡し、緊急連絡先の空欄に関する簡単な説明。
それらを終え、不動産屋を出たとき、町の光が一段だけ柔らかくなったように感じた。
新しい部屋は、駅から十分ほど歩いた場所にある。
小さなワンルーム。
築年数は古いが、清潔にリフォームされていた。
玄関の鍵を回し、扉を押し開ける。
軋む音が鳴り、私は一歩、内へ足を踏み入れる。
そこには、まだ何者の気配もなかった。
カーテンすらない窓から陽が差し込み、木の床に淡い光の矩形を描いていた。
私は鞄を足元に置き、ドアを閉める。
かちり。
その音が、胎内のような静寂を作り出す。
私は誰にも見られないその密室で、そっと目を閉じる。
この空間にいるのは、“岡村菜々子”ただ一人。
もう「直哉」はどこにもいない。
私はこの部屋で、制度のなかに胎動し、皮膚を持ち、社会の網膜に映る存在として、正式に“生まれた”のだ。
呼ばれたい名で、呼ばれる世界へ。
そして私は、ひとり、小さく笑った。
2.2.3 夜の社会、最後の声
夜のスーパーは、静かな劇場のようだった。
自動ドアが開くと、冷気が脚元を撫で、蛍光灯の下で光沢を帯びた床が現れた。
私はその上に、ヒールのない白いスニーカーでそっと足を運んだ。
ボブの髪は肩先でわずかに揺れ、コートの中にはワンピース。
ポケットの中の右手は、スマートフォンを握りしめたまま、ぎこちなく緊張していた。
買い物かごを手に取った瞬間、背後にいた中年男性の視線が、私の肩のあたりに釘付けになるのを感じた。
通り過ぎていく女子高生たちの笑い声、すれ違う母親と子供の会話。
彼らの誰もが、私を“女”として認識している――
少なくとも、そのように振る舞ってくれている。
棚から豆腐を取るとき、指先が少し震えた。
レジに並ぶと、隣のレーンにいた若い女性が、こちらをちらりと見て目を伏せた。
その仕草は、女同士が互いを値踏みするときの癖に似ていた。
私はそれを、奇妙な歓びとして受け取った。
けれど、順番が近づくにつれ、喉の奥が急激に乾いていった。
「いらっしゃいませー」
レジ係の青年が機械的に挨拶する。
私は、黙ってかごを差し出した。
「ポイントカード、お持ちですか?」
声を出せば、崩れるかもしれない。
少しでも音が低ければ、「あれ?」と眉をひそめられるかもしれない。
だから、私は首を横に振るだけにした。
「袋、いりますか?」
こくん。
「合計で546円です」
財布を開き、小銭を数える。
私はひと言も発さなかった。
レシートを受け取ると、ぺこりと小さく頭を下げ、その場を離れる。
言葉が出せない。
声がまだ、私に追いついていない。
それでも――
スーパーの自動ドアが閉まったとき、私は確かに「社会の中」にいた。
しかも、女として。
駅前のロータリーを歩き、ホームに降りる階段を見上げる。
そこには、「女性用トイレ」の案内板があった。
鏡の前でメイク直しをする若い女性たち。
私はその脇を、何気ない顔で通り過ぎる。
扉を開け、個室に入り、鍵をかける。
膝を閉じる。
香水の残り香が漂っていた。
薄暗い空間のなかで、私はひとり、無言のまま「存在」を呼吸した。
誰にも否定されない。
誰にも「男」として見られない。
ただ、“私”でいられることの、何という幸福。
アパートの前に着き、ポストを覗く。
チラシ、公共料金のお知らせ、そして私宛ての郵便物。
「岡村菜々子様」
活字で綴られた名前の美しさに、指先が少し震えた。
これが、制度が認める“私”の痕跡。
まるで初潮のように、それは生々しく、そして誇らしかった。
部屋へ戻り、玄関の鍵を閉める。
光は、遮光カーテンの隙間から、かすかに床へ滲んでいた。
コートを脱ぎ、コンビニの袋をテーブルに置き、スマートフォンを取り出す。
通知が、ひとつ。
母からの着信だった。
時刻は、今日の昼過ぎ。
知らない番号が並ぶ通知一覧の中に、そのたった一つだけが、異質な“温度”を孕んでいた。
震える指で、留守番電話を再生する。
「直哉……」
その声を聞いた瞬間、私は胸を強く締めつけられた。
「……引っ越したって、ほんと?お父さんも、びっくりしてて……。あの……連絡くらい……してほしいのよ……」
その声は、私のいない部屋の中で、過去に向けて投げられていた。
「元気でいるなら、それでいいの……けど、でも……やっぱり……」
途切れたその言葉に、私は答えられなかった。
もはやその名前は、私ではなかった。
直哉は、過去形の人間だ。
今ここにいるのは、岡村菜々子。
ただそれだけ。
それでも、声を聞きたかった。
ためらいの末、私は通話ボタンを押した。
数秒の呼び出し音。
受話器の向こうで、かすかな空気の気配。
「……直哉?」
懐かしい声。
私は、なにも言わなかった。
呼吸だけを押し殺しながら、黙って耳を傾ける。
沈黙の中で、声が、音が、母という存在が、私の胸の奥を優しく掻き回す。
だが、言葉にしてしまえば、何かが壊れる気がした。
「……いるの?」
私は、そっと通話を切った。
窓辺に立ち、カーテンを少しだけ開ける。
夜の空に、淡い月が浮かんでいた。
やわらかな光が床にこぼれ、私の影が静かに伸びる。
私は、唇の内側でつぶやいた。
「私はもう、戻らない」
その言葉は誰にも届かないが、確かに、私自身へと刻まれていた。
翌朝、私は携帯電話ショップへ向かい、解約の手続きを済ませた。
サインをし、SIMカードを外され、端末はただの機械へと戻った。
これでいい。
これで、すべてが終わった。
そして、すべてが始まるのだ。
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