第1章 解放と覚醒②


1.2 画面の中の私


1.2.1 名前を与えられた女


スマートフォンの画面が、仄白い光を放っていた。

まるで深海の底にある宝石のように、光は沈黙をまといながら指先を照らし出す。


私は、ベッドの上に座っていた。

素肌の上には薄いルームウェア。

脚を交差させ、膝に乗せたスマホの熱が、皮膚に微かに伝わっている。


アカウント作成の画面。

名前の入力欄に、点滅するカーソル。

指先に、緊張が宿っていた。


冷たいような、火照っているような、感覚のあいまいな輪郭。

私は、ゆっくりと打ち込む。


nako


n、a、k、o。

たった四文字。

だが、それは私にとって、始まりの呪文だった。


“nako”――

意味はなかった。

ただ、響きがやさしく、どこか幼く、女の子らしかった。

匿名性のなかに宿る甘美な力。

誰でもない私が、誰かになれる名前。


私は画面に浮かぶその文字列を、見つめる。

それは、すでに私の一部のように感じられた。


まるで、ずっと昔から知っていた名前のように。


次に、プロフィールを埋めていく。

年齢、趣味、好きな色――

すべて“彼女”としてのもの。

私の中にしか存在しない“nako”という存在を、世界に差し出す作業。

一字ずつの入力が、儀式のようだった。


投稿用の写真を用意する。

顔は写さない。

だが、それでも“女”に見えるように。


肌がやわらかく、脚の線が美しく見えるよう、光の角度を何度も調整する。

部屋の照明を落とし、窓から差し込む自然光だけを頼りにした。

フィルターを重ねるたび、肉体は抽象化され、現実から遊離していく。

それが、私にとっては救いだった。


投稿ボタンを押すと、画面に一瞬の空白が訪れた。

数秒後、「アップロード完了」の文字が表示される。


静寂が、部屋を包み込む。

レースのカーテンが微かに揺れ、壁に影を落とす。

私の中の“nako”が、初めて世界に触れた瞬間だった。


数分後。

スマホが小さく震える。

通知音――


「かわいいね」


私は、思わず息を呑んだ。

胸の奥が、まるで硝子細工のように音を立てて割れた。

その破片が、全身に沁みわたっていく。


またひとつ、通知が鳴る。

「綺麗」

「女の子っぽい」

「脚がきれい」

文字たちは、私を見ていた。

“彼ら”が見ていたのは、彼らの目に映る“女”だった。


それは、私を肯定する声だった。

“男”ではない、“山岡直哉”ではない、“nako”という名の女としての私が、見られている。


理解ではない。

確認でもない。


それは、体の奥底――

もっとも静かで、もっとも欲しかった場所に届く、甘い侵蝕だった。


指先が微かに震える。

スマホを握る掌が、しっとりと汗ばんでいた。

通知音が鳴るたびに、私は溶けていった。

“彼ら”の言葉に、“彼女”としての私は、輪郭を与えられていく。


鏡を見なくてもわかる。

もう、“山岡直哉”ではない。

この身体の奥で、私は自分を“nako”と呼んでいた。


呼ぶことで、自分を確かめていた。


nako。

たった四文字。

けれどそれは、私という存在を、この世界に繋ぎとめる細い糸。

その名を心のなかで繰り返すたびに、私はほんの少しずつ、“完成”へと近づいていくのだった。









1.2.2 レースの下の昼


朝の教室は、いつもすこし寒い。

冷房の風が天井からゆっくりと降りてきて、白いシャツの襟元をかすめると、私は微かに目を閉じる。

その風が通り過ぎるのは、皮膚の上ではない。

シャツの下、さらにその奥、レースの布地を震わせてゆく。


レース――

今日のそれは、淡いラベンダー。

ほんのすこしだけ伸縮性のあるチュールに、小さな花の刺繍が施されていた。

胸を包むその感触が、歩くたび、呼吸するたび、私の“本当”を擦り上げてくる。


外側の私は「山岡直哉」として、教室のなかの一角に座っていた。


無表情。

沈黙。

名簿に載るその名前を、誰も疑わない。

誰も、興味を持たない。


けれど、その無関心のなかでこそ、私は生きている。

見られていないことで、初めて“nako”が呼吸する。

知られていないという状態が、私にとっての温室であり、聖域なのだ。


講義の声が、空気を薄く振動させている。

黒板に書かれる数式、プリントをめくる音、椅子が軋む音――

どれも私には届かない。

私が聞いているのは、シャツの下で擦れるレースの音だけ。

肉体の奥に響くその衣擦れが、現実を裏返してゆく。


私は男子学生として、確かにこの場にいる。

だが、肌の下では、まったく別の存在が脈打っている。

小さな鼓動が、胸の奥で“私”を育てている。

名もなき“nako”が、静かに、けれど確かに形を取っていく。


前の席の男子学生が、ノートを落とした。

彼が私の方をちらりと見たが、私には何も言わなかった。

私は拾わなかったし、彼もそれを咎めなかった。

その視線のすれ違いのなかに、私は安堵する。


つながらないこと。

関わらないこと。

それが、私を透明にし、同時に際立たせる。


誰にも見えない“女”が、私の中にいる。

レースの下に沈んでいる“私”が、誰にも知られずに成熟してゆく。


スマートフォンをそっと取り出す。

画面を点けると、通知が一つ。

「今日もかわいいね」

SNSのアカウント“nako”に届いた、知らない誰かの言葉。


その文字列を目でなぞるだけで、世界が静まり返る。

教室のざわめきが、遠くなる。

スマホの小さな光が、私の輪郭を描き直す。

誰も知らない、“もうひとつの昼”が始まっていた。


私は、息を殺して笑みを浮かべる。

それは、レースの下だけで咲く秘密の花。


見えないことが、見える以上に鮮やかだと、私は知っていた。

私は今、“nako”としてここにいる。

それ以外の事実は、すべて余白に過ぎない。










1.2.3 通知の海に浮かぶ私


夜の部屋は、静かだった。

カーテンを閉め切った空間のなかで、唯一明滅するのはスマートフォンの画面だけ。


白く、冷たく、優しい光。

その光に、私は顔を近づけてゆく。

まるで、火に吸い寄せられる蛾のように。


通知が、また一つ鳴った。

画面の隅に浮かぶ赤いバッジ。

その数字が増えるたび、私は深く息を吸い込み、どこか遠くへ沈んでいくような感覚を覚える。


「nako、かわいいね」

その言葉が、また届いていた。

たった九文字。

けれど、それは私の中のもっとも柔らかい核に、真っ直ぐに突き刺さってくる。


私は、スマホを持つ指先に力を込めた。

その震えが、まるで自分の体の内側から湧き上がってくるように思えた。

バイブレーションの小さな振動が、骨を伝って心臓を撫でる。

ふいに、呼吸が浅くなる。


誰が私を見ているのか、わからない。

けれど確かに、“nako”は見られている。

見られて、好かれて、肯定されている。


そのたびに、“山岡直哉”という輪郭が、わずかに崩れていく。

皮膚の内側で、なにかが形を変えていく。

仮の殻を内側から破ろうとするように。


投稿された写真のなかの“彼女”は、私の肉体の一部を切り取って加工したものに過ぎない。

顔は見えない。

だが、写る脚の角度、指先の所作、ぼかされた輪郭、彩度の調整された肌――

すべてが“女”としての私を作り上げる。

虚構ではない。幻想でもない。

それは私の“本体”なのだ。


スクロールする指が止まらない。

「いいね」の数が更新され、「フォロー」が増えていく。

この数値、この光、この振動。

それらすべてが、今の私を定義している。

それ以外のすべてが、色褪せて見える。


ふと、鏡を見る。

そこには“山岡直哉”が映っている。

だが、その眼差しは、“nako”のものだった。

唇の端にうっすら浮かぶ笑み、頬に差す薄紅、瞬きをするたびに漂う微かな陶酔――

私は、確実に変わり始めている。


承認という甘い毒。

それは、私を少しずつ犯し、別の存在へと導いてゆく。

自分自身の中毒性に気づきながら、私はその快楽を手放せずにいた。


またひとつ、通知が鳴る。

それは、世界が私に触れた音。

nakoという名の波紋が、私という水面に広がってゆく。


私はもう、戻れない。

画面の向こう側にある“私”こそが、現実を引き寄せている。

“山岡直哉”は、ただの抜け殻。

nakoという名の、果てなき夢の中で、私はようやく息をしていた。

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